第一章 吹雪の夜の逃亡

 空が濁ったような雲に覆われ、荒れ狂う吹雪が窓を打ち続けていたある日のこと。俺は休憩時間になってロリアーナ嬢のもとから一時離れ、執務室に入った。

 中では、一人の女性が先にソファでくつろがれていた。茶髪のシニヨンが特徴的な、家令のオルガ婦人だ。普段着ておられる喪服のような濃紺のドレスは、常に厳格な彼女の性格を表しているかのようである。

 オルガ婦人と目が合い、俺は「お疲れさまです」と会釈する。オルガ婦人は俺を見るなり、待ちわびていたかのようにすっくと立ち上がり、吊り上がった眉をそのままに告げた。


「あんた、今夜はワインセラーの業務もやっておきなさい」


 俺はすぐに返事しながらも、内心で焦りを募らせた。ワインセラーでは、ワインを良質な状態で保存するため、執事が定期的に温度や湿度の調節を行っている。これにはワインに関する知識を必要とするため、まだ成人したばかりの俺には難題な仕事だったのだ。

 とはいえ、怒ると恐ろしいオルガ婦人の前で弱音を吐くわけにはいかない。俺は大きくため息を吐きたい気持ちを押し殺し、平然と振る舞った。休憩を終えて執務室を後にし、ようやくオルガ婦人の監視から解放されたところで、俺は溜まりに溜まった息をぶふうと吐いた。


「ずいぶんと大きなため息ですね」


 柔和な声が背後から聞こえ、俺は慌てて振り返った。視線の先では、白髪を一つ結びにし、俺と同じくタキシードを着たご老体が、ほっほっと笑いながら立っていた。

 このお方は、オルガ婦人の次に身分が高い上級使用人のバトラーさんだ。年齢もオルガ婦人より上なのだが、物腰が柔らかく部下にも気さくに接してくれるため、俺もこの人の前では緊張を解くことができる。かのロリアーナ嬢も、幼少のころはバトラーさんに良くしてもらっていたそうで、よくピアノの演奏をしてもらったと前に語られていた。


「脅かさないでくださいよ」


 安堵しながらそう返すと、バトラーさんは笑みをそのままに言った。


「それは失礼。初めてワインセラーの業務を命じられて、不安に感じていることだろうと思ったもので」

「ご存じだったのですか?」


 俺が問うと、バトラーさんはこくりとうなずいて答えた。


「今回アスームくんに任せるのは、事前にオルガさまと打ち合わせて決めたのですよ。私がアスームくんのフォローをすることもね」


 それはありがたい限りだと思い、俺は恐縮しながらお礼を言った。右も左もわからないまま手をつけようものなら、何十年と熟成したワインを一瞬で台無しにしかねない。執事とは、打ち首の危険と常に隣り合わせな仕事なのだ。


 時間を見つけて指導すると約束していただいた後、俺はバトラーさんと別れた。立ち話が少し長くなってしまったので、早足でロリアーナ嬢がおられる私室へと向かう。

 私室の扉を開けると、ロリアーナ嬢はソファに腰かけ、演劇に関する専門書を読みふけっていた。やはり長く待たせてしまったようで、俺が部屋に入るなり、ロリアーナ嬢に「遅いわよ」と膨れっ面で怒られてしまった。


「何か話でもしていたの?」


 ロリアーナ嬢に尋ねられ、俺は隠すことでもないと思い、素直に打ち明けた。


「今夜、ワインセラーの管理業務をするようにと、オルガ婦人に命じられたのです。初めてでワインにも詳しくないものですから、その件でバトラーさんに相談しておりまして」


 事情を知ってもらうつもりだったが、ロリアーナ嬢は業務のことなど知ったことではないようだ。にやりと上がった口角を片腕で隠しながら、ロリアーナ嬢は「なるほど、今夜は夜遅くまで起きているのね……」などと呟かれていた。

 ロリアーナ嬢のそばに仕えてから、かれこれ九年ほど経つ。今ロリアーナ嬢が浮かべておられる悪ガキのような顔を見て、何か良からぬことを考えておられるのだと、俺はすぐに勘繰った。


「一体何を企んでおられるのです?」


 呆れ気味に俺が問うと、ロリアーナ嬢は我に返り、慌てふためきながら「何もないわよ!」とはぐらかした。俺がじいっと訝しげな目で見つめるも、ロリアーナ嬢はそっぽを向きながら口笛を吹き、白状する気がない。埒が明かないと思い、俺はため息とともに詮索を諦めることにした。


「ねえ、アスーム」


 突然ロリアーナ嬢から声をかけられ、俺は目を丸くする。


「いかがなさいましたか?」


 俺がそう尋ねるも、ロリアーナ嬢は何か葛藤しておられるようで、すぐに口を開こうとしない。俺が首を傾げていると、ロリアーナ嬢はしばらくの沈黙の末、口を開いた。


「今から言うことは他言無用でお願い。誰かに姿を見られるのもだめ。そのワインセラーでの業務が終わったら、執務室に戻らず私の寝室に来てほしいの」


 ロリアーナ嬢の決然とした目を見て、これも演劇が少なからず関わっていることなのだろうと想像する。であるならば、ロリアーナ嬢のわがままに過度な加担をするわけにはいかないと思い、俺はとりあえず丁重にお断りしてみた。


「もし言うことを聞かなかったら、あなたに襲われかけたってお父さまに言いつけるわよ」


 予想どおり脅迫されたので、俺は仕方なしに了承した。




 吹雪の激しさは衰えることなく、夜も続いていた。みなが寝静まっている中、俺はランタンを片手に地下のワインセラーへと向かい、事前にバトラーさんからご教授いただいたとおりに調節をこなした。手間はかからない作業だが、しくじったりすれば貴重なワインが台無しになるので、最後まで気を抜くことができなかった。

 戸締まりまでして無事に仕事を終え、俺は廊下の隅に置いていたランタンを担ぎ、地下のフロアを後にした。廊下のシャンデリアは消灯していて壁掛けの燭台だけが灯り、夜の静けさを増していた。

 こつこつと、大理石の床を叩く靴音が気になったので、俺は革靴を脱いで片手に持ちながら移動した。階段を上がり、すり足でロリアーナ嬢の寝室へと向かっていく。

 この時間は、数十人もの近衛兵が城の各所で見回りを行っている。ロリアーナ嬢の命令どおり、近衛兵たちに自分の姿を見られてはならない。幸い、長いことこの城で執事をやっていたおかげで、近衛兵の巡回ルートをおおよそ覚えていたため、その記憶を頼りに近衛兵たちの目を逃れることができた。


 寝室前に辿り着き、俺はロリアーナ嬢に指示されたとおりのリズムで、扉を小さくノックする。俺が来たと伝わってくれたようで、ロリアーナ嬢は手早く扉を解錠した。

 半分ほど開いた扉の隙間からロリアーナ嬢の手が伸び、俺の片腕を掴んで中に引き入れる。ここでようやくロリアーナ嬢のお姿を目の当たりにしたわけだが、いつもと違うそのお姿に、俺は思わず唖然とした。

 無理もない。就寝のためにネグリジェを着ておられるものと思っていたが、今のロリアーナ嬢は苔の色をした地味なチュニックワンピースを着ており、優美さの欠片もない。そして何より、普段はハーフアップにまとめているロングの金髪をばっさりと切り落とし、ショートカットの髪型に変えていたのだ。よく見ると、床の上には切り落とされた長い金髪が見る影もなく散らばっていた。


「まるで庶民の格好ではないですか。一体全体いかがなされたのです?」


 俺が問うと、ロリアーナ嬢は真剣な面持ちをそのままに答えた。


「あなたなら協力してくれると思ったのよ」


 一体何を、と重ねて問おうとしたが、察しがついてしまい、俺は口を止めてしまう。

 ロリアーナ嬢が何か企んでおられるときは、大方演劇が絡んでいる。夜中に信頼できる者と密会し、計画を実行するとなると、その計画が何なのかは絞られてくる。

 ロリアーナ嬢は俺の腕をぎゅっと掴み、言葉を続けた。


「聞いて、アスーム。今から近衛兵たちの目を盗んで、王城から抜け出して逃亡する。それにあなたもついて来てほしいの」

「……それは、演劇の道へ進まれるためのご決断ですか?」


 俺が問うと、ロリアーナ嬢は無言のままこくりとうなずいた。俺は鼻でため息をつき、視線を落として黙考した。ブライダル王国とロリアーナ嬢のどちらを選ぶか、究極の二択を迫られる。

 すぐに決めきれず、俺は視線を上げてロリアーナ嬢の顔を窺った。ロリアーナ嬢はなおも俺の腕を掴み、縋るような目をこちらに向けておられた。

 この九年間、ロリアーナ嬢とともに過ごしてきた日々が脳裏に蘇る。初めて言葉を交わした日、わがままに振り回された日々、そして演劇の稽古をともに励んだ日々――。今まで何のために二人で歩んできたのか、俺は自らに問いかける。

 俺が彼女のわがままに従ってきたのは、演劇に心血を注ぐ彼女を止めようとしなかったのは、従僕だからという単純な理由などではないはず。彼女の演劇に対する熱意と才能を、誰よりも信じていたからではないのか。今こそが、演劇の道を夢見る彼女を支えてやるときではないのか。

 不安の色を浮かべているロリアーナ嬢に対し、俺は決意を固めて言った。


「急ぎましょう、ロリアーナ嬢。見回りをしている近衛兵の位置は、おおよそ記憶しております。私があなたを裏口までご案内します」


 俺の言葉を聞くなり、ロリアーナ嬢の不安げな表情はぱあっと晴れやかになり、歓喜のあまり俺に抱きついた。


 逃亡を決心するや否や、ロリアーナ嬢は毛皮の手袋とフード付きコート、そしてスノーブーツを俺に手渡してくれた。俺は手袋とコートだけを先に身に着け、頭をフードで覆い隠した。

 ちらとロリアーナ嬢のほうを見ると、大きく膨らんだ巾着袋を抱え、同じ格好になって頭を隠しておられた。こうなるといよいよ、城下町の路地裏に潜んでいるようなこそ泥と、外見が大差なくなってしまった。

 目を合わせてうなずくと、俺たちは早速逃亡の計画を開始した。扉を開け、ランタンとスノーブーツを再び手に持ち、ロリアーナ嬢とともに寝室を後にした。


 巡回する近衛兵と鉢合わせないように逃げるルートを判断し、ロリアーナ嬢を先導する。ロリアーナ嬢はすり足ができるものなのか心配に思ったが、むしろ俺より器用にこなしており、杞憂であると思い知った。

 無事に一階まで辿り着き、俺たちは廊下の柱などといった物陰に隠れながら、さらに先へと進んでいく。ようやく裏口の前にある曲がり角の所まで来たところで、俺は足を止めてロリアーナ嬢の手を引き、廊下の端に並び立つ甲冑の陰に身を隠した。


「裏口の扉の前では、近衛兵が見張っております。最後に彼らを誘導して、扉から遠ざけなければなりません」


 声をひそめて説明すると、ロリアーナ嬢は両手で口を押えたままこくりとうなずいた。ロリアーナ嬢にランタンと革靴を預けて待機していただき、俺は一人で曲がり角へ向かおうとした。


 途端、ランタンで灯っていた周辺に大きな影が覆い被さった。何だと思い後ろを向き、視線の先にあるものを見て、俺たちは飛び上がって悲鳴を上げかける。

 視線の先には人が立っていた。近衛兵に見つかってしまったのかと死を覚悟したが、甲冑を着てはいなかったので、どうやらそうではないらしい。

 よく見ると、その者は甲冑ではなく、俺と同じ黒のタキシードを着ていた。さらに目を凝らすと、しわが多い顔と一つ結びにした白髪が目に留まった。


 俺たちの前に現れたのはバトラーさんだった。二人して夜逃げしているところを目の当たりにしながら、いつもの柔和な笑みを浮かべ続けていたので、不気味にすら思えてしまった。

 なぜ気づかれたのかと俺は尋ねようとしたが、バトラーさんは手を上げてそれを遮った。そして、人差し指を立てて口に当て、静かにするよう合図する。

 俺たちが動けずにいる中、バトラーさんは小声で語り始めた。


「アスームくんがなかなか執務室へ戻ってこないから、心配になって捜していたのです。そして、密かにロリアーナお嬢さまの寝室へと入っていくアスームくんの姿を偶然見つけました。扉の近くで聞き耳を立て、そこでお二方が演劇のために逃亡なされようとしていることを知ったのです」


 納得するとともに、俺は自分の不注意で見つかってしまったことを悔やんだ。俺が黙してうつむいていたところ、ロリアーナ嬢が前に躍り出て、バトラーさんに頭を下げて懇願し始めた。


「おじい、お願い。私、どうしても演劇でアテナの舞台に立つのを諦めきれないの。だから、どうか――」


 バトラーさんは首を振り、いつもの柔らかな声で言った。


「私などに頭を下げる必要はありませんよ、お嬢さま。私はお二方のご決断を立派だと思います。そして、お二方の味方であり続けることを、僭越ながら願っております。たとえそれが、王国を裏切る決断になろうとも」


 予想外の言葉に、俺は唖然として立ち尽くした。その一方で、ロリアーナ嬢は許してもらえた嬉しさのあまり、感極まってバトラーさんにも抱きついた。


「すぐにでも城から離れましょう。夜明けまでに王国から逃亡できるかわかりませんから」


 バトラーさんの呼びかけに、俺たちは無言のままうなずいた。


 当初の予定どおり、俺は二人を置いて先に曲がり角へ向かった。顔だけを出して覗き込むと、少し広めに設けられた空間の先に、裏口の扉が見える。そして、その扉の左右に二人の兵士が立ち、見張りを続けていた。滅多に異常が起こらないからか、二人とも退屈そうにしていたので、待っていればいずれは好機が巡ってくるだろうと踏んだ。

 二人が談話をし始めたところで、意を決して作戦を決行する。俺はポケットにしまっていた懐中時計を手に取り、扉から遠く離れた所の壁を目掛けて放り投げた。懐中時計は無事壁にぶつかり、ガシャンと大きな音を立てた。

 見張りの兵士たちが何事かと慌てながら、騒音のしたほうへ走っていく。俺は後ろで隠れている二人を手招きして呼び、兵士たちが振り返らないうちに急いで駆け抜け、扉から外へ飛び出した。

 扉を開けるときの軋む音で、さすがに見張りの兵士たちもこちらの存在に気づいたようだ。すぐに追いかけて城から出てきたが、外は吹雪が吹き荒れており、少し先を目視することすらままならない。俺たちは兵士に見つからないうちに、裏門から続く雪が積もった石橋を一目散に駆け抜けた。


 どうにかばれることなく振り切ることができ、俺たちは王城を後にする。逃げることに必死だったので靴を履く暇がなかったが、さすがに足の裏が冷たさで痛みだしたので、俺たちは各々の靴を履いた。

 この悪天候の中、バトラーさんが無事でいられるか心配に思ったが、バトラーさんもすでにロングコートとスノーブーツを準備し、羽織っているようだった。俺たちが逃亡すると知ってから、バトラーさんも一緒に行くつもりで防寒着を用意してくれていたのだろう。


 いつにも増して激しい吹雪は、自分たちの身を隠すのに一役買ってくれた。ランタンだけが灯る静まり返った城下町の道の真ん中で、俺はふと立ち止まり、振り返って壮観な佇まいの王城を見上げる。

 苦労して就任した執事の職を手放すことを思うと、少なからず未練が残ってしまう。それでも、演劇の才能を秘めたロリアーナ嬢がどこまで輝けるのか、アテナの舞台に立てるのか、俺も見届けたいし力になりたい。執事の職を手放し王国を裏切る決断をしたことを、俺が後悔することはないだろう。

 古くから伝わることわざで、陽気な道連れは旅の音楽という言葉がある。俺たちが新たに選んだ演劇という人生も、陽気なものになってくれることを願うばかりだ。

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