9. 壊された幸せ


『こん、やくしゃ……』


 だって、彼は私のこと愛していると、言ってくれたのに……。

 頭が真っ白になって、それ以上何も言えなくなった。


『これは手切れ金です。二度と、彼の前に現れないように。もし約束を破ればどうなるか、わからないほど馬鹿じゃないことを祈ります』


 彼女は、一度たりとも私を見なかった。その能面のような表情が、平民なんて目に入れないと、告げていた。


『あのっ、最後に、一つだけ聞かせてください。あなたは、彼のことを愛していますか? 彼と愛し合っていますか?』


 どうにか組み伏せられていたのを解いて、袖を掴んだ。

 彼女は驚いたように一瞬だけ私を見て、凍ってしまうほど冷たい目で、地を這うような低い声で、ただ一言だけ残した。


『ノブレス・オブリージュ、これを貴女が理解できることはないでしょう』


 意味はわからなかった。でも、この女が、彼を愛してなんてないということだけはわかった。


 小さな村にこの事が広まるのはあっという間で。村を追い出された。けれど、彼は迎えにきてくれない。私も、会いにいくことはできない。

 ほんの一瞬で、居場所もすがる先も全てを失った。


『は、はは、はははっ』


 何も持っていない小娘が、日々生きることは難しかった。手切れ金といっても、封筒に入っていたのは小切手だけ。

 ああ、これだからお貴族様は嫌いだ。ただの平民が、王都に行って、お貴族様御用達の銀行になんて入れるとでも?

 門前払いされて、小切手を見せれば盗られて、それで終わりだったわよ。


 彼を、好きになんてなるんじゃなかった。なんで私は、お貴族様と恋になんて落ちてしまったのだろう。どうして私は、平民なのだろう。


 ああ、神様。なぜ私が平民で、彼を愛していないあの女が貴族なのですか。


 煙くさい娼館で、ぼぅっとそんなことを考えていた。白みはじめた空と、隣にいる彼じゃない男に絶望しながら。


 ……ああ、また朝が来てしまった。どうして、私は今日も生きているのだろう。

 

 なんのために生きているのかわからなくて、それでも何かを待ち続けていた。そして突然、その日はやってきた。


『っやっと、見つけた!』

『…………ほんもの?』


 こんなゴミ溜めみたいなところにいたのに、どうやって見つけてくれたのかわからない。でも、やっと、迎えにきてくれた。彼は少し歳をとっていた。


『っああ、ああ!』

『……っうわぁ……ぁ……ああ、お、そいわよ。馬鹿』


 彼が乗っている馬車に、初めて乗った。ずっと抱きしめられながら、話をした。

 あの女と結婚させられたこと。私が村から追い出されたことを知って絶望したこと。それでもずっと行方を探し続けていてくれたこと。あの女が病気で死んだこと。そして、私を後妻に迎え入れてくれること。


『遅くなって、悪かった』

『……ううん、いいの。見つけてくれて、ありがとう』


 あの女は死んで、私は彼と一緒になれる。今までの全てが報われるくらい、幸せだった。

 けれど、屋敷について、見覚えのある黒髪が現れたその瞬間、私の心は冷え込んだ。


 ……あまりにも、あの女に似ていた。


 気にしないようにと思っても、あの女の面影が追ってくる。心の底から、憎悪が湧いてくる。


 あなたのせいで。あなたのせいで、私は……。


『私に近寄らないでちょうだいっ!』


 挨拶をしてきた“あの女”の手をはたき落とした。怯えたような顔に、あの時とは反対の立場になった気がした。

 そのことに、なんていえばいいのかわからない気持ちが生まれた。


『汚らしい泥棒の血めっ!』


 そして私も、愛おしい人との子供を産んだ。エリーは私に似ていて、旦那様も溺愛して。

 ……素晴らしい日々だった。


         *


 ノブレス・オブリージュ。貴族としての責任。そんなものは知らない。

 私がエリーを守る。本当に愛せる人と結婚できるように。

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