平民の少女の物語
8. ある平民の少女と貴族の恋
「お母様ぁ? どうかなさいましたか?」
「……いいえ、なんでもないわ。ただ、ちょっと昔を思い出していただけよ」
愛しいエリーが、近い将来、婿を取る。
二十年前、私になんて目もくれず、冷たい声で封筒を渡してきたあの女の声が、聞こえてきたような気がした。
*
『いらっしゃい!』
伯爵領の小さな村の孤児院で育って、金髪の美しい娘として有名だった。出てからはパン屋の手伝いをしていた。
少ないお給金。でも残りのパンをもらえるから、飢えることはなくて。私はこの仕事を気に入っていた。
『この辺に宿屋はないか』
そんなある日、店にお貴族様がやってきた。視察をしている間に馬車が壊れてしまい、数日この村にいるという話だった。この辺について話している間に、ふと、血が滲んでいるズボンが目に入った。
『お怪我をなさっているのですか?』
『……なんのことだ』
お貴族様は目で言った。知らないふりをしてほしいと。
どうしてそんなことをするのかわからなかった。それでも、ひとまずその通りに誤魔化した。そしてお付きの人がいなくなった隙を見て、店の裏で手当てをした。
『怪我をしてしまったことがバレれば、あいつらの首が飛ぶだろうから』
彼は、そう声を潜めて教えてくれた。
正直驚いた。領主様一家は酷く、重税をかけ、疫病が流行っている時でも助けてくれない。平民を虫けらのように扱っていることは、誰もが知っていたから。
『……それで、何がほしいんだ?』
『いいえ、別に何も欲しくありません。痛いのが飛んでいってくれるといいですね』
優しい理由が知れただけで、十分だった。そもそも、怪我をしていたから声をかけただけ。怪我をしている人を心配するのは当然のことなのだから。
そうして私は店に、彼はお付きの人の元へ戻った。
……けれど、彼は次の日も店に来た。その次の日も、またその次の日も。こっそりと会う時間は伸びて、距離が近くなって、そして気がつけば、二人とも淡い恋に落ちてしまっていた。
『もう馬車が直ったんでしょう?』
『……っ!』
『さようなら。いつか、また買いにきてちょうだい』
彼は、何も言わなかった。
最初から、別れが決まっている恋だった。お貴族様と平民の恋なんて、童話じゃあるまいし。現実にロマンスなんて、どこにもないのだから。
私の初恋は、ほろ苦く終わってしまうのだと、そう思っていた。
『……また馬車が壊れてしまったんだ』
なのに、彼は会いにきた。何度も何度も、なにかと理由をつけて。
『貴族の私を、普通の人のように扱ってくれたのは、君が初めてだったんだ』
彼はそう言って、くすぐったそうにはにかんだ。
『私も、また会いたいと思ったのは、貴方が初めてよ』
彼の優しい茶色の髪が好きだった。愛おしげに下がる目尻が好きだった。落ち着いた声に安心した。私より大きな手に、ずっと触れていたかった。
『君に会いに来る』
いつのまにか村中に知れ渡り、お付きの人たちも見て見ぬふりをするようになった。
もしかして、この恋は、祝福されているのかもしれない。そう思ってしまった。
『愛している』
『私も、愛してるわ』
彼は結婚しようと言った。私は二つ返事で頷いた。村の人たちも、喜んでくれた。パン屋のおかみさんは、お祝いだと、売れ残りのパンをたくさんくれた。
『貴方が、私の婚約者を誑かした方?』
幸せの最中、彼のとは違う馬車が、村にきた。歩いているところをお付きの人に捕らえられ、黒髪と碧眼が印象的な身なりのいい女性の前に組み敷かれた。何が起きたのか、わからなかった。
彼に婚約者がいるかどうかなんて、しがない村娘は知らなかった。私は、ただ恋に浮かれた馬鹿な女だった。
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