第6話
三章 1 家族の食卓
退院の日は、わりと早くやってきた。いつもの病院スタッフだけでなく新庄医師もやってきていた。少年の記憶の中では医大生で、当時の主治医にくっついていろいろメモを取る熱心な女性だったけれど、今はもうベテランの風格だ。
「うん。定期的に通院するだけで、あとは普通に生活していいよ」
今日はプライベートなので白衣ではない。ラフなシャツとパンツにカジュアルな薄手のジャケット。ショートカットの髪を気にしながら、久の端末に表示される注意情報を確認した女医は片目をつぶって見せた。
「本当ですか?」
「ああ、食事や運動の制限も特にないみたいだ。おめでとう」
「ありがとうございますっ」
少年は年齢相応の笑みを浮かべ関係者を喜ばせた。退院の日には義父の雄介と比奈子だけでなく、エリカとカツヤまで来てくれていた。エリカはジーンズのミニスカートにTシャツで、カツヤは相変わらず学生服だけれど、今日はシャツの首元を開けている。
「久様、おめでとうございますっ」
「久さん、おめでとうございますっす」
青が濃くなってきた空。ようやく涼しくなってきた秋口の柔らかな風。二人で小さな花束を買ってくれていて、エリカが手渡してくれた。「ありがとう。エリカちゃん、カツヤもありがとう」
退院を祝うためだけに、わざわざ病院まで、現実世界で来てくれる。皆の好意に目頭が熱くなる。
「ぼく、涙もろいほうじゃなかったんだけどなあ」
「いいじゃない。私もちょっと感動したもん」
比奈子が二人にお礼をいいながら、その手を握る。エリカはともかくカツヤは明らかに困惑していて、目が泳いでいた。男子高校生には美人のお姉さんとの近接は異常事態なのだ。
「今度、きっとお礼するから」
久がそう言うと、二人は恐縮した様子で頭を振った。
「私たちが勝手にしていることでスすから、気にしないでください」
「そうっす。一緒に遊びに出かけられるの、楽しみにしてるっす」
「ははっ、ありがとう、二人とも。せっかくだから家まで来るかい? 新庄先生も。駅まで送りますよ」
義父がロータリーによせたクルマから誘うのを、三人は笑顔で断った。
「いえいえ。ご好意だけいただいておきますね」
「ええ、今日はお疲れでしょうから、遠慮するでス」
「うっす。自分もまたの機会を楽しみにしてるっす」
父や妹とともに、三人に深々と頭を下げる。クルマに乗り込むと、三人が手を振ってくれる。窓越しに新庄女医の声が聞こえてくる。
「いい子な学生さんたちは社会人がお昼をおごってやるぞー」
ちょっとふざけた、男っぽい口調に学生たちの顔に笑顔があふれた。
「えっ、いいんでスかっ。ありがとうございまス」
「助かりますっ。ごちになります」
(みんな、仲いいなあ……ちょっとうらやましいかも)
聞けば、三人とも往復一時間ほどもかけてきてくれたそうだ。今日は皆ラフな格好だけれど、赤毛に青い瞳の美少女と、ちょっと目つきの悪い爆発頭の少年の組み合わせがちょっと面白くて。理知的な新庄医師の笑顔とともに印象に残った。
(うん。きっと、お礼をしよう。できれば近いうちに)
窓から見ていた雲が夏の入道雲から、秋の細切れの雲へ。わずかな期間でも季節の移り変わりは確かにあって。今までガラスごしにしか感じられなかった世界を、これからは感じることができる。
病院から自宅への道は、変わっている場所もあればまったく変わらない風景もあって。十年の歳月がそこかしこに影響を与えている。
「けっこうお店が入れ替わっているね」
「そうだなあ。単独店舗はかなり厳しいみたいだね」
病院の中で、いろいろ調べた。地元はどうなっているのか。高校時代の友人は一部は検索で見つかったけれど、なんだか遠い世界の人のようだ。
もともと通院も多く交流も少なかったが、入院時には悲しんでくれる同級生もいたのを思い出す。
「ところでさ。ぼくの学歴は、やっぱ高校中退なのかな」
「あー、一応中退じゃなくて、休学ということになってるぞ」
義父が言いにくそうに教えてくれた。
「学校としては受け入れ可能だそうだが、どうする?」
「いや、それはちょっと嫌だなあ」
「通信制の学校に編入するのは可能みたいよ、お兄ちゃん」
「ああ、それはいいかも。さすがに高校は出ておきたい気がするから」
いきなり社会に出ても、何をすればいいのかわからない。プログラミングも知識が十年も前のものしかないのでは、仕事をしても使い物にならないかもしれない。
「ふーん。もしかしたらお父さんや私が先生になるかもよ」
「え、何それ」
「お父さんはよく講義を頼まれてるし。私もモデリングとかで講義とかの依頼が来ることはあるよ。断っているけど」
「私は講義とかは苦手なんだけど、立場上断れないんだよ」
なるほど。財団の理事ともなると、講演とかも仕事の一つになる、ということらしい。どちらかというと、比奈子に依頼が来るのがびっくりだ。久が思っているよりも家族はすごいらしい。
(何をしよう。何ができるんだろう。)
やってみたいことはいろいろある。憧れていた電脳世界はほんのちょっと触れただけだし、リハビリだってまだまだ必要だ。スポーツジムに通うか、病院のリハビリを推薦されている。
学校に行くだけじゃなくて、遊ぶこともできる。山や川、街に繰り出すことも、その気ならスポーツだってできる。
希望。人工冬眠の前には切実だけれど曖昧で、現実感すらなくなってしまっていたのが、今は具体的に、目の前にある。
(やばい。開放感すごい。なんでもできそうな、そんな気がする)
隣に座っている比奈子が時々こちらを見てにこにこしている。多分彼女も、そして前で運転席に座っている雄介も心なしか嬉しそうだ。
「お家は変わってないよ」
高度成長期に造成された住宅街の一軒家。ポイントは目の前が調整池のため、大雨のとき以外は草で覆われた広場になっていることだ。春には桜が咲き、子供の遊び場となる大規模な調整池はこの地区のシンボルともいえる。
「うん、帰ってきた気がする」
若干変わった気もするけれど、全体としては変わらない。先ほどから上がってきたテンションのせいで、本来インドア派のはずなのに、今の久なら、誘われればどこにでも行ってしまいそうな気がする。
(この近くのモリアオガエル、今でもいるのかな)
昔は周辺で水場の上の草などに卵塊を産み付けていた。地上の泡の中で卵を守っていて、ふ化してからオタマジャクシが水の中に移動するという変わったカエルだ。こちらの小学校で知り合った同級生が教えてくれたのを思い出す。
(時期が来たら、探しに行ってみようか)
心の中で、胸の奥で沸き立つような期待がある。何かが起こる、新しいことに出会える。そんな気がした。
自宅はほとんど変化を感じなかった。正確には庭木の成長はあるのだろうけれど、手入れがされているためにわからない。中古住宅のためか、時間の経過が驚くほど少なく見えた。
「ただいまー」
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
一足先に上がった比奈子がスリッパを容易してくれる。
「母さんは、仏壇だよね。挨拶してくる」
「それならみんなで報告しようよ、ね、お父さん」
「そうだな。久君さえよければだけれど」
「それならみんなでやろうか」
居間の片隅に小さな仏壇がある。そこで三人で奈美子の遺影に手を合わせた。遺影の中の奈美子はかなり若い。自ら選んだ厳選された写真だけあって実物より三割増しくらいで美人に見える気がする。
(家に帰ってきたよ、母さん)
もともと信心深い方ではない北見家だが、ナンミョーホーレンゲーキョーだけは唱えることになっている。死後もそれさえ唱えていれば日蓮様の部下がやってきて地獄行きにならないように手配してくれるのだそうだ。
「それじゃあ、ご飯の支度をするね。お兄ちゃんとお父さん、先にお風呂に入ってしまってね」
「それじゃあ、久君が入って。私は寝る前に入るよ」
「はーい。それじゃ先にいただきます」
風呂場は標準的なユニットバスで、設備も普通だ。熱源はプロパンガス。電気とガスと別系統に持つことで災害時への対応力を上げるというのが亡き母の主張だった。
(プロパンガスの方が高いらしいけど……)
まあ、費用の件は父親が考えてくれるだろう。まだ水温が高めのこともあり、たいして待つこともなく風呂に入ることができた。
「ふわぁー、ゆったりだー」
十年ぶり、いや人工冬眠前の入院も考えれば十年以上ぶりの自宅の湯船は癒やしに満ちている気がして、大きく深呼吸した。。
時間の心配もなく、ただゆったりと入るつもりだったが、結局三十分ほどで上がってしまった。普通に身体と頭、顔を洗ってしまえば後は湯につかりながらぼんやりするだけの男子高校生だった。
「お、なにこれ、すごい」
身体を拭いている時に、全自動の洗濯機がすごい進化をしているのに気がついた。単にステッカー類が剥がされていないだけなのだが、新機能などの紹介がされている。
「マイクロバブルに、イオンと超音波で洗浄力アップ、AIを使った汚れの検知と一ヶ月分の消耗品をストックして洗剤の自動投入……」
さらに乾燥機能も搭載されているということで、もはや機械というよりも洗濯ロボットといった方がよいかも知れない。
(普通に家事ロボットとか、出てきている時代だものなあ)
そんなことを考えていると、パジャマがゆるいのに気がついた。昔と同じサイズのはずだから、彼が痩せたということだ。
(当たり前だけど、体力落ちているよなあ。頑張らないと)
自宅は二階に三室ある4LDKだが、一部屋ずつが比較的小さいため、特に大きい家というわけではない。二階に両親と子供達の部屋、一階は水回りとLDKをしきって客間という感じの作りだ。
「ふおお-。自分のベッドだー」
自室は昔のままだった。四畳半にベッドが二つ。一つはロフトベッドで、もう一つは普通のものだ。ロフトベッドは本来客用だが、普段は物置になっている。その下にはロフトベッド備え付けのテーブルがあり、勉強机などを兼ねていた。
荷物をテーブルに投げ出すように置くと、ベッドに身体を投げだし、ごろごろと転がる。年月のせいか、カバー類は新しくなっているようだ。
「本当に昔のままだなー……って、なんかある」
パソコンも当時のままだけれど、ベッドサイドのワゴンに見慣れないものがあった。病院でも使っていたタブレット端末と、電脳接続に必要な機器だ。
「うわ、最新型って……当たり前か。新しく手続すればその時点で最新のものが来るもんな」
ありがたいのは補助電脳まで一体化しているタイプなことだ。持ち運びも可能で、タブレット端末も補助電脳と一体化すればパソコンのように扱うこともできるタイプだ。
「これって、どれくらいの性能かなー」
幸いなことに、キーボードは以前使っていたものを接続できたので、そのまま通常のパソコンと同様に起動できた。
結局のところ北見久はネットやゲーム大好きなインドア人であって。ネット検索に夢中になってしまい、比奈子に呼び出されるまで時間のことを忘れていたのだった。
十年ぶりの、自宅での食事は同時に家族の手作りの食事だった。作ってくれたのは比奈子だが、母親の奈美子から教わったというだけあって、懐かしい味付けだった。
「すごいなあ、比奈子は。もう結婚とかしてもやっていけそうだな」
「くすくすっ。残念ながら相手がいなかったし、予定もないかなー」
「うん、父親としてはもうしばらくは家にいてほしいかな」
雄介が笑いながら、おかわりをすすめてくれる。茶碗を差し出すと、以前は母親がいた席には比奈子がいて、ご飯をよそってくれる。今更ながらに、母親がいないことを思い知らされてしまった。
「はい、おかわりどうぞ」
「ああ、ありがとう」
けげんそうな比奈子にちょっとだけぎこちない微笑みで答えながら茶碗を受け取る。
「お母さんは北見のお墓に入ってるんだよね」
「ああ。今度の休みの日に、報告に行こうか」
「うん。お母さんもきっと喜ぶよ」
比奈子は家では表情が緩んでいるので全然年上に見えない。童顔というわけではないのに、せいぜい同年代にしか感じられない。ともすれば年下に……見るにはちょっとカラダが育ちすぎているけれど。
(多分、ぼくを『兄』と思ってくれているからだよな)
比奈子は二十年生きて、少年よりも多くの経験を積んでいる。大学に通いながらも、財団の職員として仕事もしている。こうしてにぱにぱという感じで微笑んでいても、しっかり仕事もしているのだ。
(うーん、本当にどうしようか)
高校は、あと最低でも二年は通わないといけないらしいのでネット高校とやらに通ってみようかと考えている。なんと、学校によっては電脳教室も存在するのだという。
(今更普通に学校に通うのもアレだしなあ……)
今浦島な、実年齢三十歳近くのある意味オッサンとしては、普通の高校生にまじってもいろいろ難しそうな気がする。
「お兄ちゃん、アジフライ、もう一枚食べる? 」
肉厚のアジフライは、久の好物だ。もともとアジやシシャモの独特の香りが好きな日本人。干物と味噌汁の組み合わせは至高だと思っている。
「お、まだあるのなら、欲しいけど」
「今日はちょっと特別だから、どうぞー」
保存用らしい、別に取り分けてあった容器から手元の皿に移してくれた。手慣れた、もはや主婦の手つきだ。
妹と母親は血が繋がっていないので顔や身体は似ていない。それなのに仕草はそっくりで。家族として過ごした時間が長いことを感じさせる。
(学校の件は、今度カツヤに相談してみるかー)
電脳空間で挨拶した人間は自動的に連絡先が交換されている。一週間以内に操作しなければ削除候補に入り、一ヶ月後に削除される。病院で直接連絡先を交換した人を含めると、五十人以上の連絡先をもらっていた。
(同年代の連絡先は、エリカちゃんとカツヤだけかあ……)
仕方がないことだけれど、ちょっとだけ寂しい。かといって、高校時代の同級生とどんな顔をして会えばいいのかわからない久だった。。「今度の休みに、お墓にお参りに行こうか」
食後のお茶を飲みながら義父が提案してくれた。
「賛成。お兄ちゃん復活の重大報告だもんね」
「了解。ぼくはしばらくは散歩と勉強で、家にいるつもりだよ」
病院にいる間に夏が終わり、秋へと続いていく。少しだけ残念な気もするけれど、夏の退院だと体力が回復しないまま、海や山に遊びに行けないという悲しい状況にだったと自分に言い聞かせた。
退院の時の高揚感は、数日の自宅暮らしのうちに雲散霧消してしまった。筋肉や骨の組織は修復されたということだが、体力が戻っているわけではないので、少し歩いただけで息切れがしてしまう。
(まいったなあ。しばらくは地道にがんばらないと)
退院したから何でもできる、という全能感や高揚感などあっさり吹っ飛んでしまった。朝イチの散歩についてきた妹が不安げな顔でついてくる。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫に決まっているだろう」
横を歩いている義妹が心配そうにのぞき込む。
「運動強度が高すぎるんじゃない?」
「大丈夫さ。数値はそんなに悪くないから」
「ホントにぃ?」
こちらを窺う比奈子からさりげなく目をそらす。今日の比奈子は七部丈のパンツにTシャツというラフなもので、見事に育ったボディのラインがかなりわかってしまう。
(こいつはまったく。警戒心なさすぎっていうか……)
おそらく、彼女の中では二人の関係が高校生と小学生のまま止まっている。自分が少なくとも肉体的には兄の年齢を追い越していて、兄が男子高校生メンタルだということを忘れている。
(距離がとにかく近すぎる! いや、可愛いは可愛いんだけどっ)
そういえば、入院する少し前まで、ときどき比奈子をお風呂に入れていたことを思い出す。当時の彼女は小さくて細くて、とにかく子供だった。そのころの無邪気さもかくや、という甘えっぷりを見せる。
そんな彼女も、実際の運動でひいひい言っている兄の姿はさすがに心配らしい。
「うん、気長にやっていくしかなさそうだなあ」
「大丈夫? ジムに紹介状を書いてもらおうか?」
リハビリ可能な施設が近くにないため、病院でもらった指導にしたがってやっていくつもりだ。ジムは少なくとも歩いて行ける距離にはない。
「歩いていける距離にジムがないからなー」
「ううっ。クルマの免許とっておけばよかった」
「そうだなあ。四輪の免許、考えないとなあ」
F市は新幹線の駅があるため、東京まで通勤する人もしばしばおり、北見家の場合は雄介と比奈子がそうだ。雄介のクルマで一緒に駅まで行くこともあれば、原付バイクで比奈子が一人で駅に行くこともあるらしい。
(自転車に乗るのも苦手だった比奈子が原付バイクの免許かー)
田舎はクルマ社会だ。バスや電車などの公共交通機関が絶滅寸前のため、かなりの高齢者でもクルマの免許を手放す人は少ない。
はあ、はあ、はあ──。
街路樹に背中からもたれて呼吸を整える。広場は緑の草に覆われているけれど、樹種によっては早くも落葉が始まっているのに気がつく。
「ホントに大丈夫? すごく息荒いけど」
おっとりとした顔に不安げな表情。なんだか申し訳なくなる。なにせ十年も寝たきりだったわけで、完全に鍛え直しだ。インドア派といいつつも、自転車乗りの男子高校生だったはずなのだが。
「高齢者の、人の、大変さが、わかったよ」
体力の回復そのものは早いはずだから、焦らずに散歩できる距離を増やしていけばよい、というのが医療スタッフからのアドバイスだった。
「浦島太郎がおじいちゃんになったみたいな感じ?」
「ちょっとだけ近いけど、おじいちゃんになったわけじゃないから」
膝に手をついてのぞき込んでくると、上目遣いの目がヤバい。情愛に満ちた瞳と心配げなしぐさにドキリとする。
(だから、無防備さ、なんとかしろってば……)
もしかしたら、自分以外にもこんな態度なのかと思うとかなりの危機感を感じる。今だってかなり近い。兄妹というより恋人の距離感ではないのか。男子高校生マインドの久としては、薄着の女子大生との接近はインパクトが大きい。
「それじゃあ、あたしもそろそろ行くけど、無理はしないでね」
手首の端末を確認した比奈子がポーチからキーを取り出した。
「うん。無理するほどの体力がないから大丈夫だよ」
「それ、全然大丈夫じゃないし。とにかく無理はだめだよぉ」
髪を軽く押さえながら比奈子が首をかしげてみせるのに、にこりと笑ってみせる。
バイクの荷台のボックスから取り出した薄手のジャケットを羽織ってヘルメットをかぶる。余った髪の毛が風になびいていた。
「無理はしないさ。いってらっしゃい、気をつけてな」
「信じてるよ。行ってきます、お兄ちゃん」
前後ボックスつきの、いささかオバサンくさい感じもする原付バイクにまたがった比奈子が軽くキックすると、ガソリンエンジンが旧時代っぽいサウンドを響かせる。
「夕方には帰ってくるから」
義兄に軽く手をふると、ヘルメットのフェイスシールドを跳ね上げた比奈子がにっこりと笑う。よそ行きモードになったらしく、緩んだ感じがないのに安心する。
緩やかに加速する原付バイクはガチャガチャとシフトチェンジの音を立ててカーブを曲り、見えなくなった。
ホンダの超ロングセラーの原付バイク。日本が世界に誇るガソリンエンジン車だ。最近はこんなカテゴリのモビリティにもハイブリッド技術や電気モーターが用いられるようになってきているが、コストの問題もあって、旧来からの内燃機関も生き残っている
(お母さんが昔乗っていたヤツ、まだ乗れるんだなあ……)
年に一度の点検整備だけでよく走る。コストパフォーマンスが抜群だと母親が自慢していたバイクは、若い頃から乗っていた愛車であり、クルマに乗るようになってからもちょっとした買い物などで乗っていた。
(ウチの車庫狭いし、クルマ3台は置けないからなあ)
三人いるうち、少なくとも一人は自転車やバイクを選択せざるを得ない。そして、免許を取るまでは十ウン年ものの自転車が久の足になる想定だった。
(やれやれ。当分の間は、坂道は押して歩くことになりそうだぞ)
この新興住宅地は高度成長時代に高台に作られた計画的、人工的な街なのだが、重大な欠点がある。富士山の南麓だけあって、けっこうな坂の上にあるため、自転車で移動するのもそれなりにハードルが高いのである。
(今にして思えば、病院の中でないと、電脳接続のキャリブレーションは無理だったなあ)
電脳世界での感覚と現実世界での感覚を近づけるためのキャリブレーションは一時間程度で終わるけれど、設備が必要なために自宅ではできない。普通は公共機関か接続のための手術を行った病院で行う。歩く、走るなど基本的な動作など、必要な情報をインターフェイスユニットに書き込み、電脳世界からの情報を翻訳できるようにするのがキャリブレーションだ。
(キャリブレーションしないと、すごい酔うらしいけど)
インターフェイスユニットの補正がなかった当初の電脳接続はひどいものだったそうだ。視覚情報も動きに関しても通常の3D酔いとは比較にならないほどに重いそうだ。
(とにかく、今日のところはもう一周でやめておくべきかな)
想像以上に体力が落ちていることを思い知らされながら、もう一度歩き始める。疲労感に全身が重く、やりすぎればかえって体力を消耗してしまいそうだ。自分ではけっこう回復したつもりだったが、キャリブレーション時は短時間だったので気づかなかっただけのようだ。
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