第四章 初公演に向けて

 ダンザの連中とひと悶着を起こした後、俺たちは今度こそ窓口に向かい、当初の目的である劇場の予約を行った。

 料金にして約二十ポンド。例を挙げると、十ポンドあれば良い乗用馬を一頭購入できるほどであり、俺たち庶民にとっては破格の料金である。ローラが資金を工面してくれたありがたみが身に染みた。

 予約が完了し、同時に初公演の日程も決定する。今からおよそ三か月後だ。稽古や道具作りの時間はあるものの、のんびりはできない期間である。

 当日の入退場についてスタッフに説明してもらった後、ローラから舞台の下見をさせてほしいと願い出る。無名の連中に長く構いたくないのか、スタッフは難色を示したが、「深夜なら誰もいないから好きにすればいい」としぶしぶ了承してくれた。


 城下町で適当に時間をつぶし、深夜になったところでまた劇場へと向かう。中で警備をしていた夜勤スタッフに事情を説明し、俺たちは舞台があるメインホールへと入っていった。

 メインホールがどのような所か想像はついていたが、こうして目の当たりにすると実に壮観だった。舞台側から見上げるとなるとなおさらだ。二階まで続く五百以上もの観客席が所狭しと並び、そのすべてが舞台のほうに向けられている。これらに観客が座り、一斉に視線を集めることになると思うと、俺は唾を呑み込んだ。


「まずは、ここからの光景に慣れておきましょ。本番になって緊張しちゃったら目も当てられないわ」


 ローラが俺の隣に立ち、一緒に観客席を見上げながら言う。俺もその通りだと思い、緊張感が漂うこの光景をしばらく眺め続けた。

 遠くで物音がしたので、俺たちは我に返って振り向く。すると、バトラーさんが舞台の隅に置かれたグランドピアノの鍵盤ふたを開き、指を添えるだけして演奏のイメージトレーニングを始めていた。

 以前の宴でローラが話していたように、バトラーさんほど音響係の適任者はいないだろう。ローラがまだ幼かったころによくピアノの演奏をしてあげていたし、ほかにも社交ダンスの場でも演奏者として抜擢されていた。まだ楽曲は決めていないが、要所のシーンでバトラーさんにはピアノの演奏をしてもらうつもりだ。


 ローラに手招きして呼ばれ、俺たちは舞台の寸法を確認することにした。このために、あらかじめ一フィートごとに印をつけた紐を用意している。

 計測の結果、観客席から壁までが四十フィート、左右の幅が四十五フィートあることがわかった。どちらも、俺が大股で歩いて十歩から十五歩くらいの長さといったところだ。

 横だけでなく、高さの確認もしなければならない。天井には、照明などを吊るすバトンという棒がある。場合によっては、あのバトンに小道具を吊したりするわけだが、今回公演する『敗走』においては考慮しなくていい。その代わり、大道具が天井の高さを越えないようにする必要はある。


「道具や人といった物の高さをタッパというけど、あのバトンまでの高さは何というでしょう?」


 不意にローラから出題され、俺は前に読まされた専門書を必死に思い出した。ここで間違えて、ローラを失望させるわけにはいかない。辛うじて頭に浮かんだ「飛びタッパ」という用語を口にすると、ローラの怪訝そうな表情に笑顔が戻り、俺は「えらいえらい」と頭を撫でられた。

 スタッフからはしごを拝借して天井まで上り、バトンに紐を引っかけて垂らすことで、飛びタッパを計測する。結果、五十三フィート。今後制作する大道具のタッパがこれを上回ることはないだろうが、念のためこちらもメモしておいた。


 寸法をおおよそ確認できたところで、次に舞台幕の確認を行った。見渡してみる限り、この舞台には必要最低限の幕が備わっているようだ。

 公演の開始と終了を示す、舞台の最前部に取り付けられた大きな幕を、緞帳(どんちょう)という。その緞帳のすぐ後ろにもう一つ幕があるが、こちらは暗転幕という場面転換の際に用いる幕であり、緞帳とは用途が異なる。ローラがまた怪訝な目を俺に向けてきたが、俺が「緞帳と暗転幕だろ?」と答えてみせると、またにっこりと笑顔になった。

 次に、舞台の中央部に取り付けられた幕を発見した。これは中引幕と呼ばれ、舞台前方を見せつつ後方の場面転換を行う際に用いるものだ。

 台本を書く際は、舞台で実現できる範囲で執筆しなければならない。今回は先に書いてしまっていたが、中引幕がちゃんと舞台に設備されていると知り、俺は胸を撫で下ろした。

 また、舞台の後方に取り付けられた幕に注目した。これは、後ろの壁を隠したり、暗闇を演出したりするために用いられるものだ。名を後引幕といい、鮮やかな紺色をしたほかの幕と違い、この幕だけは黒色である。壁に細工をする予定はないから、この幕に関しては開きっぱなしにするだろうと想像した。


 舞台幕まで一通り確認できたところで、俺は軽く伸びをし、再び観客席に目を向ける。観客がいなくともまだ慣れないのか、思わずぞくりと背筋が凍るのを感じた。そのことを勘付かれたのか、イメージトレーニングを終えていたバトラーさんにポンと肩を叩かれ、俺は苦笑いしてしまう。

 不安に思い、ローラを横目に見てみたが、こちらは小心者の俺と違ってやる気に満ち溢れた顔をしていた。どうやら、ローラにとってはさらに闘志を燃やすきっかけになったらしい。自信家のローラを心配する必要はやはりなかったようである。




 舞台の下見を終え、不機嫌そうにしているスタッフに礼を言って劇場を後にする。前の吹雪ほどではないが、外では冷たい風が吹き、城下町の道を粉雪で白く染めていた。俺たちは下層まで降り、適当に宿屋を見つけて一泊した。

 夜が明け、城下町の人々が店を開き始めたころに、俺たちは料金を支払って宿屋を後にする。そして、次の目的である材料調達に取りかかった。


 特に必要だったのが、役者に着てもらう衣装の材料である。俺たちは織屋に向かい、村で描いた衣装のイメージを基に、数色の布を購入した。衣装だけでなく、シーンを演出する大道具を作るためにも、布を多く揃えておいた。


 次に、上層の鍛冶屋に赴いた。今回の劇は戦争がテーマなので、衣装だけでなく銃火器も必要となる。とはいえ、本物の銃を村人たちに持たせるわけにはいかないので、銃のレプリカを作ってほしいと鍛冶職人に依頼した。

 最初、鍛冶職人の男は怪訝そうにしていたが、ローラが袋の中に詰まった大金を見せたことで、どうにか了承してくれた。当然すぐには製造できないので、一か月後にまた来てくれと指示された。


 最後に、俺たちは印刷屋を訪れた。これは材料のためでなく、団員のみんなに同じ台本を配るためである。俺たちが使っていた『敗走』の台本を職人に手渡し、人数分を印刷してもらった。高価な羊皮紙を多く使うのはかなりの出費となったが、劇を成功させるための出費と捉えた。


 一通り必要なものを詰め込んだ巾着袋を抱え、俺たちは城下町を後にする。ローラに金の入った別の袋を見せてもらったところ、まだ多くの大金が残っているようだった。もしこの前のような貧困が起こったとしても、これだけあれば切り崩して補うことができるだろう。

 また数時間かけて村に戻ると、マスコロさんたちは村の仕事に勤しんでいる最中だった。俺たちが遅くなったことを詫びると、みんなは「演劇のために頑張ってくれているんだろう?」と快く許してくれた。


 城下町で買い集めた物を一旦家に置き、先に村の仕事と昼食を済ませる。少しずつ食べていたパンもついになくなってしまい、いよいよひもじい生活が始まることを覚悟した。

 皿洗いと歯磨きまで済ませたところで、俺たちはマスコロさんに呼びかけ、村のみんなを外に招集してもらった。俺たちを囲って地べたに腰かける中、ローラが一歩躍り出て話を始める。


「ジオカーレ劇場の予約が取れたわ。公演は今から三か月後よ。公演までの間、みんなには毎日の稽古に付き合ってもらうわ」


 待ちわびていたのか、村のみんなは握り拳を固めて歓声を上げた。ローラが話を続ける。


「水を差しちゃって悪いんだけど、稽古を始める前に、キャスティングと稽古場の確保をする必要があるわ。主に舞台監督、舞台演出家、舞台俳優、音響、美術、衣装の六つ」


 初めて聞く専門的な言葉に、村のみんなはざわざわと話を始める。コホンと咳払いしてみんなの話を止め、ローラは再び口を開いた。


「特に舞台監督と舞台演出家が、みんなにとってイメージのつかない役割だと思うわ。一応説明しておくと、舞台監督は劇の進行管理を、舞台演出家は俳優への指導を行うの。でも、これらは両方とも私が請け負うから、ひとまずみんなは気にしなくていいわ」


 重要な役割を担うかもと不安になっていたのか、一部の人たちがほっと胸を撫で下ろす。


「でも、ほかの四つについては、みんなにお願いする必要があります。これから、それぞれの役割に誰が適任かを話し合って決めていくから、みんなも協力して」


 ローラの呼びかけに、村のみんなはこくりとうなずいてくれた。同意を得たところで、俺たちは早速キャスティングを開始した。


 まず、演奏で舞台を演出する音響スタッフについては、話し合うまでもなく決まっていた。バトラーさんだ。舞台に設置されていたグランドピアノを扱いこなせるのは、この中でバトラーさんしかいない。バトラーさんもそのつもりだったようで、二つ返事で了承してくれた。


 次に花形である舞台俳優だが、主役に関しては村のみんなが満場一致で決めてしまった。ローラである。宴のときに見せたローラの演技は、村のみんなをすっかり虜にしてしまったようだ。ローラも期待の目を向けられて得意げになり、どんと胸を叩いて「任せなさい!」と言ってのけた。


「でもその代わり、裏で行う舞台監督の仕事をしきれなくなっちゃうわ。だから、誰かに舞台監督助手としてヘルプをお願いしたいんだけど、誰かいないかしら?」


 ローラの願い出に、マスコロさんが率先して挙手してくれた。「つまりはみんなに裏で指示を送ればいいんだろ?」と問われ、ローラはその通りとばかりにうんうんとうなずいた。確かに、普段から村長としてみんなを仕切っているマスコロさんなら適任かもしれない。


 続いてエキストラを十余名ほど決めていたところ、突然パグが俺のことで提言し始めた。


「おめえも昔から、ローラお嬢ちゃんと一緒に稽古していたんだろ、アスーム? おめえも役者をやるべきじゃねえか?」


 俺は慌てて拒否しようとしたが、みんなも拍手をして受け入れ始めたので、俺はやむなくうなずいた。

 間髪問わず、俺の胸に人差し指を突きつけながら、ローラが言う。


「ちなみに、あなたには舞台監督と舞台演出家の勉強もしてもらうわよ。もし私が病気で参加できなくなったりしても、あなたが仕事を覚えてくれていたら、代役を頼めるじゃない?」

「さすがに期待しすぎじゃないか?」


 俺が呆れながら言い返すと、ローラは「当たり前じゃない」とにっこり笑い、俺の背中を叩いた。


 次は美術スタッフだが、ここでマスコロさんから、具体的にどういうものを作ればいいのかと質問を受ける。ローラは、シーンを演出するために必要な道具と答えた。先ほど鍛冶屋で依頼した銃のレプリカなんかが良い例だ。ほかにも、劇中では戦場、森、町へと移動していくので、各シーンを表現するために木などのオブジェクトを作る必要がある。


「ねえねえ、木に関しては森にあるものを使えばいいんじゃない? 枝をちぎってくっつけたりしてさ」


 意外にも、子供たちからナイスアイデアが出てきたので、俺とローラは目を輝かせながら採用した。工作もお願いしていいかなと頼んでみたところ、子供たちは嬉しそうに飛び跳ねながら快諾してくれた。ほかにも、絵に少しでも自信のある人たちを集め、繋ぎ合わせた板に民家を描いてオブジェクトにしてほしいと依頼した。


 残るは衣装スタッフだ。裁縫には自信があると、ここで率先して名乗り出てくれたのがモグリーさんだった。曰く、普段からみんなの服を新調しているとのこと。前に衣装のイメージを描いた板を見せ、これと同じ衣装が作れるかと尋ねたところ、ローラに負けず劣らずの自信に満ちた顔で「任せてほしいわ」と答えてくれた。

 美術や衣装はただ制作するだけでなく、役者たちに着せたり、道具を運んだりといった裏方作業も必要となってくる。特に、木や民家のオブジェクトといった大道具は、力のある者に運ぶのを任せなければならない。

 裏方には多くの人員を配分することになったが、俺からはパグを推薦した。この村で誰よりも力持ちなのがパグだからだ。パグは突然の指名に驚いていたが、「お前しかいない」と頼み込むと、パグは「しゃーねえなあ」とまんざらでもなさそうに聞き入れてくれた。まだ役割を決めかねていた人たちも、ここで次々に名乗りを上げ、美術と衣装それぞれのチームに加わっていった。


 キャスティングが決まったところで、最後に印刷した台本を全員に配りながら、ローラが言う。


「稽古場の準備がまだだから、今日は台本に一通り目を通しておくこと。それは、各々が稽古で指摘されたこと、気をつけなきゃいけないと思ったことをメモしてもらうためのものでもあるわ。稽古が始まったら、みんなも遠慮せずどんどん書き込んでちょうだい」


 みんなの返事を聞いた後、俺とローラはひと息もつかず、マスコロさんに稽古場の相談をした。


 柵で囲ったスペースには、焚き火の薪、民家、貯蔵庫でほとんど埋まっており、稽古できるほどの余裕はない。その代わり、畑の近くなら空いたスペースがあると、マスコロさんは薦めてくれた。

 三人で視察に向かうと、確かに稚樹も生えていない広々とした空間があった。劇場で計測した、観客席から後方の壁までの幅四十フィート、左右の幅四十五フィートも、この広さなら十分に足りている。家畜の臭いが少しばかり鼻につく以外は、かなり良い場所だと感じた。

 ほかにもいろいろ見回ってみたが、特に良い場所は見つからなかったので、畑近くに稽古場を設けることにした。稽古の時間が一秒でも惜しいので、準備する稽古場は簡易的なものだ。計測した幅の通りに四隅の印をつけ、各印で穴を掘り、伐採木を立てて設置。四隅の伐採木に紐を引っかけ、最後に紐をぴんと張って本結びにすることで、完成とした。


「幕や演奏の練習は、また深夜にでも劇場を借りてやりましょ。申し訳ないけど、演劇で稼いでまともな稽古場を建築するまでは、我慢してもらわなきゃ」


 帰り際、ローラの言葉を聞き、俺は即席の稽古場を遠目に眺めながらこくりとうなずいた。塩漬け肉に続き、また一つ演劇を成功させる目的ができた。




 翌朝、仕事のために集合場所へ向かうと、稽古場の話題で持ち切りになっていた。稽古はいつからだとパグたちから迫られたので、昼になったら話すと伝え、ひとまず仕事に集中してもらった。

 心なしかみんなの手際が良くなり、思いのほか早く仕事が片付く。畑に向かうと、女性たちも同じだったらしく、畑の手入れと家畜の世話を速やかに終わらせてしまっていた。そしてローラはというと、相変わらずその辺で大の字に倒れていた。


 休憩と昼食まで終え、三人で家を出ると、パグたちが待ちきれなさそうに家の前で待ち構えていた。ぐいぐいと背中を押されながら、俺たちは稽古場のほうへ向かう。

 稽古場には、すでにマスコロさんやほかの村人たちも集まっていた。ローラだけがみんなの前に立ち、俺たちはマスコロさんたちに交ざって地べたに腰かけた。


「それじゃあ、記念すべき一回目の稽古を始めるわよ」


 みんなの注目を一身に受けながら、ローラは声を張る。


「まずは全員に、演劇をするうえで最低限覚えるべき知識について説明するわね」


 そう言って、ローラは稽古場を用いながらざっくりと解説を始めた。観客席から見て右側を上手、左側を下手と呼ぶこと。舞台前方は面(つら)、後方は奥と呼ぶこと。人や物の高さをタッパと呼び、舞台の床に入れておく目印をバミリと呼ぶこと。村のみんなは聞き慣れない用語たちに苦戦していたが、それでも頑張って、羽ペンで台本にメモしてくれていた。

 用語のほかに、演劇の基本的な流れについても説明がなされた。ただ舞台上で劇を披露して終わりというわけではない。劇を始める前に道具などのセッティングをしなければならないし、劇を終えた後も片づけをしなければならない。

 それぞれの作業を仕込み、ばらしと呼び、本番では限られた時間の中で迅速にこなさなければならないと、ローラはみんなに忠告した。当然、劇場でリハーサルを行うときに通しで練習すると、最後に付け加えていた。


「各自、私がここまで言った話は頭に叩き込んでもらうから、ちゃんと覚えておくようにね。じゃあいよいよ、稽古を始めるわよ」


 ローラの呼びかけを聞き、特に俳優チームの面々は待ってましたと言わんばかりに喜んだ。


 とはいえ、初歩的な技術を身に付けてもらわなければならないため、本格的な劇の稽古は後回しとなった。まず最初に、ローラは俳優チームに発声訓練を行った。主に、声量を上げるために腹から声を出すこと、滑舌を鍛えるために母音のみで発声すること、この二つの練習である。

 一部の人はつまらなさそうにしていたが、いざ練習してみると思うように声が出せずにいる。発声ですらローラに及んでいないと自覚してか、以降は真面目に取り組み始めた。俺も俺で、指導者の立場になったときを想定し、ローラがどういった指導を行っているかをメモしていった。


 美術と衣装のチームは、当面はローラの指示に基づき、制作作業をしばらくしてもらうこととなった。パグを始めとする力持ちの人たちも、オブジェクト用の板をこしらえるために、伐採作業をしてもらっている。

 一方、音響のバトラーさんは、楽器がないので手持ち無沙汰になった。劇が始まらない以上は練習ができない、舞台監督助手を務めるマスコロさんも同様だ。


 ここで、ローラから俺の出動を命じられる。台本は俺も作成に携わったので、全く指示できないわけではない。

 俺はバトラーさんとマスコロさんを個別に呼び出し、どこで演奏を挿入するか、またはどういった指示をスタッフに送るか、それぞれの説明を行った。舞台監督については、細部にわたって説明をしなければならなかったので、二時間ばかりの時間を要した。


 演奏のほうは、中盤と終盤の二シーンに挿入するのみではあったが、結果的にこちらも長く話し込むこととなる。どういった楽曲を採用するかをまだ決めかねていたからだ。

 『敗走』の冒頭は、死傷した味方兵を横目に、主人公が命からがら逃げ延びようとするシーン。そして終盤は、主人公が敗戦国の市民を救うために身を挺し、敵兵たちに銃殺されるシーン。どちらも重い内容であるために、慎重に楽曲を選ぶ必要があった。

 しばらく悩んだ末、バトラーさんが良案を出してくれた。讃美歌の採用である。『敗走』は人の生死を色濃く描いており、作中でも神に祈るシーンがあるほどだ。主が導いてくれることを願い、主が手を差し伸べてくれたことに感謝する。讃美歌ならばそういったメッセージを込めやすいと思い、俺は快く賛同した。


 しかしながら、俺だけの判断で演劇の方針は決められないので、ローラの意見も聞くことにした。さすがは舞台監督と舞台演出家を兼任するだけあって、ローラはいろんなチームから嵐のように相談を受けており、忙しそうにしていた。

 みんなへの応対がひと段落ついたところで、俺はローラに声をかけ、讃美歌の提案について持ちかける。ローラもこれほど適したものはないと思ってくれたのか、目を輝かせながら了承してくれた。

 讃美歌といっても種類が豊富にあるので、俺たちはシーンに適した意味合いの歌を選ぶべく、讃美歌の本を購入しようと決断する。羊皮紙と並んでかなり高価なものではあったが、こちらも必要な出費と割り切った。


「三か月の稽古期間で、どうにかなりそうか?」


 各チームからの相談が途絶え、ローラの手がわずかに空いたところで、俺はローラに小声で尋ねる。


「私の見立てだと、劇の稽古を始めるのにも一か月はかかるかしらね」


 両腕を組んで唸りながら、ローラは答えた。しかしながら、すぐにふふっと笑みを浮かべ、言葉を続けた。


「まだ初日だし、焦る必要はないわ。特に俳優チームに関しては、私たちでみっちり指導するから心配はいらないでしょう?」

「お前に比べたらまだ未熟だよ、俺は」


 謙遜のつもりで言ったが、ローラはそれを聞いて少しばかりしょげてしまった。


「今は私が一番上手いだろうけど、いつかはあなたにも、私と同等以上の演者になってほしいわ。舞台監督も含めて、すべてを任せられるくらいにあなたが上達してくれたら、これほど心強いことはないもの」


 ローラの空を見上げながら言うその姿は、何だか、初公演のさらに先を見据えているように思えた。




 稽古が始まってから、二週間の時が流れた。たくさんの人たちが事をなすので、多くの進展があり、状況が目まぐるしく変わっていった。


 まず、音響のバトラーさんだが、俺やローラとの検討を重ねた末、劇で演奏する曲を選び終えた。舞台幕の操作を担当する裏方がまだ実物を見ていなかったので、彼らの舞台の下見にバトラーさんもついて行ってもらい、演奏の練習をしてもらった。


 伐採作業を終えて手すきになったパグたちには、次にチケット販売を依頼している。公演のタイトルと日程を筆記体で記し、観客席の数だけ印刷。それらを劇場前に持ち込んで、パグたちに売り子をしてもらった。

 パグ曰く、チケットは意外にもそこそこ売れたらしい。だが、それは期待の意味ではなく、無名のばかどもがどのような演技をするのか見てやろうという、貴族たちの侮蔑によるものがほとんどだったそうだ。


「散々嘲笑われて、ほんっとにむかついたからな。おめえらの演技でしっかりわからせてくれよな、アスーム、ローラお嬢ちゃん!」


 悔しそうに歯軋りしながら言うパグに対し、俺とローラは苦笑いしながらもうなずいてみせた。


 次に、衣装や大道具の制作チームだが、いくつか完成品を披露してくれた。


 衣装のほうは、複数の布を縫い合わせ、俺たちがオーダーしたとおりの軍服に仕上げてくれていた。サイズも役者それぞれ採寸したとおりに作ってあげると、モグリーさんはウインクとともに報告してくれた。


 大道具のほうも、舞台に収まる大きさ、持ち運びやすさ、立てたときの安定感、どれを取っても文句なしの出来だった。ローラが初めて見たときなんかは、嬉しさのあまり小躍りしてしまったほどだ。

 子供たちが提案した木のデザインも、本物そっくりで違和感がない。民家のオブジェクトも、繋ぎ合わせた板に上手く描いてくれている。絵を描けない俺たちにとって、オブジェクトの準備が大きな気がかりとなっていたが、どうにか間に合わせてくれてありがたい限りだった。


 俳優チームはというと、まだ基礎訓練の最中だ。発声練習ばかりだと喉がつぶれかねないので、ほかの練習も挟むことにしている。

 例えば、すり足での移動だ。舞台裏から足音が聞こえてしまうだけでも、劇というのは一瞬で台無しになってしまう。それを避けるために、すり足を習得してもらう必要があった。当然、これはスタッフ全員に言えることなので、俳優以外のチームにも、時間が空いた人から順に練習してもらった。


 ローラ自身はというと、初日よりさらに忙しさが増している。どうすれば発声がうまくなるかとか、城下町に行く間は村の仕事を頼みたいとか、道具や衣装の評価をしてほしいとか、いろんなチームから矢継ぎ早に相談を受けていた。ローラへの負担を少しでも減らすために、俺でも答えられるような内容は積極的に返答するようにした。

 ただでさえみんなを監督する立場で多忙を極めるというのに、ローラが弱音を吐くことは一切なかった。みんなにとって演劇は知らないことだらけなので、自分が先導しなければならないと張り切っていたのかもしれない。毅然とした態度で応対するローラの姿に、俺は思わず見入ってしまう。


「……あんまりじろじろ見られると恥ずかしいんだけど」

「感心していただけだよ」


 ローラが気まずそうに言ってきたので、俺は素直に思ったことを伝えた。「なら良いんだけど」と、ローラはまんざらでもなさそうに顔を綻ばせていた。




 さらに二週間が経過した。稽古を始めてからだと一か月が経ち、みんなの稽古や作業も板についてきたように感じる。


 俳優チームは、稽古の積み重ねにより基礎をほとんど習得し、もうローラの助言がなくとも発声やすり足を問題なくこなせるようになっていた。劇に必要な道具や衣装も一通り制作できていたので、それらを使った劇の稽古がついに始まった。

 鍛冶屋に依頼した銃のレプリカも、このタイミングで予定どおりに完成する。俺とパグの二人で受け取って持ち帰ると、みんなはレプリカの精巧さに目を輝かせた。俳優チームのみんなに手渡し、これにてようやく劇に必要な道具がすべて揃った。


 美術や衣装のチームは、制作作業が終わったのでもうやることがないのかというと、決してそんなことはない。今度は、場面転換で道具を運んだりする裏方として、劇の稽古に参加してもらった。


 俺たちは台本とローラの指示を基に、入退場、役者の演技、場面転換などを一から練習していった。音響のバトラーさんと舞台幕を操作する裏方の人たちは、村に舞台幕や楽器がないので、代わりにジェスチャーをしたり鼻歌を歌ったりしてもらった。

 ローラは主演も務めるが、みんなの指導を優先し、観客席側に立ってみんなの動きを念入りにチェックした。そして、移動が遅いとか、足音が目立つとか、演技に切れがないとか、細部にわたる指導を俺たちに行い、納得できるまで練習を繰り返した。


 ローラの指導は相当ハードだったため、みんなが不満に思うかもしれないと、俺は不安に感じた。ローラ自身も、「辛口な指導になってごめん。私のことをどれだけ嫌ってくれてもいい」と、みんなに宣言していたほどだ。

 しかし、みんなが悪態をつくことは一切なかった。おそらくは、ローラの真摯な姿勢にちゃんと気づいてくれていたからだろう。「遠慮しねえでどんどん言っていいぞ」とパグたちに励まされ、ローラもそれ以降自信を持って指導するようになった。


 日中指導に明け暮れているローラはいつ稽古をしているのかというと、午前中は村の仕事をしなければならないので、残された時間は夜しかない。夕食を終えてから、俺と二人で稽古場へ向かい、王城でやっていたときのように演技を練習する。


 長い間一緒に稽古をしてきたからか、ローラはそれなりに俺を信頼し、演技のアドバイスを求めてきた。なので、信頼に応えるために容赦なく評価しようとしたのだが、いかんせんこのお嬢さまの演技は完璧すぎる。むしろ俺のほうが勉強させられるばかりで、アドバイスがろくに浮かばずに困ってしまった。

 それでもなお、ローラのストイックな姿勢は変わらない。「何か思いつきでもいいから言ってみて」と促されたので、俺は言われたとおりに喋ってみた。俺が演じるならこうしていたと思うとか、何を思ってこの演技をしたのかとか、そんなところだ。


 ローラは、俺の些細な質問にもすべて答えてくれたし、どれだけ抽象的な意見もすべて真摯に受け止めてくれた。時に、私はこう思ってこの演技をしたと、俺の意見に真っ向からぶつかったりもした。

 こうしたローラとの意見のすり合わせは、俺にとってとても有意義なものになってくれたと感じる。とはいえ、ローラの貴重な時間を奪ってしまっているので、ある日の稽古が終わった後に、俺はローラに詫びた。


「ううん。むしろ、いつも真剣に付き合ってくれてありがと」


 ローラは不機嫌になるどころか、笑って感謝を述べてくれた。ローラもまた有意義に思ってくれているのかもしれないし、俺との稽古を今も楽しんでくれているのかもしれない。俺も感謝の代わりに笑みを返し、虫がさざめく月夜の中、二人で帰路に就いた。




 公演日まで一か月を切った。ローラの熱心な指導のかいもあり、俺たちは大きなミスをすることなく、劇の練習を通しでできるまでになっていた。


 ここで、ローラが一つの提案をする。数人ごとに交代で劇を鑑賞してもらうというものだ。

 曰く、自分たちの劇がどのような仕上がりになっているかを把握し、全体のイメージを掴んでほしいとのこと。ほかに、すばらしい劇を見て自信を持ってもらいたいという意図もあるそうだ。


 言われるがままに、村のみんなは次々に劇の鑑賞を始める。最初、うまくできているかどうか不安だ、恥ずかしいと言っていたみんなに、ローラは偽りのない笑顔でそんなことないと答えていた。その言葉が本当であると知り、鑑賞を終えた人たちの表情には笑顔が戻っていた。

 中には、積極的に挙手し、こうしたほうがいいのではと改善案を出してくれた人もいた。ローラはそれらを余さず聞き、正しい意見と思えば積極的に取り入れた。その結果、ローラが意図しない形で、俺たちの劇はより良いものとなってくれた。


 二週間前になると、深夜に劇場を借りて、本格的にリハーサルを行った。劇だけでなく、舞台の下準備である仕込み、本番後の撤収作業であるばらしの練習も同時に行った。

 往復と夜更かしによる体の負担が大きいので、バトラーさんたちが予行練習していたときと同様、リハーサルは二日おきに行った。そして、子供たちには留守番役の大人と一緒に、村に残ってもらうことにした。


 劇場でのリハーサルは、みんなにも舞台からの光景に慣れてもらうことが狙いだ。村の稽古場では問題なくできていた劇も、本物の舞台に立って行うと、勝手がまるで違う。観客から注目されることを想像し、みんなは緊張のあまりぎこちない動きになったり、ミスを多発したりしていた。


「ここが正念場よ、みんな! この緊張さえ乗り越えられたら、私たちの劇は完成するわ!」


 観客席から見下ろすローラの指導にも、心なしか熱が入っている。ここで緊張や不安に打ち勝つことができれば、今後劇をするうえで大きな糧になると判断してのものだろう。

 俺も、俺なりにみんなを牽引しようと奮闘した。ローラに次いで演技に慣れていた俺がここでしくじれば、みんなの不安をさらに募らせてしまうと考えたからだ。


 みんなはまた自信をなくし始めていたが、村でリハーサルをしたときの出来は本当にすばらしいものだった。それをみんなに示そうと、何度も演技を繰り返していく中で、俺は稽古以外の時間に書いたメモの内容を思い返した。

 そのメモとは、自分が演じる登場人物について、想いや苦悩、人生や過去の経験などを、台本から読み解いて書き留めたものだ。これを始めたのも、ローラが家で板とペンを取り出し、一人黙々と書いているのを見かけたのがきっかけだった。

 ローラが手にしていた数枚の板には、両面とも隙間なく文字が埋め尽くされていた。ローラの演技が一流の努力によるものでもあると、俺はそれを見て思い知らされたのだ。そして、少しでもローラに追いつこうと、俺も同じ習慣をつけるようになった。


 ただ人物像を把握するのみで終わってはならない。その人物像を基に、各シーンにおける言動や所作をどのように演じるかが、今の俺の課題だ。その答えを追い求めるべく、俺はローラの演技を思い浮かべた。

 ローラの演技は大小かかわらず、登場人物の強い感情をダイレクトに表現する。そのために、指先に至るまでの所作のみならず、語気や息遣い、間の取りかたに至るまで、演技に使えるすべての要素を使いこなしている。


 俺はまだ、あれほどの領域には至れていない。だが、登場人物の想いについては細かに考察してきた。その想いを演技に強く込めようと考えた。この人物なら何をするか、何を思うかを考察して煮詰め、自分の演技に取り入れていく。

 心と体を連携しての演技を意識するようになったのは、この瞬間からだ。俺がいつもローラに見せてもらっていた、登場人物が目の前に現れたかのような演技というのは、もしかするとこういうものなのかもしれないと感じた。


 やり切った思いとともに劇を終えると、みんなは突然俺に拍手を始めた。俺が唖然としていたところ、グランドピアノの丸椅子に座っていたバトラーさんがこちらに歩み寄り、ポンと肩を叩いて言った。


「すばらしい演技でした、アスームくん。ローラさんもたいそう喜ばれておられますよ」


 俺が注目すると、ローラは俺の上達を心から喜び、「よっしゃよっしゃ!」と何度もガッツポーズをしていた。


 俺の想いが通じてくれたのか、みんなの表情からも不安の色が一切なくなり、その後のリハーサルではミスをすることなくやり終えることができた。

 あと三回ほど通しでリハーサルを行ったところで、ローラは観客席から立ち上がり、声を張った。


「上出来! ここまでできればもう言うことはないわ。みんな、本当にお疲れさま!」


 パグの口笛を皮切りに、舞台にいた村のみんなは歓声を上げ、三か月もの長く厳しい稽古を乗り越えたことを称え合った。

 俺もみんなに労いの言葉をかけていたところ、ローラに背中をつんつんとつつかれて呼ばれる。振り返ると、ローラは期待を込めた目を俺に向けながら言った。


「公演の成功は、私とあなたの演技にかかっていると言ってもいいわ。でも、あなたがあれだけ良い演技をできるのなら、何も怖いものはないわね。絶対に成功させてみせるわよ、アスーム」

「ああ」


 俺は力強くうなずき、ローラの差し出された拳にこつんと拳を合わせた。




 その後、劇場を出て村へ帰り着いてからは、稽古で疲れた心身を癒すために、当日まで休息に費やした。公演前日に、村の稽古場であと一回だけリハーサルを行い、無事に終えてから当日を迎えた。

 子供たちにも早朝に起きてもらい、俺たちは城下町までの距離を移動する。衣装はあらかじめ着替え、劇の道具は荷車に詰め込み、荷車に入らない大道具は俺たち男の手で運んだ。


 城下町に着くと、すでに下層は庶民たちであふれていた。その結果、奇抜な格好で行列をなしていた俺たちは、かなり目立つ存在となってしまった。裏方をしてもらう人たちは、上にコートを羽織っているとはいえ、全身真っ黒の衣装を着ていたので、なおさらだ。

 下層を抜けて上層に辿り着くと、今度は貴族たちに注目された。売り子をしてもらったパグが言っていたとおり、俺たちは身のほど知らずの連中として、貴族たちの嘲笑を受けた。ローラが付き合わなくていいと呼びかけ、俺たちは無視しながらジオカーレ劇場へ向かっていった。


 開演時間の一時間前に到着し、俺たちは荷車を劇場の隅に停め、控え場所となる舞台袖まで道具を運んでいった。一通り運び終えると、俺たちも舞台袖に集まり、設置してあったホールクロックに目をやりながら出番を待った。

 公演に魅了された観客たちの歓声が聞こえてくる。俺がみんなの顔色を窺ってみると、また不安の色が表れていることに気づいた。

 何か気の利いた言葉をかけなければと思っていたところ、突然ローラがすっくと立ち上がった。ローラもまた、みんなの不安げな表情に気づいたに違いない。手を叩いて注目させ、ローラはみんなに言う。


「みんな、これまでやってきた稽古や作業を思い出してみて」


 みんなは目を閉じ、言われるがままに回顧を始める。そして、みんなの顔がみるみるうちに青ざめていった。不安が募ったのではなく、きつかった稽古の日々に戦慄してのものだろう。

 くすっと笑い、ローラは言葉を続ける。


「それだけぞっとするってことは、十分に稽古を積んできたって証拠よ。大丈夫、リハーサルで見せてくれたみんなの演技はすばらしいものだったわ。どうしても不安なら、私とアスームの二人で引っ張ってあげるから、大船に乗ったつもりでいなさい」


 ローラに続き、俺もみんなに対してうなずいてみせる。俺たちの励ましを受け、みんなの顔にも徐々に生色が戻っていった。


「それでは、ローリエ劇団のみなさん、準備のほうをお願いします」


 舞台のほうからアナウンスの声が聞こえてきた。「さあ、行くわよ!」というローラの呼びかけとともに、俺たちは上手から舞台へと足を踏み入れていった。

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