3



「ずいぶん、やんだなぁ。ちょうどよかったよ」


 切り雨の裏口に回しておいた車の助手席に、アルバイトを終えたしぐれを乗せて、空を見上げながら発進させる。


 フロントガラスを雨粒がわずかに濡らす。さっきまでのまとまった雨が嘘のように小雨になり、商店街を明るい空が覆っている。


「夕方はいつもこんな雨が降ってるよね」


 窓の外を見上げていたしぐれは、シートに体を預けると、ぽつりとつぶやく。


「お兄ちゃんはさっきの話、どう思った?」

「ん? さっきって?」

「未央さんの話。友人の恋人っていう人の」

「ああ、ほろほろ雨の話か」


 もう何度も眺めた作品だから、タイトルも覚えてしまった。いつも窓際に飾ってあって、色が褪せてしまうのではないかと心配していた。


 しかし、今日、話を聞いて納得したところもある。あの作品を、未央は売る気がないのだろう。色褪せたならそれもまた、あの作品の価値の一つになるのかもしれない。


「あれがキャンセルになったのって、開業してすぐの頃だったみたい」

「へえ、そうなのか」

「そういうメールがあったの、見たんだよね」

「これから頑張っていこうって時にキャンセルが入ったら、ちょっとはショックだろうなぁ」


 まして、友人がらみの注文だ。いっそう気合いは入っていただろうし、未央の中でこだわりのある作品だったとしても不思議じゃない。


「順風満帆そうに見えて、実はそうじゃないのかな」

「誰だって、いろいろあるだろうさ」


 そう言うと、しぐれは思い悩むように窓の外へと、ふたたび視線を戻す。


 しぐれは未央に憧れ、慕っている。彼女の役に立ちたいと、週末だけという約束だったアルバイトも、最近は、平日にもシフトを入れてもらうほどの張り切りようだ。当然、店員として働く中で見えてくることもあるだろう。


「何か心配事でもあるのか?」


 そう問うと、しぐれは息をつく。


「未央さん、好きな人がいるんじゃないかな」


 やけに唐突な話に、朝晴はどきりとした。しぐれは何か知ってるんだろうか。


「そういうやつが店に来てるのか?」

「ううん。それらしい人は一度も」

「へー」


 なんだ、いないのか。内心、朝晴はそう安堵して、間抜けな声をあげてしまった。しかし、しぐれはまったく気にする様子なく、空を眺めている。


「ほろほろと、よく降るな」


 そう言うと、しぐれがぽつりとつぶやく。


「未央さんが泣いてるみたいな雨だよね」




 しぐれの言葉がどうにもちらついて忘れられず、翌日は閉店後を見計らって切り雨を訪れた。


「あれ? 井沢さん。しぐれちゃんならさっき、帰りましたよ」


 ちょうど裏口から出てきた未央が、こちらに気づいてやってくる。


「知ってます。すれ違ったので」

「そうなんですか? 何か忘れ物でも?」

「未央さんと話がしたくてきたんですよ」


 苦笑しながらそう言うと、未央は驚いたようにまばたきをした。


 もう何度も、未央に会いに切り雨を訪ねているのに、個人的に会いに来るのは意外だと思われているようだ。どうも、まったく相手にされてないらしい。やはり、しぐれの言う通り、未央には意中の人がいるのかもしれない。


「よかったら、夕食でも一緒に食べませんか?」

「ヨコイさんでもいいですか?」

「商店街にあるステーキ屋の?」

「はい。たまには食べに来てって、ヨコイの奥さんに誘われていて」

「そうなんですか。ご一緒できるなら、ぜひ」


 カフェへの誘いは断られているから、今日もむげにされるかと思っていたが、未央はあっさりと承諾した。


 これは進展だろうか。朝晴は浮ついた気分になりながら、彼女とともにヨコイへ向かった。


「あら、井沢先生、こんばんは。お久しぶりじゃない?」


 ステーキ屋ヨコイに入ると、カウンターから出てきたエプロン姿の奥さんが、にやにやしながら話しかけてくる。


 肉の焼ける香ばしい匂いが広がる店内には、少し古びた木製テーブルが並んでいる。庶民的な雰囲気の店だが、味は一流で、朝晴も時折、利用していた。


「ご無沙汰してます」

「未央ちゃんと一緒なんて、珍しいわね」

「珍しいというか、初めてですよ」


 何かを期待するかのような奥さんのまなざしに薄笑いを浮かべながら、そう答える。


 未央はにこやかにたたずんでいるが、内心どう思っているかなんてわかりはしない。茶化されるぐらいなら、もう二度と一緒に食事しないと思われても困る。


「あらまあ、そうなの。しぐれちゃんはいないの? 未央ちゃんのお店でアルバイト始めたらしいじゃないの」

「未央さんとはさっき、たまたま会っただけなので」


 予定外の来訪なのだと言うと、奥さんは残念そうな顔をしながら、奥の席に案内してくれる。


「まいりましたね。あの様子じゃ、デートだと思われてますよ」


 向かい合わせに座るなり、未央の気持ちを探るように言うと、彼女は気にしてないとばかりににこりとする。


「井沢さんがお嫌でなければ、大丈夫ですよ。商店街のみなさんはいい意味でおせっかいが好きですし」

「変な期待感があるんですかね。まあ、俺も全然気にしないですけどね」


 商店街全体で、未央との恋を応援されてるのだろうか。いや、彼らにとっては未央の相手は誰でもかまわないのだ。今日、ここに来たのがたまたま自分だっただけで、違う男でも同じように詮索しただろう。そうして彼女も、どんな男が相手でも、デートだと勘違いされても大丈夫だ、と言っただろう。


 奥さんにすすめられるまま、未央の倍の300グラムのステーキを注文したあと、朝晴は尋ねる。


「ここの商店街に出店しようと思ったきっかけとかあるんですか?」

「急にどうしたんですか?」


 未央はおかしそうに目を細めて言いつつ、ふとさみしげな表情を見せる。


「友人が、結婚を考えていた恋人と別れてしまったお話はしましたよね」

「昨日の話ですね?」


 やはり、切り雨の原点に、あの作品は欠かせないのだろう。朝晴は水の入ったグラスに伸ばしかけた手を引っ込めて、未央の話に耳を傾ける。


「はい。彼は切り雨の最初のお客さまでした。時間がかかってもかまわない。思い出になるような作品が欲しい。そう言ってました」

「それが、キャンセルになってしまった」

「時間がかかってしまったから、きっと彼も気持ちが変わったんでしょう」

「心変わりに、どんな理由があったんでしょうね? ああ、いえ、ご友人の話なのに踏み込んで聞いてしまってすみません」


 謝ると、未央は首を横に振る。そして、少し目を伏せると、胸の奥にある何か重たいものを取り出すように、


「ほろほろ雨の話、聞いてもらえますか?」


 と、ぽつりぽつりと話し始めた。

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