不穏のはじまり

第11話

「ちょっと夕羅さん! 足元、気を付けて!」

「別にもう大丈夫だって〜、菜々子大袈裟過ぎ」


 夕羅が住むアパートの外階段を1段ずつ登る度に声掛けをする菜々子。それに対し、夕羅は怠そうに文句を言う。口では大丈夫だと言い張るが、一希が働く男装カフェでこの日新しく入れたスコッチのボトルを、1人で半分近く空けるまで飲んでいたのを菜々子は目撃している。酒豪の夕羅とは言え、これは流石に飲み過ぎだ。


「鍵、鞄の何処にある?」

「えーっと、多分真ん中のポケット」

「これ? もう、こんなとこ入れてたらいつか酔っ払って失くすよ!? ちゃんとファスナー付いてる内ポケットに仕舞わないと」

「菜々子、母親みたいなこと言うね〜」

「声大きい。夜の住宅街だよ」


 夕羅のジョークを受け流し、菜々子は夕羅の鞄から鍵を取り出して玄関のドアを開けた。すると夕羅はすぐさま部屋に入り、靴を脱ぎ捨ててトイレに向かう。


「ヤバい、流石に気持ち悪いわ……」


 便器の前まで辿りついた瞬間嘔吐したので、菜々子は心底ホッとした。


「間に合って良かったね……電車の中とかドキドキしたもん」

「ばーか何言ってんの、私は絶対外で粗相はしないから」


 とは言いつつ、完全に便座に突っ伏した状態だ。菜々子は冷蔵庫の中を覗き、飲みかけの水のペットボトルを見つけて夕羅の側に置いた。スマホで時間を確認すると、まだギリギリ電車で帰宅出来る時間帯である。


「じゃあ、私はそろそろ帰るね」

「ええ、帰るの……? エッチしないの?」

「しないよ!! 明日私は仕事だし……っていうか、夕羅さんがそんな状態なのに出来るわけないでしょ」

「大丈夫〜、もうちょっとしたら回復するから〜」


 言った側からまた嘔吐する夕羅に菜々子は顔をしかめる。ここまで泥酔した夕羅を見たのは初めてで、何故こうなってしまったのかを考えると、やはりミッキーがいなかったことが大きいようだ。


「ゲロ味のチューは勘弁して欲しいんで、私は帰ります。ちゃんとベッドで寝てね、夕羅さん」

「え〜菜々子冷たい……なーんか幹雄も最近付き合い悪いし、菜々子にも素っ気なくされたらマジでつまんないじゃん……」

「冷たくないよ、家まで送ってあげたんだから。家着いたらまた連絡するね」


 情けを掛けるとズルズル夕羅の思惑通りになりそうな予感がしたため、菜々子はさっさとその場所を後にした。


 この日は一希がいる男装カフェがハロウィンイベントだったため、菜々子は夕羅に誘われて飲みに行ったのだが、待ち合わせ場所にはミッキーは居なかった。夕羅曰く、最近誘っても断られるとのことだ。どうせタクミとか言うゲイバーキャストとよろしくしてるんだ、自分との付き合いより恋人を優先するなんて許せない……と夕羅は不貞腐れていた。

 友達と恋人のどちらを優先するかと聞かれると、自分もどちらかと言えば恋人の方を取るかもしれないと菜々子も思ったが、今回のような派手めな飲み遊びの時にミッキーがいないのは若干不安ではある。そしてその予感は的中し、夕羅は男装カフェでしこたま酒を飲み、一希にもスキンシップという名のセクハラをしまくっていた。以前一希から夕羅に対する本音を聞いていたので、セクハラ現場を目撃する度に菜々子は一希を心配し、複雑な気持ちになる。そして夕羅の行動はどんどんエスカレートしていき、冗談か本気かは不明だが酒を口移しで飲ませようとしたのだ。それを他の客に指摘されてしまい、危うく喧嘩騒ぎになるところだった。もしミッキーというストッパーがいれば、こうなるのを防げていただろう。夕羅に付き添う友人として、もっと責任感を持たなくては……と菜々子は自分に言い聞かせつつ、溜め息を吐いた。

 それにしても他の客が言っていたように、正直いつ一希が店を飛んでもおかしくない状況だ。夕羅はもしかしたら自分が一希を苦しめているのかもしれないと、立ち止まり冷静になって考えた事はないのだろうか。このことも友人として厳しく意見するべきだな、と菜々子は帰宅しながら思った。











“幹雄! 最近既読遅くね?”

“掘ってる最中? 笑”

“おーい”


 とある日に菜々子、夕羅、ミッキーの3人で組まれているグループチャットにて1人メッセージを連投する夕羅。それを仕事の昼休憩中に菜々子は確認した。

 確かに最近このグループチャットでやり取りをしても“既読1”にしかならないことがよくある。3人しかいないグループチャットで既読1ということは、自分が投稿したメッセージを読んでいるのは1人……夕羅だけということになる。ミッキーの分の既読が付いたとしてもあまり返答はなく、殆ど菜々子と夕羅2人のやり取りばかりが並んでいる。こんな若干煽りのようなメッセージを投げ掛ければ、今までのミッキーならすぐにジョークで返答していたのだが、夕羅の連投の後に何も反応がない。もしかしたら仕事で忙しいのかもしれないが、明らかにミッキーの様子がおかしいと菜々子は感じていた。


“ミッキーさん、何かあった? 夕羅さんには言いにくいことがあるのかな?”


 菜々子はグループチャットではなく、ミッキーに直接メッセージを送った。すると数分後、ミッキーから着信があった。菜々子は急いで休憩室から出て、静かな廊下で着信を取る。


「もしもし、ミッキーさん? どうしたの?」

「菜々子ちゃん……」


 スマホ越しに聞こえてくるミッキーの声は元気がなく、何処か思い詰めているような気配があった。やはり菜々子の読みは当たっていたようだ。


「あんな感じだけど、多分夕羅さんも気に掛けてると思うんだよね。私で良ければ話して? 夕羅さんに話したくないことなら、私の心の中だけに留めておくからさぁ」

「菜々子ちゃん、アタシ……タクミと別れたんだ」

「そうなの!? そっか……それじゃあ、今はしんどい時期だよね……」


 恋人との別れは確かに落ち込む原因ではあるだろうが、問題はそれだけではないような気がする。菜々子はミッキーが話しやすいように聞き手に徹していると、ミッキーは意を決したようなトーンで言葉を続けた。


「それだけじゃないの……実は、タクミがHIVに感染したみたいで」

「え!?」

「それで……パートナーであるアタシも検査を受けることなって……」

「ミッキーさん、会って話聞くよ! 今日の夕方時間作れる?」


















 菜々子は仕事が終わると、ミッキーと会う約束をしたカフェへと急いだ。待ち合わせ時間のギリギリに到着し、店内を見渡すと一番奥の席にミッキーはいた。


「お待たせ、ミッキーさん」

「ううん、お仕事お疲れ様」


 ミッキーは笑いかけるが、いつものようなハツラツとした表情ではない。菜々子はミッキーと同じくホットコーヒーを注文し、ミッキーから話し始めるのを待った。しばらくして菜々子が注文したコーヒーもテーブルに到着し、伝票を置いて接客スタッフが立ち去ると、ミッキーは少しずつ話し始めた。


「数日前にタクミが改まったような感じで、アタシに話があるって言ってきたの。自分が感染したから、アタシにも検査を受けて欲しいって。性病にかかったらパートナーには報告しないとダメだからね……その時点でアタシではない、別の人間からタクミは感染した、イコール浮気してたってわかっちゃったワケ」

「そっか……それはすごく、ヘビーだよね」

「そうでしょ? ちょっと生々しい話になって悪いんだけどさぁ、アタシたちゲイのセックスって男女のカップルより色々と大変なのよ」

「そうなんだ」

「そうよー、肛門の洗浄とか、ローションで解すとか下準備があるの。まぁどんだけ慎重に準備しても、その日の体調によってはハプニング発生もあるんだけどね……あ、ご飯食べるような場所で言うことじゃないわね、ごめんね」

「う、うん……」


 ミッキーはなるべくライトな言葉選びをしているが、ゲイカップルのリアルな性生活事情を聞いて菜々子は思わずたじろいでしまう。決して腐女子が妄想するような美しい光景ばかりではないのだ。


「だからぶっちゃけ、アタシはタクミとはほんの数回しかしてなかったの。その数回だってちゃんとコンドームを着けてた。アタシはセーファーセックスを心掛けたり、タクミの身体の負担を考えてプラトニックな恋愛をしようとしてたのに、他所で生でヤって病気貰うなんて酷いと思わない? まぁタクミは若いし可愛いから仕方なかったのかもしれないけど……実際モテてたし? 以前ウリやってたとは聞いてたけど、問い詰めたらアタシと付き合うようになってからもやめてなかったって白状したわ。ほんと酷い仕打ちよ」

「そうだね……それもキツイと思うけど、ミッキーさんの感染リスクは大丈夫なの?」

「まぁ、可能性はすごく低いと思う。さっきの話と重なるけど、HIVはゲイやバイの男性と生でセックスをして感染してしまうケースが多いのよ。そしてキスやハグなんかでは感染しない。アタシとは生でヤってもなければ、そもそも殆どしてないし。だから自分の感染についてはそんなに心配してないんだけど、それよりもやっぱ精神的ダメージの方が大きい、って感じよね」


 聞くとミッキーは既に検査は受けたようで、今は検査結果を待っている状態のようだ。だが例え自身の感染リスクが低いとしても、結果が出るまでは夜遊びは控えようと思っていて、そういった理由で最近は夕羅の誘いをスルーしていたのだと説明した。そして、例え検査結果が出て問題がなかったとしても、ミッキーは夕羅にはこのことを隠していたいらしい。


「アタシ、夕羅は気遣いなく付き合える友達だとは思ってるのよ? でもアイツって恋愛しない主義だから、アタシが抱えてる苦しさは理解して貰えなさそうだなって……最悪“感染してなかったんなら別に良かったじゃん”ぐらいのこと言ってきそうだなって思っちゃうのよ」

「そんなことは……」


 菜々子は否定しようとしたが、ないとは言い切れないのかも……と途中で言葉を切ってしまった。夕羅と関係を持つ前は優しくて頼れるお姉さんのように見えていたが、それは単に菜々子をモノにするためにカッコつけていただけで、最近見る強引で破天荒な姿こそが本当の夕羅なのだ。恋愛をしない主義の夕羅にパートナーに裏切られて傷ついていると打ち明けても“ならば自分のように恋人は作らず、割り切った関係で安全な性交渉だけをすればいい”というような提案をしてきそうだ……と、菜々子はそんなネガティブな想像をしていた。


「でもさ、ほんと菜々子ちゃんは優しいわね。今日2人で話せて良かったわ……ほらアタシたち、3人で会ってると基本ベロンベロンに酔っ払ってる状態ばっかじゃない?」

「確かに……でも、しんどいと思ったら本当にいつでも言ってね? こうやってお茶しながら聞くのでもいいし、電話でもいいし。夕羅さんを通して知り合ったけど、私はミッキーさんのこと大切な友達だって思ってるから」

「ありがと。……じゃあ、親しみを込めてアタシも菜々子って呼んでいいかしら?」

「全然いいよ! っていうか、夕羅さんもいつの間にか私のこと呼び捨てだったし。だったら私も、これからはミッキーって呼ぶね」


 今更お互いの呼び方を確認するだなんておかしなことだと、菜々子とミッキーは笑い合う。待ち合わせた頃に比べて、ミッキーの表情が大分明るくなっていることに菜々子はホッとするのだった。


 カフェを出て解散した後、ミッキーはグループチャットを既読し、放置された夕羅の連投に返答する。


“うっさいわねー、下品な詮索してくんじゃないわよ!”


 少しだけ止まっていた時間が、また動き出した。

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