12. コルベール家の当主


『は? 何を言って……』


 そのことを知った時、目の前が真っ暗になった。


『何度も言わせないでください。彼女には手切れ金を渡し、もう二度と会わないように言いつけました』


 扇子で口元を隠しつつ、平然とそう言う婚約者が、怖かった。これは、本当に人間なのか?


『身寄りもない、非力な平民の女性を、手切れ金を渡しただけで、村から追い出したのか?』

『ええ。婚約者を誑かし、身の程知らずにも結婚するつもりだったような方を』

『ふざけるなっ! 殺したようなものじゃないか!』


 いくら金があっても、使える場所でなければ襲われるリスクが高まるだけだ。そもそも野犬や獣に金は通用しない。今この時だって、死にかけているかもしれない。そんなことも、わからないのか?


『……どこへ行くのです?』

『今からでも探しに行く』

『そのようなこと、私が許すとでも?』


 鋭くも抑揚のない、洗練された声が響いた。ドアの前で足が止まる。


『ご家族を説得しようとしていたようですね』


 ドアノブを持った手が、止まる。カチャン、とティーカップを置く音がした。

 驚く私に、何も知らないとでも? と彼女は続ける。


『今そのドアを開ければ、どうなるかはお分かりですね?』


 振り向けば、その手にあったのは調査書だった。どこから、漏れて……このことは信用のおける使用人しか知らないはずだ。


『このような手段、使いたくはありませんでしたが、大事になる前に身内で済ませてしまった方がまだ良いでしょう。……そのドアを、開けますか? 婚約者様』


 私はただ、キツく手を握りしめ、ドアの前で立ち尽くすしかできなかった。

 例え血が滲もうと彼女はもう手当てしてくれない。無償の優しさを与えてくれる存在を、私の手で失った。


 ……ああ、そうか。平民も貴族も、変わらない。自分のためならば、他者などどうでもいいと思っている、浅ましい生き物だ。金のためなら簡単に人を裏切り、自分のためならば殺すことも厭わない。


 皆、憎むべき存在だ。



『無事お生まれになりました!』


 その後すぐに父が病床に伏し、私は当主を継ぐこととなった。婚約者と結婚し、子が生まれた。

 当主になってからずっと彼女を探し続けていたが、何も手掛かりもない状況だった。


 子供を見ても、何も思わなかった。愛しいという気持ちはなく、ただただ、妻によく似た容姿に辟易とした。


『お母様……お母様っ!』


 しかし、妻が病気で亡くなる直前に、手がかりが掴めた。全てを後回しにしてでも、追い求め、やっと居場所がわかった。

 ……彼女は、娼館にいた。

 死よりも辛い現実を、彼女は生きていた。


『旦那様、奥様が……!』


 冷たくなった元妻を見て、歓喜した。清らかな彼女をここまで陥れた天罰なのではないかとすら思った。

 もう、邪魔するものは誰もおらず、彼女を妻として迎えた。


『ねぇ、あなた。私、幸せだわ』

『ああ、私もだ』


 彼女との間に子も生まれた。とても愛おしく、何よりも尊い存在だった。


 そんな中、元妻との間の娘が目障りだった。成長するにつれて、瓜二つと言っていいほど元妻に似ていながらも、まるで若い頃の私のように、使用人と接する姿が、不愉快だった。


         *


 そのレイラが、あのウィンザー家に嫁ぎ、家にはより穏やかな日々が訪れた。

 しかし、させていた仕事が多かった分、困ったことも多い。特に、家のことに手が回らなくなっている。彼女が女主人の仕事をするのは、難しいため、早くエリーに継がせなければならない。



「エリー、今度見合いをすることになった」

「まあ、何家の方ですの?」


 エリーの婿は慎重に選んでいた。家のためはもちろんのこと、愛しい唯一の娘を、幸せにするために。

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