第7話
三章 2 悩みと相談
「うわー、久しぶりだなあ」
「うん、久君が来ないうちに、かなり変わったと思うよ」
「うん。古いお墓が新しく生まれ変わってるからねー」
北見家の墓は駿河湾を見下ろす寺の墓地にあった。付近には桜の名所があり、富士川の支流である潤井川の水に打たれる岩の眺めと富士山が有名だ。その名も竜岩淵という。
山肌を切り開いて作られた墓地は階段状に整備され、見晴らしがよい。墓参と同時に富士山を撮影している人も少なくない。ひしゃくとバケツを持った久は父、妹と一緒に坂道を登っていた。
墓碑が新しくなっていた。明治頃からの名前が刻まれていて、もう余裕がなかったのを思い出す。石の肌も滑らかな碑面には以前のものより小さく、しかしくっきりと多くの人の名前が刻まれていた。
「これ、新しくなったんだね。前のもかっこよこかったけど」
「ああ、前の墓碑は拓本を取ってあるよ」
「うん。立派だったものね。ちょっと残念な気がする」
墓石自体も比較的新しい、モダンなデザインのものだ。久の記憶ではそういった形はまだまだ少ない感じだったけれど、十年ほどの間に大分様子が変わって、低めで大きなもの多い。地震対策として墓石等をシンプルで倒れにくいものに変更する家が増えているということだ。
(母さん、ぼくは……治ったよ。母さんのおかげだよ)
同様の症例が少ないこともあり、母の奈美子は息子の治療や検査に関し幾度も自分の細胞組織や血液の提供に応じていた。
遺伝性、かつ遺伝子の異常によるものであり、母親と久以外は世界的にも数が見られない症例だったが、放射線や一部の化学物質の影響で誰にでも発生しうることから遺伝子治療研究の一環として、世界にも数十例しかなかった病気の研究が進んだのだった。
結論として、日本民族は比較的高確率で、全人口の数パーセントが因子を持っており、同時に一部の遺伝子が破損した場合にのみ発症する可能性がある、とのことだった。
久の場合は一部の臓器や脊髄細胞について遺伝子治療済みの自己細胞を使った臓器等への交換が行われ、すでにほろぼろだった筋肉、骨組織についても治療済みの細胞組織による補修が行われ、これにはようやく一般化しつつあったマイクロロボットやナノマシンの技術が用いられた。
天文学的な、とは言わないまでも非常に高額な治療費は大学の研究費や国の補助金と両親の資金、そしてクラウドファンディングなど多くの人が協力してくれたものでまかなわれたそうだ。
『お金の心配はしなくて大丈夫だからな』
父はそう言ってくれた。治療費自体は高額だったものの、両親それぞれがそれなりに高収入だったこともあり、借金等はないらしいのがありがたい。
(そのうち、きっと返すさ。そのためにも、生きて、いろいろなことをして、何かをしていかないと)
今のところ何をするべきか、何をしたいのかもよくわからないけれど、両親や比奈子、そして多くの人たちの愛情や好意に報いたい。そのためには以前よりも頑張れる。そんな気がした。
「このまま、お母さんの実家のお墓の方もいいかな」
「もちろんだ。そんなに遠くないし、行っておくべきだ」
母だけでなく、入院時にはまだ生きていた母方の祖父母も亡くなっていた。富士山のよく見える港の近くの母の実家はなくなったけれど、お墓自体はそのままだった。
潮の匂い。松葉が足下の砂を彩っているのを、箒や熊手で集めて掃除し、手を合わせる。
「おじいちゃん、おばあちゃん、ご先祖様……」
幸いなことに宗派は同じだったため、経文も同じなのがありがたい。慣れ親しんだお経を小さく唱える三人の声が、潮風に吸い込まれていく。
このお墓に入っているのは、明治以降の人だけだ。それ以前の遺骨や記録は幾度もこの地域を襲った津波などの災害で失われてしまっている。母方の先祖はこの地区で半農、半漁といった形でそれぞれに関わる、比較的大きな家だったらしい。
一方で父方の先祖は山のふもとで小作人として農業に従事していたようだ。それが今では母方の家は誰もおらず、事実上久一人がその継承者ということになる。栄枯盛衰は世の常とはいえ、無常を感じてしまう、寂しい風景だった。
(このお墓は、いつか片付けなくてはいけないんだよなあ……)
幼い頃、祖父母と一緒に松の葉を掃き集め、掃除してきた墓はこのあたりでは一般的な作りで目立つことはない。古い墓石が比較的綺麗に保たれているのは、義父の雄介や比奈子が気を遣ってくれているからだろう。
「お父さん、北見のお墓に、こちらのお墓を統合って、できる?」
「うーん。おじさんにも訊いてみないとわからないけど、基本的には大丈夫だと思うよ。ちゃんと根回しすればね」
「うん。ありがとう。まだ先の話だけどさ」
「ああ。言っておくけど、こちらの家を継ぐのも久君の自由だからね」
「ああ……そんなこともできるんだ」
今更北見以外の名前を名乗る気はないけれど、ちょっと新鮮な驚きだった。今時、家を継ぐ、なんて言葉が出てくるのも面白い。
「まあ、お祖父さんたちの遺品なんかは、お母さんが整理してくれて、物置の奥にまとまっているから見てみるといいさ」
「うん。そのうちにだけど、見てみるよ」
すぐに見る程の余裕はないけれど。自分のルーツには多少の興味はある。ただし、実の父については知らないし、興味もない。母は語らなかったし、あえて調べようとも思わない。
今となっては久にとっての家族は義父と義妹のみ。亡き母が作ってくれた大事な家族だった。
「それじゃあ、ご飯を食べに行こうよ。私、久しぶりに一磐亭のギョーザが食べたいかなあ」
比奈子の顔が緩んだ。もう真面目モードは終わりらしい。墓地のはずれの水栓で手を洗いながら、墓参の後の食事の話題に移る。
「ここからだと、ショッピングモールも近いぞ」
父親が大手企業運営の大型複合店舗を挙げた。
「うーん、港の漁協食堂って、まだやっているのかな」
「ああ、やっているよ。比奈子、いいかい?」
「しらす丼だね。もちろんいいよぉ」
F市の港はしらすで有名だ。海外沿いの道はしらす街道などと名付けられ、漁船がそのままお店を持っているようなところもあるのだが、特に有名で人気があるのは漁協の食堂だった。
「この時期は確実に生しらすが食べられるのよねー。幸せ♪」
「ぬうっ。ヒナは生しらすを克服したのかっ。ぼくは釜揚げだなー」
「ふっ。ここは二色を頼むべきだな。どちらも美味しいぞ」
生しらすには抵抗を持つ人も多いが、新鮮なものは生臭さも少なく、独特の食感とうまみを好む人も多い。
港の周囲の光景も大きく変わっていた。港周辺の倉庫なども整理され、観光施設やプレジャーボート関連の施設が増えている。日本有数の巨大堤防はそのものが公園となって観光名所となっている。
「むぐむぐ。久しぶりの味だー」
「うん。最近は漁獲量も回復してきたらしいけど、高いしなあ」
「そうなんだ。地元の名物だし、がんばってほしいよね」
比奈子や雄介はショウガと醤油。久は醤油のみ。これで十分に美味しい。港に併設のためちょっと生臭いところはあるけれど、これもまた風情というものだろう。
「ハンペンフライも買ってきたぞ。食べるだろ?」
「さすがお父さん。わかってるぅ!」
「いただきまーす」
これもまた懐かしいメニューだ。静岡特産と言われる黒ハンペンは魚の香りが強く好き嫌いはあるけれど、うまみも強い。
漁船が並んで繋留されている様子を眺めながらの食事は気持がいい。秋風が涼しく、お茶が美味しく感じられる。
「結局、巨大地震来ないままだよねー。本当に来るのかしら」
「来ないとせっかくの堤防とかが無駄に……なっていいんだよな」
「そうだなあ。来ないに越したことはないけれど、いつか来るさ」
S県は東海の海岸線のかなりを占めているため、東南海地震て大きな被害を想定されている。そのため、建築物には独自の基準が適用される場合あるし、場所によっては巨大な堤防や港を封鎖する門などが設置される。
「江戸時代には、土砂崩れで富士川がせき止められ、干上がったらしいからなあ。現代でも大惨事だぞ」
日本の三大急流といわれる富士川は、江戸時代以前は橋がないため船などの『渡し』が存在した。巨大地震の後の富士川の様子は浮世絵にも描かれるほどの話題だったらしい。
「逆に、ケーブルとか切れると今のほうが地震のダメージ大きかったりして……」
インターネットにしろ電脳空間にせよ、ケーブルを利用しての通信である以上、主要なケーブルが切断されれば甚大な被害となるだろう。「ありうるな。昔と違って、自給自足の都市などないからな」
「複数の都市が分断されたら、それだけで大惨事だよね」
「物資の移動がまともにできないしね」
衛星インターネットはどうしてもコストがかかるため、非常時に皆が使えるわけではない。情報社会の情報がストップすれば、途方もない被害が出るだろう、くらいしか久には想像が付かなかった。
もっとも、S県の災害対策は全体としては充実していて、駿河湾の奥まったあたりは日本でも高さ、幅とも最大級の巨大堤防が整備されているし、耐震基準も独自のものが適用されているほどだ。
「さて、どうする? せっかくだからショッピングセンターにも寄っていくか?」
「うんうん。せっかくだものね。お兄ちゃんも服買おうよ」
「あー、そうだなあ。少し増やさないとまずいか」
さすがに十年も前になってしまっているため、シャツの柄などが古くなりすぎていたり、素材の劣化もあって処分しなければいけない衣服も多かった。
港近くの大型ショッピングモールは休日だけあってそこそこ込んでいたけれど、昼食後ということもあって駐車場には空きがあった。
「それじゃ、お父さんは二階の本屋か一階のカフェにいるから」
「了解。晩ご飯のお買い物もしてから声をかけるね」
さすが一家の食卓を預かる比奈子である。
「オーケー。ぼくは適当に服を買ってから合流するよ」
「ちょっと待って。お兄ちゃんは私と一緒に行動でーす」
ぐい、と手首をひっばられてしまった。
「比奈子だって自分の買い物したいんだろ?」
「もちろんそうなんだけど、お兄ちゃんと一緒に回りたいなって」
今や二歳年上のはずなのに、とてもそうは見えない甘えた表情。期待に満ちた瞳の輝きには両手を上げるしかない。妹の上目遣いのお願いの威力は今も昔も大きいのだ。
「……わかった。一緒にお店を回ろうか」
「えへへー。お兄ちゃん、大好きっ。案内するよぉ」
ぎゅっと兄の腕を引き寄せる比奈子。予想していなかった久はバランスを崩して身体全体が密着してしまった。
「お、おい。近すぎる。あんまりひっつくなよ」
「いいじゃん。十年ぶりのお兄ちゃんぎゅーだし」
「年齢を考えろよ。今いくつだ、おまえは」
「えー。お兄ちゃんより年下なのは間違いないよぉ」
周囲からは年上のお姉さんに可愛がられている弟、といった感じかもしれないが、実情はまったく逆であって。デートコース的な店舗をハシゴすることになったのだった。
そして何より大事なこと。少年はクレジットカードを持っておらず、義妹は持っていた。そして物価も上昇していたため、彼の手持ちの現金では期待したほどの買い物はできないのだった。
「うっす。お疲れ様っす、久さん」
ちょっと目つきの悪い男子高校生が手を上げて挨拶した。一見すると不良少年的な印象だが、実際には丸くて可愛い系の目にコンプレックスがあるのか、わざとやっているらしい。
「カツヤもお疲れー」
電脳空間であれば遠くの友達とも簡単に会えるのは便利だ。カツヤも久もアバターは標準のままで、カツヤは今日も学生服だ。
「カツヤはいつも学生服だなー」
「カネないから、しょうがないっす」
「マジか、ごめん」
頭を下げた久に、カツヤが首を振って笑う。貧乏という意味ではなく、節約なのだそうだ。電脳接続だけなら手術代は補助があるが、実際に接続に必要となる補助電脳は全額補助とはならないし、なんだかんだ言ってオカネがかかるらしい。今のところ家族に頼り切りの久としては肩身が小さい気分だ。
「オレの勝手なんで、服の分を節約してほかにかけてるっす」
「すげーな、セキュリティの資格とかも、それでなのか」
照れくさそうに頭をかく少年はパブリックスペースから個別のチャットルームに久を誘った。
電脳空間にはチャットルームが多い。秘匿回線を使えばどこでも自由に秘密の会話もできるのだが、やはり落ち着かないのか電脳世界ても喫茶店や談話室などのスペースが活用されている。
「自分は、目が義眼じゃないっすか」
「うん。そうだったよね」
田中カツヤも特殊症例の一人で、視覚に障害がある子供だった。最初に色覚が失われ、徐々に視覚そのものが弱くなり、最終的にはほとんど見えなくなると聞いていた。
「んで、現実ではこの目もサイバー機器なわけっす」
「あ、そうか。それでか」
「はい。現実世界のセキュリティにひっかかってしまうっす」
視覚不適合。通常は脳は視覚に自動的に適合する。何らかの方法で脳に神経の接続手術をした場合など、先天的な目の障害があっても一般には視覚を得ることができる。
ところが、田中カツヤの場合は通常の外科手術などに適応しない、特殊な症例だった。そのため機械的な義眼を電脳接続の技術で接続することにより視覚を回復することになったらしい。
メガネが法的にはその人の目の一部と見なされるように、彼の義眼も身体と見なされるが、モノとして見た場合、例えば映画館であれば映画をコピーできるカメラと思われてしまう、ということだ。
法的には問題ないがイベントだとかセキュリティレベルの高い施設に入場する時などは個別対応をする必要があり、その関係でセキュリティの勉強が欠かせないのだそうだ。
「ま、電脳世界では関係ないけど、興味が出ちゃったんで」
「いや、興味出るってことがすごいと思うよ」
そう。興味を持つことが取っかかりになるし、エネルギーになるから。ローティーンのころ、母や義父におだてられながらバソコン画面を必死に見つめていたのを思い出す。
「それでさ、相談なんだけど」
「んー、ガッコのことっすか」
「うん。どこがいい? 知ってたら教えて」
「ちょっと待って下さいっす。えーと……あ、いた」
「誰? 知っている人?」
少年の眼前にコンソールが出現した。何やらコマンド操作すると、すぐにチャットルームのドアがノックされた。
「こんにちは、久様っ。それからカツヤもっ」
地味というか落ち着いたデザインのチャットルームが一気に華やかになった。赤毛に青い目に褐色の肌。ポップな色でまとめられた服装は上下とも丈が短めで、伸びやかな手足が眩しい。
「こんにちは、エリカちゃん」
「お疲れ。それからはいらねーよ。……オレら同級生っす」
「はい。ホシヤマ電脳高校の二年生ですっ」
星山電脳高校。ネット利用の通信制高校は今では珍しくはないが、電脳世界に完全対応した高校はほとんどない。そのひとつが星山電脳高校だ。
たまたまエリカも電脳接続していたため、すぐに連絡がつき、指定されたチャットルームにやってきた、ということだ。電脳世界では物理的な距離があまり意味を持たないせいだが、目の前にいる二人が実際には遠い場所にいる、ということが不思議なくらいに感じる。
「ガッコではただの同級生だったのが、財団のイベントで会って、比奈子さんつながりで情報交換とかするようになったっす」
「へー。学校はどうなの?」
「電脳空間完全対応なんで、普通の学校とほぼ同じっす」
「基本的にはリアルタイムに出席しないと授業がうけられないでス」
「せっかく電脳空間なのに?」
ネット高校などが出現したのは久がごく小さい頃で、通信制学習の新しい形として、自由な時間、自由な場所などがメリットだったはずだ。
「録画ももちろん見れるっすけど、出席が原則っす」
「その代わり、アバターとかかなり自由でス」
なるほど、生徒達の関係性なども重視されている、ということか。出席さえしていれば外見は問わない、と。確かに外見を気にしないなら、コミュ障や引きこもり系の人間もなんとかなるかもしれない。
「標準アバターは推薦だけど、義務じゃないでスから」
「性別不明の同級生とかも何人かいるっすよ」
それはどうかと思うが、まあ今の時代はアリなのかもしれない。何より、もともと久も普通の高校に通っていたのだし、
「ふーん。二人がいるなら、そこで決まりかな」
「本当でスか? 久様っ。嬉しいでスっ」
エリカの笑顔が眩しいくらいだ。シャツと膝丈のパンツと活動的なスタイルがよく似合う。
「知っている人がいるなら安心だからね。ところで、何年生?」
「二人とも二年生でスっ。久様は何年生になるでスか?」
華やいだ空間がさらに明るくなる。まるで物理的に明るくなったような気がするくらいだ。明るく元気な女の子というのは、本当にその場の空気を持ち上げてしまう。
「よかった。ぼくはもう一度二年生の後半からやりなおしなんだ」
長期間の入院のせいで二年生の単位が取れていない。学校に通うのは面倒だけど、この二人と一緒に勉強できるのならいいかもしれない。退屈しなそうだ。
「それじゃあ、一緒に勉強できまスね。嬉しいでスっ」
「うん。財団の支援先でもあるし、いいところだと思うっす」
「あ、そうなんだ。いろいろやってるな、財団は」
「基本、電脳関係ならなんでもって感じっす」
なんでも。その言葉から入院時に遭遇した財団のサイトやアルティナのことを思い出す。
「すっごく大きくて、いろんなことをしていまス」
「え、そうなの? うわ……ヤバいなあ」
「どうかしたんすか?」
「えーとさ。これ、どう思う?」
先日の祝賀会のときに渡された目録の中から、項目を選択すると詳細が表示された。
「えーと……健康と電脳福祉財団理事会より理事選任……マジすか」
カツヤの目が大きく見開かれた。おそらくは、もともとは母が務めていたものだろう。問題は、日本語のものだけでなく英語のものもあるということだ。つまり、アメリカにある本部の理事もやれ、ということらしい。
「理事って、会社でいう取締役だよね。断れないかなあ」
「えーと、確か、もう署名しゃちったんでスよね。うわー……」
二人ともがドン引き状態である。やはり、厄ネタなのかと暗鬱な気分になる久だった。
「ごめん。『財団』について改めて教えてもらっていい?」
正直なところ、両親が中心メンバーにいたという時点で身近な、中小企業のノリでいたのだが、どうもそんな感じではないらしい。というか、なんとなく怖くて目を背けていたのだが。
「んー、アルティナに訊くのが確実だと思うっすよ」
「いや、なんか怖くて」
「いや、正確なところを知るべきっす。だよな、エリカ?」
「それはそうなんだけど……心の準備が必要じゃないかと思いまス」
(それほどなのか……電脳関係でスゴイのはわかっていたけど)
冷や汗を背中に感じつつ、二人に概要を尋ねてみる。
「えーと、電脳接続関係の規格の制定に関わっていて」
多分、これはまだセーフだと自分に言い聞かせる。これなら直接利潤とか権力には関わらない……と思う。
「ソフトウエアとハード両方で関わっていて、最大派閥でスよ」
「電脳接続のハードウエアの三割くらいがグループ会社の製品で」
「財団の特許を使っていないハードはほとんどないでスね」
ヤバい。規模は多分、昔の巨大IT企業レベルかもしれない。
「財団は公益法人じゃなかったっけ。お金儲けしていいの?」
「財団はいくつも企業に出資していまス。そこからの利益をいろいろな福祉や文化事業に使っているんでス」
エリカが真面目な顔で答えてくれる。そういえば、エリカは普通にお嬢様、かどうかは知らないが少なくとも年単位で日本に留学に来ることができる程度にはお金持ちなのは間違いない。
「久様の手首には、インターフェイスが埋め込まれていまスね?」
「うん。もしかして、これも?」
手首に埋め込まれたインターフェイスはこれ自体が高性能なコンピュータであって、電脳世界からの情報を人間が理解出来るように翻訳する機能を担っている。
「インターフェイスは財団と大手医療機器メーカーの合弁企業が作っていて、世界シェアは六割以上でス」
「あー、特許の問題で財団と契約を結んでいないと根本的に他社では製造できないらしいっすよ」
さらりと言われたが、逆にいえば、世界中で電脳世界に接続する全ての人が財団の技術を使っているということだ。特許料だけでも膨大なものになるだろう。
(な、なにこれ。昔のCoocleとかMackroSoftとか同じレベル?)
だらだらと背中に流れる想像の汗。これは自分などが関わってはいけない世界ではないのか。
「あの、財団の売り上げというか……」
「財団本体の収入で百億ドル近くって聞いたことがあるっス」
財団本体の収入が株式配当や特許料だとすると、収入のかなりがいわゆる『儲け』ということになる。つまり、それを稼ぎ出している企業活動のレベルはその数十倍の売り上げを出しているだろう。高校の金融学習の授業を思い出して、さらに頭が痛くなる。
実質十代の浦島太郎な人間が関わっていい世界ではない気がする。
「おかしい……ぼくの知ってる財団と違う……」
少年の知っている『財団』はもともとフリーランスのIT技術者の相互扶助を目的としたもので、アメリカの篤志家が出資してくれたことで、アメリカにもサービスを広げることができるかも、と両親が喜んでいたのを思い出す。当時は利益など出ていなくて、不況などに備えた積み立てを真剣に話し合っていた。
「財団が急成長したのはこの数年っす」
「十年くらい前から大きくなって、電脳接続で一気に、でスね」
「ぼくが入院しているうちに、すごいことになっていたんだなあ」
「アメリカにも財団が設立されて、各国の財団をまとめる形でアメリカに本部が作られたはずっす」
「くすくすっ。私のダディも、財団の出資者でスよ」
ぴしっ。久とカツヤの背景に、なにかヒビが入ったような気がした。「あの、カツヤ……エリカちゃんって」
いたずらっぽく微笑んでいるエリカから目をそらしながらカツヤの様子を窺うと、手元でさっそく調べているようだ。
「うっす。財団の公式サイトなんすけど……これ、っすかね」
カツヤが財団の紹介ページを確認し、理事会メンバーの写真つきリストを表示させる。海外の団体や会社は役員の写真行きリストを公開していることが多い。その中に、赤毛に青い瞳の壮年男性がいた。
「もしかして、このロビンソン氏って」
「はい。私のダディでスっ」
誇らしげに肯定する。その瞳といい髪といい、父親似だろうし、彼女の明るく素直な性格を考えれば父親にさぞ愛されているだろう。文字通り大輪の花のような華やかな笑顔だ。
「なあ、カツヤ。まずくないか?」
「うっす。そんな気がするっす……」
エリカ・ロビンソン。アメリカのIT企業の社長令嬢。どれほどのお金持ちかはわからないが、こうして一人でうろうろしているのは大丈夫なのだろうか。いくら電脳世界とはいえ。
「久様。どうかしましたか?」
きょとん、とした表情の赤毛美少女に、男二人が少し引きつった笑みを浮かべた。
「い、いや。今日はこのへんで。ありがとう。助かったよ」
「はい。今度の自然調査会、よろしくでス。バイバイでス」
にこやかに手を振ってから、颯爽とした足取りでチャットルームを出て行くエリカを見送った少年たちは顔を見合わせた。
「カツヤ、知らなかったの? というか、実はカツヤもVIP?」
「知らなかったし、自分はそんなんじゃないっす」
そういいつつも、カツヤの田中家は老舗の駄菓子製造業だそうで、そこのブランドは久も昔からお世話になっている懐かしい味の一つだった。
「なんだよー。カツヤだって社長令息ってやつじゃん」
「自分、次男だし、そんなに裕福じゃないっす。商売だって……」
コスト上昇に対して値上げがなかなかできないため、経営はかなり厳しいらしい。子供が手軽に買えるというコンセプトを守るために関係者一同が知恵を絞ってやっているそうだ。
「この目もお金かかってるっすから。自分が頑張らないと」
カツヤが自分の目を指さして、不敵に笑う。将来は自分で稼いで、親に治療費の分を返すつもりなのだそうだ。
「すごいな、カツヤは。だからセキュリティの資格とか持ってるんだ。エリカちゃんもきっとそうなんだな」
おそらく、エリカは自分で自分の身を守るために。自分は何をするべきなのだろう。
「久さんも取っておくといいっすよ。自己防衛大事っす」
「ああ、そうだね。この前みたいなコトがあったら困るし」
「それで、です」
頷くカツヤの声が低くなった。
「エリカは自分の予想よりもヤバかったっすけど、それだけじゃないっす。彼女の年齢、聞いてるっすか?」
「いや、そういえば、知らない」
「十五歳アメリカで飛び級で高校卒業してるらしいっす」
「マジ? 日本で高校に入る意味、なくない?」
「そこなんすよ。久さんと一緒に学校に通いたいからだって」
「ちょ、まっ……って、本当に?」
カツヤのどんぐりまなこが、心配そうに揺れた。
「だから、気をつけたほうがいいっすよ。悪いヤツじゃないけど」
「気をつけるって……」
「エリカにとって、久さんはアイドルとか以上なんす」
「い、いや。そんなこと言われても、困る」
彼女のテンションの高さが少しだけ納得できたが、どうにも納得がいかない。
「ぼくはそんなにすごい人間じゃないよ」
「ここだけの話ですけど、アルティナの制作者がっすか? オレにとっても久さんはヒーローっすよ?」
どうやら、アルティナの制作者は秘密事項らしい。その方がありがたいけれど、それを知っているということはカツヤも財団側ということか。
「いやいやいや。アルティナはほぼ百パーセント自分で育ったんだし。実質ぼくの功績なんかないと思うし」
「オレやエリカは、久さんに治療の順番を譲ってもらったっす」
自分にとっては大したことではないけれど、本人にとっては大事なことなのだろう。そこまではいい。でも、その先があるらしい。
「それから、財団にとっての久さんの貢献って、すごいでかいっすよ」
「え、なにそれ、知らない」
「アルティナがAIとして、看板になってますよね」
「ああ、それは知ってるけど」
まさか、アルティナの得た収入とかも自分の功績になるというのか。背筋が寒くなるだけじゃなくて、なんだかぞわぞわしてきた。
「結果論すっけど、アルティナの売り上げって久さんの功績の一つっすよ。間違いなく」
自分としてはまったく実感がない。事実上アルティナが勝手に育ってくれたようなものだと思っているのに。
「今の電脳接続関連のチップレット・プログラム構想とソケットシステムは、久さんの考えていたものがベースになってるっす」
プログラムの互換性を高めるための変数の授受などの規格化について、いくつかドキュメントを作成したことがある。賞をとったのをいいことに、中二病特有の情熱に浮かされて、一気に作り上げたものだが、しょせん十代半ばの子供のものであって。
「はあ? いや……ほとんど構想だけだったし」
構想案として両親は褒めてくれたが、それ以上の反応はなかったしそれが何かの実績に繋がったという話は聞いていない。
「それだけじゃなくて、自然な画像を生成するためのフラクタル・コード・エンジンもそうですし」
「あれは母さんがメインでぼくは手伝っただけだよ」
「アルティナだけで、財団がどれだけ稼いでいるか知っていますか?」
「いや、見当もつかないけど」
ふう、とカツヤが肩をすくめた。
「それから財団はプログラミング・プラットフォームでコードの引用を功績として賞金を出してるけど、久さんのコードの引用、今でも十位以内に入ることがあるっす。それくらい普及してるし」
「うそでしょ。どのプログラムも、ほかの人が同じようなものを作っていたはずだよ。ぼくのなんか……」
「そこまでっす。結果として、久さんの作ったプログラムのいくつかは、受け入れられたってことっす。それが現実っす」
「うわああああ──。まじかっ。マジなのかあ──」
財団がプログラムミングの支援システムを作っているのは知っていた。確か、久は自分の作ったプログラムは全て財団のシステムに登録していたはずだった。そのときのユーザー名はhii1324。そして、ランキング表示の中には確かにhii1324の文字列が表示されていた。
「というわけで、現実を受け入れたほうが幸せになれるっす」
「いやいやいやいや、ぜっっったい何かが違うと思う」
ショックが大きすぎて目眩がしそうだ。頭を抱える久を、同年代となった少年が気の毒そうに見つめる。灰色の混じった爆発頭がちょっとしおれた感じだ。
「しょうがないっす。とりあえず貧乏じゃないんで喜ぶといいっす」
「それは、ありがたいけどさあ」
確かに、お金はありそうな気がするが、それ以上に場違いというか高校もまともに出ていない若造に対して責任重大すぎる。
「アルティナに詳しく聞いておくのをオススメするっす」
「それしかないかー」
がっくりと項垂れる久だった。
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