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 土曜日の今日は珍しく、午後からまとまった雨が降っていた。


「兄が迎えに来てくれるって言ってたので、大丈夫ですよ」


 自宅まで車で送るという未央の申し出を、笑顔で遠慮したしぐれは、パソコンのメールボックスを開き、問い合わせメールが入っていないか確認し始める。それが、一日の終わりに行う彼女の最後の仕事だ。


「そういえば、最近、井沢さん、いらっしゃってませんね」


 未央は看板を片付けながら、ふとつぶやく。


「先週も東京に遊びに行ってたんじゃなかったかなぁ」


 しぐれはあまり興味なさそうに答える。


 井沢朝晴としぐれは仲の良い兄妹だ。朝晴は、妹に困ったことがあれば、すぐに駆けつける兄だが、普段は自分の好きなようにあちらこちらへ出かけて忙しくしているようだ。


「東京へよく行かれるんですね」


 ひとりごとのようにつぶやいたとき、引き戸が開いて朝晴が顔を出す。


「今の季節は展示会が多くありますからね。友人の誘いが多くて困ります」


 濡れた肩をハンカチでぬぐいながら、店内へ入ってくる彼は、困ると言いながらうれしそうに微笑んでいる。


 刺激の少ない清倉の暮らしに不満はないと言いながら、東京の生活にも未練があるのだろうか。そう思わせる表情を見せているが、バイタリティのある彼なら、どちらの生活も両立できるのだろう。現に、中学教師の仕事に励みながら、前職の関わりも断たずに東京へ出かけ、必要とあれば、アルバイトをする妹の送迎までするのだから。


「いらしてたんですね」


 未央も笑顔で出迎える。どういうわけか、彼に会うと、沈んだ心に花が咲いたような温かい気持ちになる。


「ちょうど着いたところで、未央さんの声が聞こえました」


 しぐれに影響されたのか、朝晴もいつからか、未央さん、と気安く名前で呼んでくるようになった。こちらはまだ慣れなくてそわそわしてしまうが、人なつこい彼にはすっかり馴染んでいるようだ。


「今日も展示会へ行かれた帰りですか?」

「展示会のはしごをしてきました。新しい芸術は常に取り入れていたいんですよ。そういう意味では、切り雨さんの作品も目が離せませんね」

「ありがとうございます。新しい芸術とまではいきませんけれど」

「そんなことはないですよ。何色もの画用紙を組み合わせた、絵画のような色使いもそうですが、立体的な作品も切り絵の概念をくつがえしてると思いますよ」


 朝晴は店の奥に飾られたつるし飾りの前で足をとめる。降り注ぐ雨をデザインしたもので、かなり細く切った画用紙一枚を丸型にしたものだ。


「これなんか特にそうですが、一番の注目は、繊細さですね。本当に切り絵なのかと目を疑う細さで切られていますよね」

「よく見てくださってますね」

「それはもちろん。ほかの作品も素晴らしいですよ。俺はわりと素朴な感じの作品が好きで……、そうそう、これなんか、温かい気持ちになります」


 そう言って、朝晴が指をさすのは、『ほろほろ雨』だった。


「仲の良い幼なじみでしょうか。ほのぼのとしたいい作品ですね」

「そう見えますか?」

「違いますか?」

「いいえ」


 未央は首を振り、ほろほろ雨を見つめる。


 手をつなぐ女の子と男の子は、未央と文彦。純粋だった子どものころを懐かしんでほしい。そんな思いで作り上げた作品だ。


「前から気になってたんですが、この作品は何か特別な作品だったりするんですか?」


 遠慮がちに尋ねてくる。


 朝晴がそれに気づいたのを、未央は意外には感じなかった。彼は勘のいい人だ。何か感じたのだろう。


「どうしてそう思われるんですか?」

「以前、季節ごとに作品を入れ替えるって言ってましたよね。しぐれのために店内のレイアウトを大幅に変えてくれても、この作品はずっとここにあるので」

「本当によく見てるんですね」


 半ばあきれ、半ば感心しながら、未央は言う。


「実は、通りからよく見える場所にあるので、誰かに見つけてもらいたいのかと思いまして」

「見つけて……。そうですね。そうかもしれません」


 彼の言う通り、ほろほろ雨は窓際に飾ってある。何の店だろう? と気軽にのぞいた通行人の一番目につく場所に。


 優しくこちらを見守る朝晴の穏やかなまなざしを見ていると、未央は素直になれる。つらかった気持ちを話したくなる。


「この作品は、ある人のために……」


 朝晴には安心感があって、もう誰にも話すことはないと思っていた胸の内を言いかけた。しかし、正直すぎるのもどうかと、まだ戸惑いがあり、迷って言い直す。


「ある人と言いますか、友人の恋人のために作ったものなんです」

「ご友人の恋人?」

「はい。注文を受けて作り始めたものの、完成間際になってキャンセルになってしまったんです」

「それは、大変でしたね」

「思いが届かないときはそんなものだと思ってるんですよ」

「そんなものですか」


 朝晴がそうつぶやいたのは、ぞんざいなものの言い方に引っかかったからだろうか。普段ならうまく取り繕えるのに、文彦を思い出すたびに心の奥底にある痛みがうずき、どうしようもなく未央はいら立ってしまう。


「友人とその恋人は別れてしまったんです。ふたりの思い出になるような作品はいらなかったんじゃないでしょうか」

「作品に罪はないのにもったいない」

「いらないものとして買われるよりは、こうして店に飾られている方が、作品にとってもいいでしょうから」

「ちなみに、ご友人は女性?」


 朝晴はなぜか、そんなことを気にした。


「私、男の人の友人はいないんです」

「そうなんですか。じゃあ、俺が初めての友人ですね」


 彼がにかっと笑うから、込み上げてきていた怒りが不思議とすんなり落ち着いて、未央はくすりと笑う。


 そうして、しぐれへと目を移す。兄が困らせて、とあきれ返っているかと思ったが、彼女は何か考え込んでいるような表情でパソコン画面をじっと見つめていた。


 しぐれが確認作業をしている問い合わせメールの中には、キャンセルメールも含まれている。


 文彦からのキャンセルメールに気づいていた可能性はあるだろうか。未央と文彦の関係性をしぐれに尋ねられたことはなかったが、メールの文面や今の会話から、何かを感じ取ったかもしれない。しかし、それを気にする必要はない。どうしても隠しておきたいことではないし、かといって、聞かれてもないのに話すようなことでもないからだ。


 彼女がこちらに気づいて、いつもの明るい笑顔を見せるから、ますます流れに任せておけばいいと思える。話さなければいけないときが来たら、素直に話す心づもりはあるのだ。


「そろそろ、店じまいしますね」


 未央はそう言うと、窓際のロールカーテンを下ろした。

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