第4話
二章 1 黒霧事件
(おっと、しまった。集中しちゃってたか)
ちょっと回想から考え事をしていて、集中してしまった。電脳世界で治療成功のお祝いをしてくれるという話だったはずで。比奈子に少し待って欲しい、と言われたはずだった。
「えっと……比奈子は?」
思わず周囲を見渡してキョロキョロしてしまった。義妹の姿がなくなっている。おいて行かれたのだろうか、とギクリとしてしまったが、比奈子はそんなことをするタイプではない。
「比奈子? もういいかい?」
近くにいるかと思い、呼びかけてみると通りがかりらしい女性がビクン、と大きく身体を震わせた。驚かせてしまったらしい。
「あ、すいません。妹とはぐれてしまったみたいで」
コクコクと頷いた女性は……ファンタジー映画や絵本などに出てくるような薄く透けるような衣装。耳が長く、人間ではないことを主張している。
(うわ、綺麗だけどちょっときわどくないか、この服…)
顔立ちも整っていて、ソフトフォーカスがかかったようなエフェクトが雰囲気を出している。どうやら妖精らしい。
「…………」
妖精さんのパールが入った輝くような唇がかすかに動いていたけれど、声が小さすぎて聞こえない。
(それにしても……妖精さん、可愛いというか……)
彼女は妖精さんそのものだ。アバターはまるでファンタジー映画に出てくるような綺麗で可愛いデザイン。おそらくはエルフとか森や草木の妖精をイメージしたもので。緑と黄色、ピンクなどを中心とした衣装はすごく可愛い。
「あ、あの。アバター、切り替えたから。……ヒナ、です」
ただし。十分に成長した女性がそんなコスプレをしたような状態なわけで。そう。いささかセクシーにすぎるのだった。そのセクシーな妖精さんが、少年の妹を名乗っていた。
「ヒナ……マジで??」
「そ、そうだよっ。見てわからない?」
ぽかん、と思わず口をあけた間抜け顔になってしまった久の前で、彼女の耳がみるみるうちにピンク色に染まっていく。目尻も赤くなっているのは、色白で紅潮しているのがわかりやすいせいだ。
(恥ずかしがっているところまで再現されるのか。ううむっ)
思わず見とれてしまいそうな、魅惑的な眺めだった。恥じらう美女というだけで誘惑的なのに、その衣装はかなり布地が少ない。つまり露出度がかなり高いわけで。
(む、胸とか谷間になっているし。背中とかも……)
デザインはかなり大胆で、背中の布地は大きくカットされ、腰のあたりまでが露わになっている。肩甲骨の間から光の粒で構成された小さめな翼がうなじから背中のラインを照らしている。
スカート部分はもともと短めなのだけれど、一番隠しておくべき部分とその周辺だけがしっかりとしていて。裾に向かうに連れて色が淡くなり、透明度を増していくというなんとももどかしいデザインだ。
「ううっ、そんなに見られると恥ずかしいよぉ」
比奈子の手指が前で落ち着かなそうに組み合わされてはほどかれている。その指すらもが優美で、ドキリとするほどだ。
「あ、ああ。ごめん。つい……」
大人しそうな、清楚な印象の比奈子が大胆な衣装を身につけているのギャップが大きくて。心臓がはね上がったような気がした。
うつむいてしまった比奈子の髪の毛にもエフェクトがかかっていて、ソフトフォーカスっぽくなっている。かなり凝ったアバターだ。
「今日のイベントに出られるアバターがこれしかなかったの」
頭の中にハテナマークがいっぱい浮かんだが、目をしばたかせる間に頭にいくつかの言葉が思い浮かぶ。
「それって……ドレスコードみたいなやつ?」
「うん。実はこのアバター、ランクが高いから」
それは納得だ。値段をつけたらとても高価なことも想像がつく。たぶん、ランクも高いのだろう。
「あ、ああ。そうなんだろうな。ぼくはいいの?」
気後れしているのが口調に出てしまった。これからあるのは久の快気祝いで、義父や妹やその関係者が集まるのだと聞いていたのに。海外ではともかく、日本でドレスコードを要求ってどういうことなのか。「お兄ちゃんは大丈夫。標準のアバターと一番いい衣装だよね」
「あ、ああ。ヒナが手配してくれたの、そのままだ」
式典などには原則として標準アバターを使い、ふさわしい礼服等を着用するらしい。式典や主催する団体などによりアバターも指定ささるというわけだ。
今日の久は一応三つ揃いのビジネススーツ。ちょっとだけいい格好ということで比奈子が指定した衣装で現実世界とリンクしているものだ。というか、式典用などのためにファッション業界はデジタルデータとの同時販売が必須になっている、ということだった。
「うん。それなら大丈夫。それじゃ、時間だし。行くよ」
「あ、ああ。どんな人が来ているのかな」
「大丈夫。みんないい人ばかりだよ」
そう。わざわざ治療成功と久の意識回復を祝うために集まってくれる。そう思うだけでいささか気恥ずかしいけれど、ありがたくも思う。だだ、ちょっとばかり不安だった。なにせ、今ウラシマだ。なにかひどい失敗をしてしまいそうな気がした。
扉が開いた瞬間、光で世界が切り開かれたような鮮烈な色彩が舞い踊った。同時に、いっぱいの拍手と笑顔。
「北見久君、おはようございます!」
「待ってたよ、ひー君っ!」
「治療成功、おめでとう」
「ついでに初ダイブもおめでとうっ!」
知っている顔と、見知らぬ顔と。全部で数十人の人々が待ってくれていた。手を叩き、目を細めて祝福してくれる。その先頭には、見知った顔がある。義父の北見雄介だ。
「義父さん……」
緊張した面持ちの義父が一歩踏み出すと、ざわついていた雰囲気が収まった。集まった人々に軽くお辞儀をすると、少年に笑いかける。
「うん。まずはみんなにお礼をしようか」
「う、うん。皆さん、ありがとうございますっ……ぼくっ」
そこで言葉は切れてしまって、続かなかった。十年以上の間、事実上この世界からいなくなっていた少年のことを、忘れずにいてくれた。それだけで胸がいっぱいになってしまった。
「治療が、うまく、いきました。みなさんの、おかげですっ」
医療スタッフに、治療費用のクラウドファンディングなどに奔走してくれた人。いろんな人が協力してくれて、今の自分がある。
「憧れたまま十年以上がたってしまった、電脳世界へも来れました」
少年が眠りについたのは、電脳世界の文字通りの黎明期で、その原型というか、これからの発達が見えてきたそんな時期だった。
あのころ、思い通りにならない自分の身体に絶望する一方、生きてさえいれば、たとえ身体が動かなくても電脳世界に入れるかもしれないと思った。
人工冬眠を選んだ理由の一つが、未来で電脳世界を体験してみたい、という強い憧れだったことは確かだ。
「……もう少しで退院できるそうです。本当に、ありがとうこざいます」
大したことをいってないのに、皆が拍手してくれる。なんだか申し訳ないくらいだ。妖精さんだけじゃなくて、ヒーローみたいな人など、いろいろな人がいるけれど、下品な感じはない。おそらくはドレスコードが機能している、ということなのだろう。
そのあと、何をしゃべったのかよく覚えていない。回復したことを皆が祝ってくれるのが涙が出るほど嬉しかった。
「それでは、皆様からのプレゼントの贈呈です」
比奈子の声が響くと、また拍手があって。
「えっ……聞いてないんだけど」
「もちろん、サプライズですから」
ウインクしてみせる比奈子がいたずらっぽい笑顔を浮かべていた。どっと笑いがあふれ、拍手が大きくなった。恥ずかしそうにしながらも滑らかな口調なのは、恐らく初めてではないからだろう。
「それでは皆の代表として、アルティナの登場です」
もしかしたら会えるかもしれないとは思っていた。通称財団、「電脳福祉と健康財団」を代表する、あまりにも有名なAIだったから。
(アルティナ。電脳福祉と健康財団の……ペルソナAI)
電脳世界でただ財団というと、「電脳福祉と健康財団」のことを指す。もともとはフリーのインターネット技術者やプログラマーなどの互助組織として始まったものだが、内部のフォーラムで規格化されたものが国際規格となったりもしており、現在では電脳世界の動向に大きな影響を与えるほどになっているらしい。
そのペルソナAIは、文字通り財団のシンボルであり、窓口のガイドであり、ときにはアイドルですらある。おそらく、ここに来ているのはガイドとかをしていたものよりアルティナの本体に近いだろう。
(ほぼ人間と同様の反応をしてくれるって……本当かな)
音楽が流れ、会場の脇の扉が開いて女神が、いや天使が現れた。
白銀から青銀へのグラデーションの髪。透き通るようなきめの細かい肌は磨かれた大理石のよう。人間ではありえない優美なプロポーション。細く上品な顎。唇は赤く艶やかで、かすかな笑みが神秘的だ。
ゆったりとした弧を描く眉の下で、まつげが頬に影を落としつつ、光を反射して輝いている。瞳はエメラルドグリーン。
(これが……財団のペルソナ……アルティナか)
多くの会社、団体では一つ、または複数の個性を持ったAIにガイドや基本的な発表業務などを任せている。そういった団体や組織を代表するAIをペルソナAIといい、このペルソナの性能や性格が企業や団体の評判を大きく左右する時代だという。
(綺麗だなあ……基本は母さんのモデル……だよな)
母親の奈美子は優秀な技術者兼アバター制作者だった。彼女独特のクセのようなものを感じる。画家でいえば画風というのか、人の個性は作風となって現れるのは今も同じだ。
(電脳天使、か。綺麗なだけじゃなくて、威厳というか……)
ただ綺麗なだけではなくて、存在感がすごい。その存在感の裏付けとなるのは処理能力なのか、データ量なのか。翼や天使の輪もないのに、なぜか天使という言葉がしっくりくる。
人間ではありえない、神秘的なものを感じさせる対称性や骨や筋肉の構造すらあるのではないかと感じる滑らかなで自然な動き。
意識を向けるとその詳細に作り込まれたディテールに圧倒される。幾重にも重ねられた薄衣の質感といい、布地を止めるベルト飾りのデザインといい、どれだけの時間をかけて作られたのか。
(あ……)
気づいたときには、アルティナは少年の足下に膝をついて深々と頭を下げていた。目をばちくりさせて周囲を見渡すと、義父が頷いてかすかに微笑んでいる。
(え、何これ。天使に跪かれてる? なにかヤバイ?)
ぞわっ。体中の毛が逆立つような違和感。絵面がまずい。綺麗な女性を跪かせているとか。
(ぼくはノーマルだぞっ。ヤバイ趣味はないぞっ)
そんな一瞬の動揺も天使が顔を上げた瞬間にふっとんだ。人間ではありえない、完全な左右対称な顔。美しさ、という点では現実的にありえないほどの計算された美貌。
にこっ──。
少年を見上げるアルティナの笑顔。それには紛れもない親愛の表出で。透明感のある雪白の肌がうっすらと上気していて、むしろ思慕すら感じさせる。かすかに目が潤んでいるのにドキリとしてしまった。
(え、何これ。可愛いよ、この人……)
相手はAIだ。ホンモノじゃない。人間じゃない。この表情も作られたもの。そのはずなのに。先ほど感じた威厳や凄みとのギャップが大きすぎて。目を見開く少年は思わず身体を固くしてしまう。
ドクン──。
(やばっ。これはAI。これは人工物。これは作られたモノ……)
ずっと緊張状態にあった上にさらに心拍数が急上昇。いささか混乱している久の前で艶のある美麗な唇が開いて、鈴を転がすような、透き通るような声が心を揺さぶる。
「久様、ここに……お手を」
天使がその手をかかげると一瞬のゆらぎとともに銀のトレーが現れた。そこには一つの石版を模したスクリーンがあった。
「う、うん」
声が少し震えてしまった。先ほどの、集まってくれた人たちからの好意にも感動したけれど、目の前でのAIの向けてくれた表情が自分でも驚くほどに心に響いている。
(人間じゃないのに。すごい……感情を感じる)
促されるままにスクリーンに手を触れると、見慣れた画面が現れた。少年が昔から愛用しているメールサーバーのログイン画面だ。促されるままに操作し、ログインすると石版はそのまま重厚なデザインのバインダーへと姿を変える。
「北見久様へ財団や皆様からの贈り物です。お受け取り下さい」
にっこりと微笑みながらの言葉は耳にも心地よい。誰かの肉声をもとにしたのか、ゼロから作ったのかはわからないけれど、微妙なビブラートが入ったようなアルトの声が優しい。
(うわ、笑顔が、すごい可愛いんだけど)
NAMIモデルの特徴と言われる表情の豊かさとその完成度を感じさせる、アルティナの笑みはデジタル美女慣れした現代人をも魅了しているらしく、高い人気を誇るのも納得だった。
「あ……ありがとう、ございます」
どうやら目録らしいバインダーを手に取ろうとした瞬間、絹を裂くような悲鳴が会場に響き渡った。
「キャアアアッ──!」
悲鳴と同時に警報と炸裂音が鳴り響き、幾人もの人影が倒れていく。
『danger』『cyberterrorism』『failure』『damaged』……人々の頭上にさまざまな警告が現れている。そして、注意喚起の表示は入り口。そちらげは扉が開いていて、銃を構えた人影が複数。
「……うわっ、攻撃してくるぞっ。 テロか! 待避しろ!」
襲撃者たちは黒い霧のようなもやに包まれているが、訓練された兵士のように見える。数は十人ほど。
「ど、どこから浸入したっ」
浸入した直後の乱射で混乱を引き起こした襲撃犯は会場のセキュリティなどなかったかのように銃を構えたまま会場である会議室に突入してくる。
「机を盾にしろっ。手段あるものは対応するぞっ」
誰かが机を倒し、その影に隠れると数人かそれに習い、さらに何人かがその影に隠れた。
「通報は!? セキュリティを呼べっ」
慌てて電脳空間から退避するもの。アバターを攻撃され、意識を失ったのか強制退避させられているアイコンもいくつか表示されている。 意外なほどに軽快な銃声が、電脳空間内に響き渡る。AP……攻撃プログラム弾が侵入者の手でばらまかれたのだ。
「うわあっ」「痛いっ、痛いぃぃっ」
わっと蜘蛛の子を散らすように逃げ出す人々の間で、光の柱が立ち上がり、強制ダイブアウトの表示が現れた。緊急待避を思いつかずに逃げ惑う人々に向けてAPが打ち込まれる。
APが動作すると、その威力に応じてデータが破損する。その破損が一定以上に達し、機能を維持できなくなるとデータは破壊され、消滅する。AIキャラクターなら学習データの損傷となるし、電脳世界にダイブ……電脳接続していた人間は大きな精神ダメージを受けた上で強制退避となる。時には脳神経に損傷が出る可能性すらある。
(なんだよ、これ。電脳世界でのテロって、ヤバいだろっ)
ヴンッ──。
誰かが展開したシールドが緑色に輝き、鈍い音をたてながら射出された弾丸、APを受け止める。防御ブログラムだ。DP、防御プログラムの使用でAPによるダメージを無効化できるのだが、資格が必要だ。一般人はこの防御プログラムを持っていないのが普通だった。
「皆さんは我々の後ろにっ。」
数こそ少ないがその前に躍り出る人もいる。その頭上に輝くアイコンはセキュリティ関連のライセンスを示していた。
「何者だっ。ちっ、所属表示機能もだめかっ」
DPのシールドを展開しながら、警備職らしい人物が攻撃者の進路をふさぐ。その脇を固めるように数人が列を組み、敵に対して攻撃を加えた。
「久様は、私の後ろへお下がり下さいっ。……ガード達っ!」
緊張したアルティナの声に呼応して周囲に光の柱が立ち、その中に弓矢を構えた青年達が現れる。セキュリティを示すアイコンが頭上に輝いていた。
「緊急待避ができないっ。出入り口が封鎖されているっ」
幾人かが複数ある扉の前で呆然としている。扉が開かないのだ。
「緊急コマンドが遮断されているぞっ」
電脳世界で攻撃を受けてダメージを受けると激しい苦痛や精神的ショックを受けるだけでなく、脳神経にダメージが発生することもある。その命綱である緊急退避の使用不能がパニックを引き起こす。
「行政ルートは大丈夫みたいだっ、接続先を変更できるか?」
「行政窓口経由で退避できる人はそちらから退避してくださいっ」
「すぐに退避できない人はテーブルの影に隠れてっ」
セキュリティ資格を持つものはそれぞれに手持ちの装備を展開して対応しているが、いかんせん人数が違う上に一般人をかばいながらでは十分に力をふるうことができないようだ。
「長くは持たないっ。応援を呼んででくれっ」
「非常用の退避ルートがふさがれてるんだぞ。応援なんて来るかよっ」
「くそっ、常識的な意見ありがとよっ」
先頭に立って攻撃を防いでいる人物が、年若い男性と言いあいながらも戦線を支えている。シールドとなっている防御プログラム、DPの数値がみるみるうちに消耗していく。
「くそっ、DPの補充が間に合わないっ」
「こっちも、APの認証がいつもより遅い。弾切れになるぞっ。」
サーバーのセキュリティ機能を乗っ取られている。敵の攻撃プログラムの補充は可能だが、味方の補充ルートに制限がかけられているようだ。
「くそっ、全部……ボットか!? たちが悪いっ」
「財団のサーバーのセキュリティを抜けてくるなんてっ」
襲撃者達は無言。人相が確認できないのは、正しいアバターが設定されていないだけなく、個性そのものがないのだ。その実行のためだけの能力を与えられたAIはボットと呼ばれていた。
(最低限の、機能実行のためだけのAIだから、データが軽いんだ。だから──擬装もしやすい)
電脳世界でボットといえば本来の機能のためではなく、悪事のために利用される、乗っ取られた、またはコピーされたAIのことを言う。当たり前だが、自動的に目的を実行するやっかいなものだ。
人間が指揮しているのであれば、指揮している人間を排除すればそれで済む。だが、全員が無個性ということは、ただのコピーなのでどれを倒しても変わらないことになる。
「会場のセキュリティは……遅いっ。何をしているんだっ」
「全員、緊急待避してくださいっ。お兄ちゃんもこっちへっ」
普段穏やかな義父の怒声。比奈子の誘導。二人がアルティナの脇を固めるようにして久の前にいる。
比奈子の周囲に展開されている半透明の板状の物体はDP、防御プログラムなのだろう。焦った声で義兄に脱出を促す。
「早くっ。あいつらの狙いはお兄ちゃんなんだからっっ」
かろうじてバインダーを受け取ったままの少年は、その事実をぼんやりと認識しつつも、それ以上にバインダーの上に重ねられた書類に見入っていた。
(いいのか? ぼくが、こんな……)
たが、時間がない。唇を湿らせてから、銀髪の天使に尋ねる。
「いや……ぼくはここにいる必要がある。そうだね? アルティナ」
「はい。その書類を確認の上、署名をお願いします」
アルティナに従い、書類の注意事項を一気にスクロールする。内容の詳細までは確認できないが、今はそんなことを言ってられない。
「そんなっ。お兄ちゃんは退避できるのにっ」
泣きそうな顔の義妹の肩に触れながら、義父が首を振ってみせた。
「いや、比奈子。今でないといけないんだ。久君、わかるね?」
「うん、お義父さん。……よし、署名するよ」
署名欄に触れると出現したペンを握って、北見久の名を書き入れる。それと同時に、補助電脳が電子署名を発行しているはずだ。これで、目録にある贈り物が、正式に北見久の所有となる。
「署名確認しました。指示をお願いします」
アルティナが少年に向き直り、今一度跪いた。護衛の青年たちが弓を構えて襲撃者と交戦にも関わらず、その声は平静だった。
「どうすればいい?」
「『為すべきことを為せ』、とお命じ下さい」
ごくり、と少年の喉が鳴った。目録の中にあった。すべての権利が彼のものになる、ということは──。
(ぼくなんかがやっちゃって、いいのか──?)
だが、襲撃者たちとの銃撃戦はまだ続いていて、時間の猶予はない。このまま放置すれば、取り返しのつかないことになりそうな気がした。(そうだ。襲撃が成功するということは、サーバーの管理権を奪うということ。そうだとすれば──)
電脳世界で単に財団、という場合は電脳福祉と健康財団のことを指す。その財団の、たとえサーバーの一つでも奪われれば、大きな問題を引き起こすことは容易に想像がついた。たった二週間ほどの入院生活の中ですら、財団の大きさと重要さはわかっていた。
(今は、ぼくがやるしかない……はずだ!)
久の口元が一瞬だけきつく結ばれ、目の前の電脳天使と呼ばれるAIに命じる。
「アルティナ、為すべきことを為せ。この場において必要な権限を与える」
「……お兄ちゃんっ」
比奈子の目が大きくなった。その意味を理解したのだ。
「承知しました。仰せのままに、わが主」
深々と頭を垂れたAIが顔を上げた瞬間、その場の権限が、属性が一気に塗り替えられた。
キン─────ッ!
高周波音とともに、会場全体に淡い光が満ちた。その光はその場にある全ての物体を多う皮膜になり、襲撃者の攻撃を弾く。
「!」
襲撃者たちが動揺したようだった。次の瞬間、際限なく炎を履いていた機関銃が沈黙した。敵のサーバーから送られていたAP──攻撃プログラムが途切れたのだ。
「やったっ!」
固唾を飲んで状況を見守っていた人々の歓声。一方で苦境に追い込まれた襲撃犯達は一瞬の逡巡の後、バラバラに突撃してくる。
「無駄ですっ。本サーバーのセキュリティは掌握しました」
久の受け取ったプレゼントの目録、つまりリストの中には財団のサーバーや各種権限の項目があり、その中にはセキュリティに関するものと、ペルソナAIアルティナに関する権限があった。
「シャアアアアッ──!」
銃撃による圧殺が不可能になった暴漢達は防衛線をすり抜けてステージに突入しようとするが、その動きが止まる。その周囲に光の格子が現れ、侵入者を隔離していた。
「無駄だと言いました。これで終わりです」
風切り音と、何かが裂けるような音がした。一瞬で襲撃者の肩や胸に矢羽根が生えた。いや、矢が突き刺さっていた。動きがとまった襲撃者たちは、足下から砂のような粒子となって崩れ──消えていった。現実世界ではありえない消失だった。
アルティナがガードと呼んだ弓矢を構えた青年達は無言のまま会場の出入り口に移動し、警護に移る。よく見れば耳が長く尖っていて、人でないことがわかる。森に住む妖精達という設定なのだろう。
「やった! さすがアルティナァァ──ッ」
誰かが叫ぶと、それはそのまま勝利の雄叫びと、安堵のどよめきに変わる。
「どうなることかと思ったが……」
「大丈夫です。緊急退避した人たちの無事も確認できました」
セキュリティ関係者がせわしなく操作を続け、さまざまな操作を続けている。
「アルティナ、転送ゲートのフィルタリングの復旧の承認を」
「アルティナ、侵入検知プログラムの更新確認できました」
アルティナはそれらに対し短い言葉で返しながら復旧作業を頭上の画像化して表示している。
グラフィカルに表示されるのは、物理的な接続図やシステム模式図など。その中で点滅しているのは復旧に携わっているセキュリティ関係者の名前だ。すでに本部職員との連絡などもあるらしい。
(当たり前かもしれないけれど、すごいなあ……)
ふと気づくと、自分の前に検索窓が開かれていて、アルティナの情報が表示されている。それによれば、アルティナのアバター作成はやはり北見奈美子が中心となって製作したものだが、AIの作成者は公開されていない、ということだった。
(これが……母さんが亡くなる前に、力を注いだアバターなんだ……)
デジタルフィギュア、バーチャルビューティなどいろいろな言葉があるが、一つの作品というかオブジェクトとして別格なのだと気づく。母親のほとんど最後の作品なのだろう。彼女のありったけを注いだ濃密な、磨き抜かれたセンスと技術の結晶。それがアルティナだった。
目、眉などの各パーヅだけでなく、表情についても単に動くだけではなく、表情筋などの動きを踏まえたものになっているのだろう。それほどの自然さを感じさせる。
衣服についてはフラクタルエンジンを用いて生地の織り目も自然に再現されているだけでなく、ポーズすらも計算されているのかもしれない。ひとつひとつの動きに品があり、美しいと感じさせる。
「お兄ちゃん、財団のスタッフから連絡があって、会場を移して続きをしたいって。大丈夫?」
「この状況で? アルティナがいるなら大丈夫かもしれないけど」
雄介と話していた比奈子が向きなおり、久に問いかける。その姿が場違いなほどに綺麗で。電脳天使、女神とすら言われるアルティナに並んでもひけをとらないほどに作り込まれている。
電脳妖精ヒナ。それがアバターの名前だ。財団からのランク付けも、通常の正装より上の格付けとなっているようだ。
(アルティナもすごいけど……比奈子も、綺麗になったんだなー)
アルティナと並んで各所と連絡をとる比奈子も見劣りしていない。義父と一緒にアルティナと打ち合わせをしている様子は、確かに社会人として活動しているのがわかるし、そのアバターも彼女の控えめな、落ち着いたイメージをしっかりと再現できている。
もともと顔立ちが整っていたこともあって、衣装負けしていないし、なによりその真剣な表情が彼女の魅力をぐっと高めている。アルティナとうなずき合った妖精がマイクを手に取ってアナウンスする。
「皆様にお伝え申し上げます。このサーバーは復旧まで、財団非常用サーバー以外との通信は遮断されます。北見久復帰祝賀会の会場も別サーバーに移動しますので、順次転送ゲートに移動して下さい」
この状況でも祝賀会は中止にならないらしい。目を丸くする久に比奈子がウインクしてみせる。エフェクトで輝いてみえるのもあるのだけれど、ドキリとしてしまった。なにせ、衣装がかなりセクシーなので、精神的には十代後半のままの久には目の毒だ。
「本サーバーは復旧中であり、点検終了までは外部からの接続等が不能になります。すみやかに転送ゲートにお進みくださいませ」
ホッとした様子の人々が転送ゲート表示に変更された出入り口に向かっていく。
「それでは、久様。お供いたします」
ふと目線を戻したら、アルティナと比奈子が目の前にいてびっくりしてしまった。区切りがついたせいか、二人ともにこやかな表情だ。
「私も一緒に行くよぉ。お父さんもだよね?」
「ああ、もちろんだ。みんなで行くさ。そうだろう、久君?」
「うん。びっくりしちゃったけどね。みんなで行こう」
列に並ぶときには、みんなが会釈してくれるのがちょっと恥ずかしい。
「えーと、義父さんは、財団で……もしかして、エライ人?」
今回の祝賀会の規模も、ただの無職の少年のためのものとは思えない。財団の会場を借りられるのも、考えてみればすごいことなのかもしれない。
「ああ。エライというほどじゃないさ。理事の一人なだけだよ」
「えー? 会社で言えば取締役でしょ? エライと思うよぉ」
「いやいや、お母さんのおかげだからなあ……」
「いえ、雄介様は財団理事として堅実に職務を執行していらっしゃいます」
「うん、アルティナが言うなら間違いなさそうだね」
くすくすと笑う比奈子が一歩踏み出すと苦笑しながら雄介も歩き出す。すでに列はだいぶ解消されていて、久達はもう終わりのほうだった。
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