錆びのシルヴェ

 逃げることもできるのに、とルイスは思った。


 ルイスが今逃げれば、それは魔族国にとって、大きな反撃のチャンスを生むこととなる。

 まず、ルイス・ハニーピークを取り戻すための、多大なる労力から解放される。続いて、単身、国から舞い戻ったルイス姫の存在は、国民の士気をうなぎ登りにするに違いない。人族への恨み骨髄の魔族らはいよいよ、正義の鉄槌を下すこととなろう。


 片や、人族は勇者の裏切り、王女の暗殺とあって、王城内部はガタガタ。ちょいと押せば崩れ去るジェンガのようである。


 ルイスは思う。

 自分は魔王の娘だ。自分のために、国民がどれほどの心血を注いで捜索しているかは、想像がつく。

 ルイスの信念はやはり、硬いものであるはずだ。自由は甘美だ。これほど楽しいことはない。しかし、そこにかまけてもいられない。



 今のルイスであれば、矢のような速度の馬車から飛び降りて、迫り来る野盗を撃退するくらいのことは、そう難しいことではない。


 その後はどうであろう。人族の捜索隊から逃げおおせるか?国境警備隊の目を掻い潜れるか?いや、無理はしなくていい。そこらの街でジッと身を潜め、自分を取り返しに来た魔族と合流するのだ。


 ちょっとした思い付きが、現実実を帯びてくる。



 ルイスはジッと気を見計らった。

 矢継ぎ早に聞こえてくる悲鳴が鼓膜を打ち、馬車の速度はグングンと上昇していく。

 御者の振る鞭の音がここまで聞こえてくるほどに。


 彼らとて、馬の脚で振り切ることが出来たのなら、それでいい。護衛を雇っているとはいえ、リスクを冒して戦う必要はない。

 だが、もし、野盗が馬車に追いついてきたら?


 ルイスはケイに向かって、『眠り歌』の魔法を掛けた。

 ケイはより一層深い眠りへと落ちていく。

 半ば無意識の行動だった。ルイスは自身に心底、驚いた。



 馬の悲鳴のような嘶きが契機だった。

 先頭、護衛の半数を載せた馬車が急に動きを止めた。

 続いて、後続の馬車も速度を緩めていく。


 こうなっては、迎え撃つしかないと判断したのだろう。

 ルイスは先頭馬車に繋がれた馬を見た。馬はぐったりと地に伏せている。


 首元に小さな血の痕が見えた。しかし、それは矢傷にしては大きすぎるし、魔法の痕跡も見られない。どちらかと言えば、刺し傷のようにも見える。

 馬が全速力で走っているのを剣で捉えることなど可能なのか?まして、刺すなど?


 とすれば、思考は一つの答えに行き着いた。裏切りだ、冒険者が裏切ったのだ。

 馬車の座席から、剣で突き刺したのであろうと。



 それは最悪の展開だった。まともに戦える味方はおらず、敵は大勢で結託している。

 ただ、ほんの数十秒後、ルイスは自分の考えの間違っていることに気が付いた。護衛の冒険共は裏切ってなかったし、敵も少なかった。

 ただ、事態はもっと最悪であった。





 シルヴェ・スタローンは罪人である。

 最も幼いときの記憶は、父を刺し殺した瞬間であり、シルヴェの記憶はそこから始まっている。天賦とも言うべき剣の才と、傑出した怠惰さばかりが目立つ人物であった。

 能力に大きな欠損はない。むしろ、やることなすこと、人並以上の成果が出た。ただ、その怠惰さが祟った。やればできる、しかし、決してやらない。それがシルヴェであり、彼自身納得しているのだから始末が悪い。


 親殺しの罪に問われ三年、辺境の村で身分を隠して、門衛をこなしているときだって、不審な人物を見逃すこと数度、居眠りに至っては数十度、急務は軽くこなすか寝ているかのどちらかで、大抵は寝ている。おまけに、報恩の心の薄いこと、薄いこと。


 辺境の村はシルヴェを受け入れてから二年でその名を歴史から消すこととなった。

 盗賊団が村を襲う間もシルヴェはずっと寝ていたのだ。


 しかし、だからこそ、シルヴェは盗賊団と性があった。皆、どうしようもない奴らばかりであったのだ。


 盗賊をやるときも、剣の手入れなどは決してせずに、次の仕事に行くときは大抵錆び付いた剣を振るった。しかし、そこで、敵から剣を強奪し、次の戦いへと用いる。活殺自在の剣技は、逃げおおせた者の間で、たちまち話題となり、人相表も出回った。

 『錆びのシルヴェ』とは商人の間では恐るべき名として知られている。





 冒険者が瞬く間に切り伏せられたとき、ルイス・ハニーピークの後悔は最高峰へと達した。

 ルイスにだって、魔法の心得はある。実戦で振るったことはないが、人並以上の才と、並々ならぬ努力によって裏付けられた、揺るがない自信はあったのだ。

 その心まで、切りとられた気分だった。


 野盗の一人が群を抜いていた。

 シルヴェの剣は鋭く、早い。

 神がかり的な脱力と、恵まれた体格から繰り出される剣技に、魔力を帯びた本人の素早い身のこなし。


 ルイスは魔法で捉える自信がなかった。

 ほんの少しの隙から、身体中バラバラにされる気さえした。



 ルイスが唯一、正しい判断を行えたのは、自分の能力の一切を隠す判断だ。


 ルイス・ハニーピークは少女である。

 銀髪碧眼で小さな体躯。干し肉さえ噛み千切れなそうな貧弱な雰囲気を纏っていて、よく泣いて、よく寝ていそうな爛漫さを備えている。


 まだ何もしていないルイスを警戒する者は、きっと道端を転がるレジ袋さえ怖がるであろう。


 そういうわけで、女子供以外を虐殺した野盗は警戒を解いていた。皆、緩い雰囲気を醸し、早く金を数えたくてそわそわとしていた。

 ルイスにとって、それは唯一の勝機でもあった。


 しかし、ルイスには自信がなかった。

 自分が十人の盗賊団相手に大立ち回りをこなし、全てをひっくり返す未来が見えなかった。


 ルイスにとっての幸運は、今だケイが殺されていないことだけ。当然だ。この事態に、鼻息を立てて寝付く青年をどう警戒すればいいのか。


 しかし、そんなケイを不快に思う山賊がいたのも、また事実。

「おい?まだ、男がいるぞ」

 一人の野盗が叫んだ。

 つられて何人もの、野盗が集まってくる。


 皆、ケイを見て大爆笑。腹を抱えて笑っている。

 ルイスはグッと堪えた。申し訳なさとか、情けなさとか、悲しさとか、恥ずかしさとか、そういう感情のごった煮をグッと呑み込んだ。


 一人がケイを蹴りつける。

 ルイスは思わず、間に割って入った。


 それを見て、山賊はまたまた大爆笑。


 思わず、ルイスは泣きごとが口からこぼれた。

―助けてよ。


 自分を殺してやりたくなった。さっきまでの逃走を画策していた自分はどこにいった?

 恩人を裏切るのは平気でやる癖に、いざ、自分がピンチになれば、のうのうと助けを求めるのか?


 ルイスは、騎士道物語に出てくるような、ただ助けを求めてばかりいる姫が嫌いだった。自分が実際のお姫様だからこそ、空想事に身をかまけて、国民のことを一切考えない、お姫様が嫌いだった。


 今の自分はまさしく、そんなお姫様だ。


 ルイスは決意した。


 この状況をたった一人でケリを付けることに決めたのだ。

 たとえ、正体がバレたとしても。


『絶対零度』

 S級難度の魔法であり、魔族国が近年開発したとっておきだ。情報漏洩を防止するため、実戦での投入は今も禁じられている戦略級の魔法。


 ルイスの知る限り、最も強力で難易度の高い魔法の詠唱を小声で行う。


 魔法の詠唱は、正しい発声、正しい滑舌が原理原則だ。隠すような小声では、その分規模も小さくなる。しかし、戦争のために開発されたこの魔法であれば、小さな規模でも、相手を殺すことができるのではないか、とルイスは思った。



 魔法が顕現する。事象の改変は、飛び散るような火花と共に行われ、閃光が何度も瞬いた。

 周囲の温度が一気に下がり、真冬のような寒さをもたらした。

 異常事態に、思わず野盗も辺りを見渡すが、怪しいものは見当たらない。


 その隙に、ルイスは詠唱を終えた。

『絶対零度』


 完全に虚を突いた。

 ケイを弄びに来た野盗は半身氷漬け。殺すことは出来なかったが、むしろ都合が良かった。

 彼らの解放を条件に、自分の安全を約束すればいい。

 そう取引だ。ケイのやったように、自分にだってできるだろう。


 ルイスは出来るだけ大きな声で叫んだ。

「取引よ!」



 皆が注目する。野盗は恐怖を、乗客は希望を、自分に都合の良いイメージをルイスに押し付けている。上手くいった、とルイスは思った。思わず、口角が上がる。


 そんなルイスの前に、立ったのはシルヴェだ。


「で嬢ちゃん?どんな取引だ」


「この人たちを解放して欲しかったら私たちを…………」

「おいおい、嬢ちゃん冗談じゃない。俺たち野盗の流儀を分かっちゃいないな。分かるか?そいつらはもう死んだ。こんな稼業に身をやつしてるんだ。覚悟はできてる。敵に捕まった、それは死を意味するんだ」


 シルヴェは演劇に出ているような身振り手振りで笑っている。

 言葉を終えると、ゆっくりとこちらに歩いてくる。


 ルイスは急いで詠唱を始める、が間に合わない。

 シルヴェは剣を振るった。

 首が飛ぶ。



 それは野盗たちのものだ。


 思わず、ルイスは詠唱を中断した。

「で、嬢ちゃん。取引がなんだって?」

 シルヴェはおどけてみせた。

 彼の顔は返り血に染まっている。

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