第2話
執筆を始めて数か月が過ぎたある夜、春美が書斎で原稿に向かっていると、ふとした疑問が浮かび上がった。最近の健一の様子が、どこかおかしい。彼は優しく、彼女を支えてくれているものの、どこか秘密を抱えているように見える瞬間が増えてきた。
(あの停電のあった日から世界はすっかり変わってしまった。俺はただのしがない作業員だったが、一夜にしてベストセラー作家になった——誰もが「奇跡の男」と称賛してくれるが、真相は自分にしかわからない)
健一は、ぼんやりと天井のシミを見つめながら、この数日の出来事を振り返った。その夜、あたり一帯が真っ暗になり、電気は完全に途絶えた。闇に包まれた部屋で、健一はどうすることもできず、ただ手探りで古びた机にたどり着き、手にしたのは、埃をかぶったノートとインクのかすれたペンだった。
ふと「このまま一人で夜が明けるのを待つのも癪だな」と、思いつくままノートに何かを書き始めた。それは、健一が日々作業員として積み重ねてきた些細な出来事や、誰にも話せず心にしまっていた記憶だった。だが、ペンを走らせるたびに、次第にそれはただの記録以上のものになっていった。現実と幻想が入り混じり、いつしか健一の文章は、ある一人の冒険者が暗い迷宮を抜け出し、真実を求めて旅に出る物語へと変貌を遂げていた。
停電が続く中、健一は夜通し書き続けた。まるで何かに取り憑かれたように、彼の手は止まらなかった。朝方、ようやく街に電気が戻ったが、健一はそのノートが埋め尽くされているのを見て驚いた。夢うつつの中で書き上げたそれは、完成された物語だった。そして、そこに自分でも信じられないような、深いメッセージや鋭い洞察が込められていることに気づいた。
翌日、健一はひょんなことから原稿を出版社に持ち込んだ。編集者はその内容に驚愕し、出版を即決。そして、その小説は発売後瞬く間に話題を呼び、ランキングのトップに躍り出たのだ。「これが奇跡の一冊だ」「新たな才能の登場だ」と、世間は健一を称えたが、健一自身にはまるで他人事のように感じられた。彼が書き上げた物語が、まるで自分の意志を超えた何かに操られたかのように生まれたことを、彼だけが知っていたからだ。
それでも、健一はふと胸の奥に小さな期待を抱いていた。もしかしたら、この不思議な「作家」としての道が自分の本当の人生だったのかもしれない——闇の中から生まれたその物語が、新たな彼の生き方を示してくれるのではないかと。
ある夜、春美がふと目を覚ましたとき、健一が誰かと電話で話しているのが聞こえた。静かな声で、しかし緊張感を漂わせている。部屋の外で彼が「…報告します」「次の指示に従います」という言葉を口にしているのを耳にし、春美は心がざわつくのを感じた。
翌朝、彼女は意を決して健一に問いただした。「健ちゃん、あなた…何か隠してない?」
一瞬、健一の表情が硬くなった。しかし、やがて彼は深い溜息をつき、静かに告白した。「実は俺…潜入捜査官なんだ。NHKで起こっているとされる不正の噂を調べるために、君の近くにいる」
春美はその言葉に絶句した。健一が潜入捜査官であることを、まさか夢にも思っていなかった。自分の恋人が国家のために危険な任務に就いていたなんて、信じられなかった。
「どうして私に何も言わなかったの?」春美は唇を噛み締め、震える声で問いかけた。
「言えるわけがなかった。任務のためだったし、君を巻き込みたくなかったんだ。でも、こうして君のそばにいるうちに…俺は、君に本気で惹かれてしまった」
彼の瞳には、真剣な光が宿っていた。春美もまた、彼の気持ちを信じたいと思いつつも、裏切られたような気持ちで心が揺れていた。
「あなたが今まで一緒にいてくれたこと、全部嘘だったの?」彼女の問いに、健一は首を振った。
「嘘なんかじゃない。俺は本気で君を愛してる。でも、俺には任務があるんだ。NHKで行われている闇取引や、不正経理の実態を暴くために潜入していたんだ。何度も辞めようかと思ったが、任務を遂行しなければならないと自分に言い聞かせてきた」
春美は混乱しながらも、健一の覚悟を理解し始めた。彼が抱える使命と、彼女への愛の間で葛藤していたのだと。
「もし、あなたの任務が終わったら…一緒に、また普通の生活に戻れるの?」春美が希望を込めて聞くと、健一は静かに微笑み、彼女の手を握った。
「もちろんだよ。その日が来るまで、もう少しだけ待ってほしい。必ず君を守るから」
こうして、二人の間に再び信頼が生まれ、健一の危険な任務を支え合う覚悟が芽生えた。春美は、彼と共にその闇を暴く物語を執筆し始めることを決意した。
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