夕羅

第2話

「……なぁ、聞いてる?」

「え?」


 急に耳に入ってきた声に菜々子はハッとした。どうやら心ここに在らずな状態の菜々子にマユがずっと話かけていたようだ。


「あぁ、ごめん聞いてなかった」

「なんやそれ。休憩入ってええか聞いてたんですけども」

「あぁ、うん大丈夫」


 休憩に出ていいか以外にも、マユが離れて暮らす母と電話をした際、喧嘩をしてしまったことなどを話していたようだが、菜々子は何一つ聞いていなかったのだった。マユは少しムッとしながらも、過ぎたことをいつまでもネチネチ言う性格でもないので、さっさと休憩前のレジチェック作業に取り掛かる。



「なんか今日ずっとおかしいで。どないしたん?」

「あはは、ちょっと寝不足なんだよね。昨日浩司が泊まりに来たから」

「あー、“そういうこと”ですか。惚気のろけやったらええですわ。休憩入りまーす」


 そう言ってレジチェックを終わらせたマユはバックヤードの方へ去っていった。昨日は夕食後も浩司と過ごしたので寝不足であるのも事実だが、菜々子がボーッとしてしまった原因は他にあった。

 先程バックヤードでぶつかった美女だ。彼女は菜々子が働くファッション雑貨店の斜め向かいにあるピアス専門店の従業員である。それまで話したこともなかったが、自分の店から姿を見ることが出来るため、端正な顔立ちに抜群のスタイルの彼女に前々から目を奪われることがあった。


 そのピアス専門店は主にボディピアスを取り扱っている。ボディピアスとは、ファッションピアスよりもピアスホールに通す軸が太く、耳たぶ以外に軟骨部分やへそ、鼻、眉などに装着されたりもするものだ。華奢でフェミニンなデザインが多いファッションピアスに比べて、ボディピアスは全体的にイカついデザインのものが多く、中にはピアスホールを拡張しないと装着できないような軸が太いものもある。実際愛用者は体のあちこちにピアスをつけていたり、服装も奇抜なものを好んでいる人が多いように見える。あの美女もそのうちの一人だ。

 長い黒髪でキリッとした顔の彼女は、2000年代初めアメリカのアクション映画に出演して話題になった日本人女優に似ている。ピアスは片耳に5つぐらい付けていて、メイクも強めの印象。オーバーサイズのロックTシャツを身に付け、腕にはいくつかのデザインタトゥー、足元は革の厚底ブーツというかなり強烈なビジュアルだ。彼女はきっと女性らしい、可愛い雰囲気のスタイリングでも似合ってしまうのだろう。だがそうはせず、あんなに個性的なファッションスタイルを貫いている。自分が同じような格好をして消化しきれるかと聞かれたら、そうではないだろう。カッコいい女性への憧れもあって、一度視界に入ってしまうと無意識に目で追ってしまう……。


 虚ろな意識のまま彼女の働いている様子を見ていると、ふと菜々子は彼女と目が合ったような気がした。反射的に目を逸らしてしまった後、何故か心拍数が上がっていることに気付く。同じ女性相手にどうして……そもそも何故目を逸らしてしまったのだろう? ついさっき親切な対応をしてもらったのだから、軽く会釈をしたって良かったはずだ。まるで不審者みたいだと恥ずかしくなった菜々子は気を紛らわせるため、そそくさと店内の陳列整理を始めるのだった。











 マユが休憩から戻って来て、今度は菜々子が交代で昼休憩を取ることにした。バックヤードを進み、従業員用の休憩室に入っていく。自分のロッカーからスマホと弁当箱が入ったミニトートバックを取り出し、空いているテーブルを探していると、別の店舗の従業員に声を掛けられた。


「菜々子ちゃーん、ここおいでよ!」

「あ、ありがとうございます」


 菜々子が働いているのはレディースファッションと雑貨のフロアで、休憩室は同じフロアで働く従業員で共同使用することになっている。菜々子がいる雑貨店は菜々子やマユなどの正社員と数人のアルバイトで回しているため、同僚と昼休憩が被ることはなく、こうやって休憩室内で他店舗の従業員に呼ばれて共に時間を過ごすことは多々あるのだ。


彩奈あやなさん、お昼よく被りますね」

「確かに〜。でもさ、聞いてよ! うち今日欠勤出てさぁ……今休憩出られてるの奇跡だよー」

「えー、大変……」

「ホントだよぉ。バイトの子に生理休暇も程々にしろよって言いたいけど、言ったらパワハラになる時代だしね。正直毎回は勘弁して欲しいけど」


 そんなお互いの勤務中の愚痴などをこぼしつつ、弁当をつつくのだった。


 菜々子に声を掛けた彩奈は、レディースシューズ店で勤務している。非常にフレンドリーな性格で、恐らくこの商業施設での勤務自体が長く、菜々子にとっては先輩のような存在でもある。1人で休憩時間を過ごすのが苦手なのかいつも誰かしらに声を掛けている印象で、実際彩奈の周りには既に何人か集まっていて、1つのグループが出来ていた。まさに“陽キャ”という感じで、学生時代だったら絶対に接点が生まれない人種だろうなと、菜々子は密かに思っていた。


「あ、そうそうさっき話してたんだけどさー、今度6階フロアメンツで懇親会やろーってことになってんの。菜々子ちゃんも来る?」

「懇親会、ですか?」

「そー。4月でさ、結構入ってる店舗も変わったじゃん? んで、それぞれ人事異動とかもあったよねーって話から『つーか知らない子いっぱいいるよね? 飲み会やる?』って流れになってんだぁー」


 流石陽キャ属性の彩奈だ、ノリと行動力がすごいなと菜々子は思った。とはいえ、菜々子もこういった集まりはなるべく参加したいタイプなのである。また、単に付き合いのためだけではない。もしかしたらあの美女も参加するかもしれないし、その場合彼女と親しくなるチャンスだ……というわずかな期待もあった。


「すごいですね、楽しそう……私は事前に日程決まってたら多分行けます」

「ありがとー! 良ければ他の子も誘って欲しいんだよね、あの関西弁の子とか面白そうだし」

「ああ、マユちゃんなら誘えば来ると思いますよ。飲み会とか好きなんで……ちなみに行くの確定な人って誰がいますか?」

「えーっとねー、ウチからは私とサワダでしょー、ヨッピのとこは今年入社の子メインで連れてくるって言ってたし……あ、ねぇねぇ! 夕羅ゆらんとこ結局誰が来んの?」


 彩奈は菜々子に話している途中に、遠くに呼び掛けるような声量で休憩室の入口辺りに向かって誰かに話しかける。菜々子がその方向に顔を向けると、驚きのあまり弁当をつつく箸を落としそうになった。彩奈が話しかけた“夕羅”という人物が、あの美女だったからだ。驚きと同時に『夕羅っていう名前なんだ。凄く似合ってる』とも思った。


「声デカいって」

「あー、ごめんごめん。だってちょうど良く来たから」


 どうやら彩奈は彼女……夕羅とも交流があるようだ。今日菜々子は仕事中にバックヤードでぶつかってしまったことといい、つい見惚れてしまったことといい、夕羅という存在にはやや気まずい感情がある。彩奈と夕羅が親しそうに話している中、菜々子は少々居心地悪く笑顔を作っていた。そのことに気付いたのか、夕羅が彩奈との会話を中断する。


「ごめんね、コイツ喋ったら止まんないヤツだから。そういえば、擦りむいたりしなかった?」

「いえ……大丈夫です」


 夕羅は菜々子が今、この場で蚊帳の外状態になっていることと、ぶつかった時に怪我をしなかったかを気遣うような言葉をかける。それに対し心をときめかせて返答する菜々子。例えるなら女子高のイケメン女子な先輩に話しかけられて喜んでいる後輩女子の構図だ。菜々子と夕羅に接点があったのを意外と感じたのか、そこをすかさず彩奈が言及する。


「あれー、ここって絡みあったっけ?」

「ううん、今日初めて喋った。バックヤードで。ね?」

「そ、そうなんです! 私がドジってるとこ助けてくれて……」

「へー、そうなんだー」


 その後3人は、懇親会に関する話をしながら昼食休憩を過ごした。その間も夕羅は菜々子に微笑みかけることがあり、その度に菜々子の心が躍るのだった。

 結局懇親会は来週日曜日に開催、20時に開始と決まった。働いている商業施設の閉館時間が21時であるため、遅めのスタートを設定したのだ。当日早番のメンバーが先に開催される飲み屋に向かって料理を注文し、盛り上がってきた頃に遅番メンバーが到着する。ちなみに彩奈は遅番担当で、夕羅と菜々子は早番になっていた。『じゃあ当日隣同士で一緒に居ようよ』と夕羅に言われ、菜々子は『是非!』とはにかみながら返事をしたのだった。
























「浩司、これとこれだったらどっちの方がいい?」

「別にどっちもいいと思うよ」


 浩司がそう返すと、菜々子はムッとした。


「“別に”って、テキトーに言われてる気がするんですけど」

「違うよ! どっちも悪くないから好きな方選べばいいんじゃない、って意味」

「それ、“悪くはないけど似合ってはない”とも取れるんだけど」


 数日後のオフの日。菜々子は浩司とのデート中、洋服屋に立ち寄っていた。鏡の前で菜々子が同じデザインで色違いの服を手に、どちらの方が顔映りがいいか見比べているところだった。


「んー、だっていつもの菜々子っぽくない服じゃん。普段ゆるふわ系のばっか着てるのに……なんかそれ派手じゃない?」


 と、浩司の本音が溢れる。確かに普段菜々子はシルエットがふわっとしていて、薄いピンクや白などの淡い色合いのコーディネートばかりなのだが、今手にしているのはタイトなデザインのカットソーだ。しかもビビットカラーな2色で迷っている。今まで着たことがないタイプだけど挑戦してみたい……と思っていたところを浩司に指摘され、思わず落胆する菜々子。


「こーゆー系着てみたかっただけなのに……」

「いや、似合ってないとは言ってないよ? 俺の好みではないってだけだから。好きなら買えばいいし」

「……やっぱいい。なんか微妙かもって思えてきた」


 そう言って菜々子は手にしていた商品を元あった場所に戻し、その洋服屋を出た。浩司は明らかに表情が曇った菜々子の機嫌を伺いながら隣を歩く。


「よかったの? 服買わないで」

「いい。持ってる服でなんとかするから」

「つーか、職場の人との飲み会でなんでそんな気合い入れんの? 女子会みたいな感じなんじゃないっけ?」


 浩司がそもそもの疑問を投げかける。菜々子が例の懇親会で着ていく用の服を買いたいと言ったのでいくつか洋服店に立ち寄っていたところだったのだが、浩司からすると女性同士の集まりのために服を新調する必要はないという感覚なのだ。


「わかってないなー、女子会の方が気合い入るんだよ。特にうちはファッションフロアの人達なんだから。お洒落な人いっぱいいるよ」

「ふーん。なんか女子って大変だね」


 菜々子の話を聞いてもイマイチ理解出来ないと言いたげな浩司。男性の中には交際するパートナーや、好意を持っている異性のためにお洒落をするものだという考えの人間が一定数いて、どうやら浩司もそのタイプらしい。別に珍しいことでもないので菜々子は特に何も返さず、歩みを進めた。すると今度は、コスメの取り扱いがある雑貨店が目に入った。


「ここもちょっとだけ寄っていい?」

「いいよー」


 ちょうど残りが少なくなっていたスキンケア品があったのを思い出し、迷わずお気に入りのコスメブランドのコーナーまで突き進む菜々子。周りが女性客ばかりなので付き添いの浩司にとっては居心地が悪いだろうと思い、早足になる。当の浩司はそんなことはなく、店内に並ぶものが全て新鮮に映るようで、キョロキョロと辺りを見回していた。菜々子が買い物かごに入れた商品を見比べ、話しかける。


「これとこれ、同じやつなんじゃないの?」

「こっちは美容液で、こっちは保湿クリーム。パッケージ似てるけど別物なの」

「へぇー、結構いい値段するね。俺なんか精々洗顔して、ドラッグストアで安く売ってるメンズ用化粧水つけるぐらいだけど」

「まぁ、ちょっと高いけど、私敏感肌だからこのブランドのスキンケアが合ってるの……あ」


 菜々子は浩司に話しながら、新作コスメのコーナーを見つけてそちらの方へ移動する。人気のコスメブランドから、華やかで発色のいいリップスティックが何種類もカラーが追加され、新発売されている事を知っていた。口コミサイトでも評判が良く、売り切れ店舗もあるほどの人気商品だが、この店には在庫があるようだ。菜々子は並んでいる商品を1つ手に取る。それは夕羅が付けていたような深紅のリップスティックだ。


「……それがいいの?」


 浩司が覗き込んで菜々子に問いかける。菜々子はその商品を手に取ったままその場からなかなか動かない。欲しいと思いつつも、買うべきかどうか迷っているのだ。


「同じフロアで働いてる人でね、こういうリップがよく似合うカッコいい人がいるんだよね……私もあんな風に使いこなせたらいいなーって思って」

「んー、でもやっぱ菜々子には派手なんじゃない? 俺はあんまり好みじゃないな」


 またしても、浩司の言葉に菜々子は興醒めした。

 わかっている。普段自分が着ている洋服のジャンル的にも、こんな真っ赤なリップは合わないのだと。実際に使ってみて似合わなかったら無駄な買い物になるということも。正直な感想はありがたい部分もある……だが、憧れている人のようになりたくてチャレンジしようとする気持ちを否定されているような気がして、菜々子は一瞬表情を曇らせた。先程の洋服のことといい、浩司はさりげなく自分の好みを押し付けてくる時がある。それを歯痒く思いつつも、菜々子はその気持ちをグッと抑え込み、手にしていた商品を元の位置に戻した。


「確かに、そうかも。これだけでいいや。会計してくるね」


 菜々子はスキンケア商品だけが入った買い物かごを手に、レジカウンターへ急いだ。

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