第3話:夢の代償
冷たい風が吹き抜ける夜道を、私はただ一つの場所を目指して歩いていた。ヒールの音が、静かな街路に響く。心の中には、迷いと焦りが渦巻いている。
「夢を売る店――また、あそこに行くしかない」
私がどれだけ後悔しても、もう失ったものは戻らないと分かっている。けれども、私は答えが欲しかった。直樹との思い出がなぜ消えたのか。そして、それを代償にして得た夢に、本当に意味があったのか。
「あの店主に、もう一度確かめなきゃ…」
手に入れた夢の裏で、私が失ったものの正体をはっきりさせたかった。再び「夢を売る店」の扉をくぐることは、私にとって一つの賭けだった。
いつもなら見過ごしてしまいそうな細い路地に、その店は静かに佇んでいた。ぼんやりと光る看板――「夢を売る店」。まるで私を待ち続けていたかのようなその佇まいに、足がすくんだ。
「本当に、これでいいのだろうか?」
一瞬、躊躇したが、心の奥底にある強い衝動が私を動かしていた。私はドアを押し開け、中に入った。
店内は以前と変わらず、薄暗い光に包まれていた。アンティークの家具や瓶が並ぶ棚が静かに佇み、空気はひんやりと冷たかった。そして、あの時と同じように、カウンターの向こう側には、年老いた店主の大野が立っていた。
「ようこそ、またお越しくださいましたね」
大野は静かに微笑んだ。その表情は、まるで私がここに来ることを予期していたかのようだった。
「また…あなたに会いに来たんです」
「お話を伺いましょうか。どうしましたか?」
店主は穏やかに私を見つめる。その眼差しの奥には、何かを悟っているような深い静けさがあった。私は少しの間、言葉を探したが、やがて意を決して口を開いた。
「あなたに…一つ聞きたいことがあります」
「どうぞ、何でもお聞きください」
「私は…夢を叶える代わりに、何かを失った。それは、私の記憶――直樹との大切な思い出だった――。でも、私はその思い出をどうしても取り戻したいんです。彼との思い出がなければ、私の人生は空っぽのままです」
店主は少しの間沈黙した。私の言葉を慎重に聞いている様子だった。そして、静かに頷きながら、ゆっくりと口を開いた。
「確かに、あなたは作家としての成功を手に入れるために、大切な記憶を差し出しました。あなたの言う通り、それは直樹さんとの思い出です」
彼の言葉を聞いて、私は胸が痛んだ。やはりそうだったのだ。直樹との思い出を失ったことで、私は作家としての夢を手に入れた。それが、この虚しさの正体だった。
「では、私はその記憶を取り戻せるんですか?」
そう聞いた瞬間、店主の表情はわずかに陰った。彼は深く息をつき、私の目を見つめながら静かに首を振った。
「残念ながら、失ったものを取り戻すことはできません。一度手放した記憶や感情は、もう二度と戻らないのです」
その言葉に、私は絶望感を感じた。やはり、失ったものは二度と取り戻せない。直樹との思い出は永遠に消えてしまったのだ。
「でも…どうしても戻したいんです。彼との思い出がなければ、私の人生は意味を失ったままです」
「あなたが今感じている喪失感は、夢を叶えた代償です。あなたが作家として成功するために、何かを犠牲にしなければならなかった。そうでなければ、その夢は叶わなかったのです」
店主の言葉は冷静でありながらも、どこか悲しみを含んでいるように聞こえた。彼もまた、何か大切なものを失っているのだろうか?そんな疑問が頭をよぎったが、私はそれを聞くことはできなかった。
「でも…私は、何のために夢を手に入れたんでしょうか?こんなに大切なものを失ってまで、私は本当に作家としての成功を望んでいたのか?」
私は自分自身に問いかけるように言った。夢を叶えることが、こんなにも虚しいものだとは思わなかった。
「それを知るのは、あなた自身です」
店主の言葉は、私の胸に重くのしかかった。夢を追い求めた先に待っていたのは、成功と喪失の狭間で揺れる孤独だった。何のために夢を追ったのか――その答えを見つけることは、私にとって最も難しい課題だった。
「私は、何をするべきなんでしょうか…」
そう問いかける私に、店主は静かに言葉を返した。
「あなたがこれから選ぶ道が、答えを導いてくれるでしょう」
その言葉は、まるで私の運命を見透かしているかのようだった。何を選ぶべきか、その答えは私の中にあるのかもしれない。
私は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。今はまだ答えが見えない。でも、前に進むしかないことは分かっている。
「ありがとうございました」
私は店主に礼を言い、店を後にした。ドアを閉めると、再び夜の冷たい空気が肌に触れた。店の前の細い路地に立ち尽くしながら、私は空を見上げた。
「私はこれから、どうすればいいんだろう?」
胸の中にある喪失感と成功への焦りが、再び私を苦しめ始めた。夢を叶えるために犠牲にしたものは、あまりにも大きかった。そして、その代償を抱えながら生きていかなければならないという現実が、私の前に立ちはだかっていた。
だが、その瞬間、私は心の奥底に微かな希望を感じた。私が本当に求めているものは何なのか――それを見つけるために、私はもう一度自分自身を見つめ直さなければならない。
「今度は、自分のために選ぶんだ」
そう心に決めて、私は前を向いて歩き出した。これからの道は、私自身が切り開いていくしかない。
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