侵食

第5話

午前10時頃、菜々子は誰もいない自宅に帰ってきた。幸いにも二日酔いにはならなかったようだが、それにも勝る体験をしたことによって、ずっと足腰がガクガクしたままなのである。今日仕事が休みであることに安堵あんどしつつ、自宅のベッドで寝転びながら昨晩の出来事を回想する……。


 今でも本当にあった事なのかと、夢だったのではないかと疑ってしまう。だが、間違いなく自分は夕羅が住むアパートからこの家まで帰ってきたのだから、事実なのだと認めるしかない。朝、夕羅の家のベッドで目覚めた時には夕羅の姿はなかった。ベッドの側にあったミニテーブルに小さなメモと鍵が置いてあり、メモには“私は仕事だから先に家を出ます。鍵預けとくね”と書かれていた。飲み会の後に夜更けまで色々あって、恐らく2時間ぐらいの睡眠だった筈なのにタフなんだなぁ、と菜々子は読みながら関心した。


 次に夕羅と職場で顔を合わせた時、自分はどんな風になるのだろうか、と菜々子は頭を悩ませていた。昨夜の一件で自分の中では完全に関係性が変わったと思っているので、今まで通りの距離感で接する自信がないのだ。でも避けたり、様子がおかしい素振りを見せれば周りに不審がられるだろう。夕羅曰く、彼女の性的指向を身近で唯一知っているのは彩奈らしい。彩奈は菜々子が夕羅の家に行くことになった経緯も知っているため、もし2人の間で変な空気が漂っているところを目撃されると簡単にバレてしまうような気がする。夕羅がどのように考えているのかは不明だが、菜々子は夕羅とのことを身近な存在には知られたくないと思っていた。万が一周りに知られた日にはきっと恥ずかしさと気まずさで離職してしまうだろう、とも……。


 その時。突然サイドテーブルに置いていたスマホが振動し、ドキッとする菜々子。画面を確認すると、浩司からの着信であった。


「……もしもし?」

「おー、出た出た。ずっと既読スルーされてたんだけど、なんか忙しかった?」


 菜々子はハッとした。メッセージアプリの通知がいくつかあったのには気付いていたのだが、内容の確認までは出来ていなかった。夕羅とのことは勿論職場にバレてはいけないことだが、それ以上に浩司にもバレてはならないことなのだ。必死に動揺を隠しながら、浩司との会話を続ける。


「ごめんね、昨日職場の飲み会だったから……ちょっと疲れちゃってて」

「あー。言ってた懇親会か。今日会うのって大丈夫そ?」


 またしても自分の迂闊さにヒヤッとする菜々子。懇親会の次の日を休みにしていたので、夕方から仕事終わりの浩司と会う約束をしていたのだった。


「うん……昼はゆっくり過ごすから、夕方には元気になってると思う」

「了解ー、じゃあ詳しいことはまた後で連絡するわ。俺もうすぐ休憩終わるから」

「わかった。忙しいのにありがとう」


 とりあえず通話を終わらせる事が出来て、菜々子はホッと一息をついた。改めてメッセージアプリを確認してみると、昨夜の終電を逃した頃に“明日何時に何処で待ち合わせ?”というのが1つ、深夜の恐らく夕羅と濃厚な時間を過ごしていた頃に“飲みすぎてない?”というのが1つ、そして朝方に“おはよう。とりあえずメッセージ確認したら連絡ちょうだい”というのが1つ……。菜々子は浩司が束縛強めの性格ではなかったことに感謝した。人によっては鬼メッセージからの鬼電に発展してもおかしくない。

 だが、浩司から疲れていないか気遣いの言葉もあっただけに、罪悪感が込み上げてくる。夕羅は自分とのことは浮気に入らないと言っていたが、やはりあれは立派な浮気行為だろう。自分の優柔不断さが招いた状況だ。なんとか問題に発展しないように気を付けなければ、と菜々子は気を引き締めるのであった。











 夕方18時過ぎ。菜々子は待ち合わせ場所で浩司の到着を待っていた。浩司の就業先から一番近い街で食事をするという約束で、駅前交番を待ち合わせ場所として指定されていた。到着がギリギリになってしまうかもしれないと、向かう電車の中では焦っていたのだが、少し残業をしたから数分遅れるというメッセージが浩司から送られてきていた。それを確認して心に余裕が出来た菜々子は、待ち合わせ場所に到着してからもスマホを弄りながら気長に過ごしている。


 一通りSNSをチェックすると、数少ない学生時代からの友人達が充実・キラキラした日常の写真を投稿している。スクロールする指を早めてさっさと最新投稿の閲覧を完了させると、今度はマッチングアプリにメッセージや反応があったことを知らせる通知を目にした。マッチングアプリを開くと、以前やり取りをしたことがある男性からの未読メッセージが溜まっていたり、菜々子のプロフィールに数件“いいね”がついていることが確認出来たり……。彼氏がいる間はログインをしなくなるので、菜々子にとってこの“未確認通知のイッキ見”はあるあるなのだ。そういえば、付き合い始めてから浩司はこのアプリを削除したのだろうか。かつて交際相手のスマホを覗き見して後悔したので菜々子は一切見ないようになったのだが、気になるところではある。自分が交際後も削除していないのに言えることか、と突っ込まれると痛いのだが。




「ごめん、遅くなった」


 そうこうしているうちに仕事終わりの浩司がやってきた。菜々子はマッチングアプリをサッと画面から消し、平然とした表情で浩司に返事をする。


「大丈夫、そんなに待ってないから。お疲れ様」

「菜々子ってこの辺あんまり来た事ないんだっけ?」

「ああ、そうかも」

「だよな。こっからまたちょっと歩くけどいい?」


 菜々子が頷くと、浩司は自分が先導するようにして目的地に向かって歩き出した。


 浩司が連れてきたのは、待ち合わせた駅前からは徒歩10分ぐらいの距離にあるお洒落なダイニングバーだった。ウェブデザインの仕事で以前この店のHPホームページ制作を担当して、それから度々通っているのだと菜々子に説明した。店に入るとオーナーシェフらしき男性が浩司に「どうも」と笑顔で声をかけ、親しくしていることがうかがえる。


「ここは肉がメインだからね。おすすめはローストビーフかな」


 菜々子の希望も聞きつつ、浩司のおまかせで注文を済ませた。木目調の落ち着いた雰囲気の内装、客層も大人のカップルや女子会、いいお値段の肉料理にワインも少々……社会人経験が浅く、まだまだ低収入な菜々子にとっては非常に贅沢な空間である。このデートが浩司のスタンダードなのか、それとも彼女相手に見栄を張っているのかは今のところ不明だが。


「料理、全部美味しいね」

「気に入った?」

「うん」


 菜々子がそう言うと、浩司は満足そうな表情を見せる。料理も酒も追加注文をし、酒が進むに連れて浩司は自分の話をし始めた。


「俺、母子家庭だって言ってたっけ?」

「ううん、今初めて聞いた。そうなんだ」

「そう。ガキの時に両親離婚してるから、俺全然父親の顔覚えてないんだよねー。母親も別にキャリアウーマンとかじゃないからさ、パート掛け持ちして俺のこと育ててくれたんだけど……マジで貧乏だったわけよ。外食なんてほとんどしたことなかったし。だから将来稼げる仕事して、美味いもん食いまくり生活送りたいっていう気持ちだけで、中学高校メチャクチャ勉強したんだよね」


 浩司が笑いながら話しているを聞いて、菜々子は以前自分が違和感に思ったことの答えが出たような気がした。普段の好青年なビジュアルに反して、たまに見せる育ちが悪い行動……それはやはり、幼少期を貧困家庭で過ごしていたからだ。菜々子の家は特別裕福ではないが、父親は会社勤めの管理職だし、家族で外食や旅行も出来ていたし、短大の学費も親が出してくれていた。比較的恵まれた環境で生きてきた自分が、ハングリー精神で今までを生き抜いてきた浩司に対し、育ちが悪い人間だと評価するなんて失礼なことなのではないかと思えてきた。


「だから俺、今すげー満たされてんだよね。IT系なんてこれからの時代いくらでも可能性あるから食いっぱぐれることないし。菜々子だってさ、そういう男の方が一緒にいて良いと思うでしょ?」

「え? うん、まぁそうだね」

「だよなー。よく好きな相手ならファミレスでもファーストフードでも良いとか言うけど、俺ああ言うのダサいなって思ってんだよな。努力出来なかった貧乏人の負け惜しみって感じがして」


 上機嫌で食事をする浩司と、それに相槌を打つ菜々子。菜々子はまた浩司の言葉に多少の引っ掛かりを覚えたが、それよりも自分に反省すべき点があったことと、向上心に溢れている浩司の姿の方が強く印象に残ったので、淀むことなくその場を過ごしたのだった。












 食事デートを済ませた後、浩司は菜々子を自分の家に誘った。それぞれ次の日は仕事なのだが、泊まってそのまま仕事に行けば良いと浩司に甘えられたので菜々子はそうすることにした。

 浩司の自宅マンションに入った瞬間、浩司は菜々子を自分の身体と壁で挟むようにしてキスをした。玄関に上着や鞄を投げ置き、その場で服を脱がそうとする浩司に菜々子は戸惑う。


「ちょっと、ここで!?」

「だめ? 今日はなんか変態チックなことしたい気分なんだけど」

「えぇ、やだ……ベッド行かせてよ」

「嫌なんだ? ……じゃあ、ここで舐めてくれたら言うこと聞いてあげる」


 浩司は菜々子の手を掴み、自分の膨らんだ股間まで持っていき、触らせた。それには呆れるが、ずっと上機嫌でいる浩司を見ていると仕方ないか、という気持ちにもなる。


「もう……」


 菜々子は小さく呟いてその場でしゃがみ、目の前のベルトを緩め、続けてチャックを下ろした。


















 時計は0時過ぎ。まだまだ眠気がやって来ない菜々子は裸でベッドに横たわり、ボーッと浩司の部屋の寝室を眺めていた。当の浩司はというと、気持ち良さそうに熟睡しきっている。


 玄関先でのオーラルプレイで視覚的な満足を得た浩司は、早々に場所をベッドに切り替えた。服を全て脱ぐより早く、先程の行為で膨張しきっていたものをどうにかしたいと思ったのだろう、菜々子への前戯ぜんぎは特にないまま挿入、という流れになった。時間が経ち、今こうして浩司が寝ている隣で振り返ってみると、今日は最初から最後まで演技をして終わったな、と菜々子は思った。途中色んな対位を試したりもしたが楽しんでいたのは浩司だけで、特別気持ち良くもなかったのが正直なところだ。


 ふと、前日の出来事を思い出す……こちらの表情を伺いながら執拗に責めてきた夕羅。絶頂しても刺激する手を止めることはなく、波のように絶え間なく押し寄せた快感。その記憶が再び菜々子の身体に蘇り、心を支配する。


「……さん……夕羅さんっ……」


 息を殺し、声を殺し、菜々子は眠る恋人の隣で自慰行為に耽っふけた。


“彼氏にも見せたことない一面、私が全部見てあげる”


 夕羅が言った言葉が菜々子の頭の中を駆け巡る。本当に夕羅が言った通りになるのかもしれない……こんな痴態、きっと浩司には見せられない。

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