馬車に揺られて
王都が勇者の悪名で席巻されるのに、そう時間は掛からなかった。
街の隅々にまで人相表は行き届き、早新聞は通行人の手から手へと渡り歩く。勇者はいつ捕まるのか?という賭けが大規模に勃発したほどである。この大事な時期に勇者は何をしているのだ、という怒りの声もやはり、多く挙がった。
だが、一つ不思議なことがある。勇者が悪人であるということは広まったものの、彼の罪状の一切が外に出ていない。勇者は王都転覆を図ったのだという者もいれば、要人暗殺を企てたという者もいる。偉い人との仲違いから罠に嵌められた、という勇者擁護派も存在したくらいだ。
しかし、高い確率で一致した意見がある。
それは、勇者は王城から何か重要なものを持ち去ったのではないか、という意見だ。
このご時世、罪人は多い。
昨日までの英雄が今日の罪人であることは日常茶飯事で、昨日に死刑を執行されたと発表されたお偉方が今日では大臣に昇り上げているくらいである。
そんな時分に、一人の罪人がここまで注力して調べあげられるのはおかしな話だ。
そういうわけで、勇者を探し出さねばならぬ理由があり、それは勇者が持ち去ったあるものに関連していると噂が立った。
国宝級のアイテムを根こそぎ盗み出したか、いや偉い大臣の娘と駆け落ちしたのだ、いやいや、勇者は王城の金庫に眠る通貨の型を盗み出したのだ、勇者は今、馬車に揺られ金鉱山へと向かっている。そこで、通貨の偽造を本物の型でやるのさ。金融危機も目の前だ。
もちろん、あまたある与太話は酒の席にちょうど良く、ふと誰かが漏らしたのだ。
―魔王の娘ってのはどうだ?
酒場の空気が静まり返る。連れは血相を変えて言うのだ、おい、飲み過ぎだ、馬鹿!
魔族絡みの話はきな臭い話も多い。魔王の娘などその際たるもので。彼女の本当の居場所を知っているとなれば、家族親戚まとめて、次の日にはいなくなっている、なんて噂もある。
とかく、魔族の間者がどこに潜んでいるは分からない。与太話にしたって、限度がある。しかし、沈黙は長くは続かなかった。酒場の喧騒はひそひそとした文句から、火が付き初め、また喧騒を取り戻し始めた。
そんな場末の酒場の一角、一人の魔族がエールを呷り、目を瞑った。魔王の娘奪還作戦も行き詰まり、とうとうやる事がなくなってしまったのだ。本部との交信も、もう三日はしていなかった。
―勇者か、ありだな。
女の呟きは小さく、すぐさま酒場の喧騒の中に埋もれてしまった。
突き上げるような衝撃には何時まで経っても慣れなかった。
ケイは馬車に揺られながらも、しかめ面を崩せずにいた。
「あ、見てくださいよケイ?あれ何て生き物なんですか?あー、あの花、ウチにもありました変な匂いなんですよ?嗅いだことありますか?」
馬車の騒音は意外に大きい。にもかかわらず、ルイスの声は良く通る。はっきり言って、この娘のことを侮っていたのだ。馬車の上では、魔王としての隠された力が発言しているに違いないと切に思う。
異世界に来る前は、馬車はどこかのどかで和やかな乗り物だと思っていたが、実際に乗ってみると想像を絶する。ガタガタと小刻みに揺れる座席は、人間のケツの耐久性を訓練しているに違いないし、時たま車輪が小石によって跳ね上げられるときなど、内臓を持ちあげられるような浮遊感を体感することになる。ちょうど、ジェットコースターからトップスピードで登っていたときに体感する重力のかからぬ感じ。あれが不意打ちで訪れるのだ。
それも、今ケイが乗っているような乗合いの安い馬車なら尚更だ。
大きな石に引っかかって空中分解しそうでひやひやする。
「あ、そうだ、ケイ?約束を忘れていませんよね?」
ケイは薄く目を開けて、返事をする。
「ちょっと黙ってくれないか?」
ケイの懇願は、残酷にも馬の嘶きによって、かき消されてしまった。
ケイの思いを知ってか知らずか、ルイスはまだお喋りを続けたいらしい。
「私、ハニーパイが食べたいです」
これ以上大きな声を出す体力さえなくなったケイは力なく返事した。
「ああ」
乗合い馬車というのは大抵、三から十の数で運行されている。それぞれの馬車がお金を出し合い、冒険者の護衛を雇うことで、護衛料を安く済ませる目的があるのだ。
ケイたちの乗合い馬車は全部で七、彼らを挟むように、先頭と最後尾の馬車に護衛が乗っていた。
護衛がいるとはいえ安心はできない。流れ者や田舎者が多い冒険者稼業だ。事前に野盗と結託し、馬車群を襲う可能性は十全にある。
特に乗合い馬車はその被害に遭うことが多い。
商人たちの護衛は一定以上の等級、銀級以上の冒険者しかできないが、乗合い馬車といった、襲っても実入りの薄い馬車の場合、等級制限は銅まで落ちる。冒険者の等級は鉛、銅、銀、金と続くから、実質的に下から二番目で、まだ社会的な信頼は薄い者どもだ。
そういった理由で、乗合い馬車こそ野盗の被害が絶えないものである。
「あ!あれ、魔物ですよね?それもスライム。私の国と全く一緒だ。すごい」
ルイスは興奮していた。今の今まで、気の抜ける瞬間というものが、年単位で訪れなかったということもあるし、ルイスの外遊は決まって大量の護衛とともにあったということもある。
彼らも気を使いはしてくれたが、やはり、自分に与えられた景色や体験というものは、予め精査されたものだけに留まっていた。
そのため、生の自然や生の体験を味わうのはこれが初めてだった。
もっと言えば、ルイスにはこれが最後の体験になる気もしていた。
だからこそ、悲観に満ちるのではなく、限界まで楽しもうとルイスは固く決意していたのだ。
ルイスはスライムという魔物の素晴らしさを伝えようと、横を振り向いた。彼らが如何に洗練された生物であるかを伝えなければならない。彼らこそ自然淘汰の覇者であり、この世界の影の支配者であることを話そうとしたのだが、ケイは寝ていた。
それはもうぐっすりと。
疲れたのだろう、とルイスは思った。
急に寂しさが喉元まで迫ってきた。あれだけ楽しかった景色も色あせて見えた。
この男は気も使えない最低男のはずだ。
いや、だからこそ、気を遣わずに済んだのだ。
これが堅苦しい騎士であれば、自分は今も堅苦しい姫様であったと思う。
ルイスがじっと手を組んで、車内を眺めたとき、馬車が大きく揺れた。
ピー、という甲高い警戒音。馬車は急激に速度を増し、振り落とさんばかりの勢いで、猛進し始める。
ルイスは怖くなる。何より、この旅がこれほど速く終わりを告げるかもしれないことが怖くなった。
ルイスは、無意識にケイの手を握った。
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