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 文彦との関係はうまくいっていた。文彦の弟である公平こうへいから、文彦が浮気していると聞くまでは。


 公平は正義感のある青年だ。財前家の跡取りである文彦を尊敬し、婚約者である未央を姉のように慕ってくれていた。だからこそ、兄の過ちが許せず、未央が傷つくこともまた見過ごせずに、その事実を伝えてきたのだろう。


 一度だけではなく、何度も文彦が女の人と会っていると聞かされても、最初は公平の勘違いだろうと思っていた。しかし、思い返してみると、少し前から、会いたいと言えば、いつでも駆けつけてくれた文彦が、仕事を理由に会えないと断ってくる日が増えていたと気づいた。


 そんな中、珍しく、文彦から食事に行こうと誘われ、以前からふたりでよく利用していたレストランへ出かけることになった。


「最近、忙しいみたい。職場の人とよく会ってるの?」


 心の中は穏やかではなかったが、メインディッシュのローストビーフを口に運びながら、何気ないふりをして尋ねた。


 いつも会う女の人は同じ人だと、公平は言っていた。押しに弱そうなおとなしめの女の人で、財前の会社に勤務する文彦の部下だと。


「誰の話?」


 文彦は後ろめたさを感じさせない、本当に思い当たらないという表情で、そう答えた。


「あなたの部下じゃないの? 女の人よ」


 はっきり言わないとわかってもらえないらしい。もやもやする気持ちを抱えながら言うと、文彦はわざとらしく、「ああ、彼女」とつぶやいた。


「言うほどよくじゃないけどね。悩みがあるみたいだから、相談に乗ったりはしてるよ」

「相談?」

「そう。いろいろだよ」


 いろいろって何? と聞いたけれど、プライバシーに関わるからと濁された。


 その態度を見たら、ずっと半信半疑で聞いていた公平の話を信じたくなる気持ちがもたげた。


 部下の女の人が相談を持ちかけて、文彦を誘惑してるんじゃないかと公平は疑っていた。確たる証拠はないが、それらしいうわさがひそやかに社内で立っているらしい。会社帰りにふたりでホテルへ行って、レストランで食事をして帰るだけなんてありえない。相談と言いながら言い寄って、男女の関係になるのはよくあることだと。


 男の人に免疫のない未央だって、そのぐらいのことはあたりまえにわかっていた。けれど、ごまかさずに言い訳もしない文彦の態度に真実を測りかねた。


 だからあの日、文彦と女の人がホテルの部屋に入った、と公平から連絡をもらったとき、やっぱり信じられないという気持ちと、もうダメなんだろうという思いが交錯した。


 そのときにはもう、その人とはふたりきりで会わないでほしいという未央の願いを聞き入れてくれなかった文彦の気持ちが、自分に向いてないことを悟っていたからだ。


 公平に今から向かうと伝えて、文彦が女の人と入っていったという高級ホテルへタクシーで向かった。


 ホテルに着くと、公平がロビーで待っていた。部屋はわかっているというから、ふたりでその部屋の前まで行った。


 公平は、兄のせいで振り回して申し訳ないと謝罪したあと、兄の裏切りが許せないとばかりに歯を噛み締める、険しい横顔を見せた。


 未央と公平は年が近いが、一緒に遊んだ記憶はほとんどない。きっと、いつかは兄、文彦の妻になる女性だからと、財前の両親に言い含められて育ったからだろう。


 正直、彼が兄の過ちを調べ、これほどまでに案じてくれているのは意外ではあった。あまり動揺せずにいられたのは、彼の怒りを目の当たりにしたからかもしれない。


 1時間が過ぎたころ、丸顔のかわいらしい女の人が部屋から出てきた。知らない人だったが、公平が、間違いなく兄の部下だよ、と教えてくれた。当時、公平は大学院生だったが、財前の会社に出入りしていて、文彦のオフィスで見かけたことがあるらしかった。


 それから程なくして、スーツにきっちりとネクタイを締めた文彦が現れた。


 止める間もなく、公平は廊下の角から飛び出していき、文彦の胸ぐらをつかんだ。ほんの少しもみ合いになっていたが、未央が止めに入ると、公平を振り払って文彦は言った。


「こんなところで、なんで二人でいるんだよ」


 自分の行動は棚にあげ、まるで、未央と公平が浮気しているかのような口ぶりだった。


 公平はさんざん、兄さんは何をしてるのかわかってるのか? とかみついたが、相談に乗っていただけで彼女とは何もない、と彼は平然としていた。


 何もないわけがない。未央はそう思ったが、彼が嘘をついているようにも思えなくて、そのときは黙っていた。


 しかし、文彦の言動はその日を境にエスカレートしていった。

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