第2話:喪失と孤独
成功――それはこんなにも虚しいものだったのだろうか?
私の小説は話題になり、出版された本は書店に平積みされ、売り切れが続出していた。出版社は次々と新しい契約を持ちかけ、テレビのインタビューに出演する機会も増えた。私の名前は作家として多くの人に知られるようになり、SNSでも読者からの称賛が絶えなかった。
でも、心の奥底には、常に何かが引っかかっていた。成功を手にしたはずなのに、心は空っぽで、喜びを感じることができなかった。それどころか、まるで大切な何かを忘れてしまったかのような感覚が私を支配していた。
「麻衣さん、本当におめでとうございます!まさかこんなに早く作家デビューするなんて!」
同僚たちは祝福の言葉をかけてくれるけれど、その言葉もどこか遠くに感じる。喜ぶべきなのに、心がついてこない。いつも私は笑顔を作って「ありがとうございます」と返事をするけれど、本心では何も感じていなかった。
ある日、オフィスにいるとスマートフォンが震えた。見慣れた名前が画面に表示されている。
「沙織…」
自由奔放な友人、宮田沙織。私は一度スマホを見つめてためらったが、結局通話ボタンを押した。
「麻衣、聞いたよ!デビュー作、大ヒットしてるじゃない!すごいね、やっぱり才能があったんだよ!」
彼女の声はいつも明るくて、何もかもを前向きに捉える。その姿勢に救われたこともあったし、時にはその自由さに嫉妬さえ感じたこともある。でも今、彼女の言葉が私の心に届かない。
「ありがとう。でも…なんだかまだ実感が湧かないよ」
「そう?そりゃあ、まだスタートラインに立ったばかりだからね。でも、麻衣なら絶対にもっと大きくなるよ。だって、ずっと夢を追ってたんだから」
夢――その言葉が、胸に刺さる。私の夢は、本当にこれだったんだろうか?確かに、作家として成功したかった。けれど、今の私はその夢を叶えるために何かを失った。それが何かを思い出せなくても、心の中にぽっかりと空いた穴があることは感じている。
「ねえ、麻衣?」
沙織の声にハッとする。
「ん、なに?」
「なんか、変だよ。元気がないっていうか…何かあったの?」
彼女の言葉には、いつも鋭いところがある。私はごまかすように笑った。
「そんなことないよ。ただ、ちょっと忙しいだけ」
「本当に?まあ、麻衣がそう言うなら信じるけど。でもさ、無理しないでね。せっかく夢が叶ったんだから、楽しんでないと損だよ」
楽しむ――そう、私は楽しめていない。沙織が言った通り、夢を叶えたはずなのに、全く満たされていない。夢を追い求めていた頃は、書くことが何よりも楽しかった。それが今では、仕事としてのプレッシャーに押しつぶされそうだ。
「ありがとう、沙織。気をつけるよ」
「うん。じゃあまたね!時間ができたらご飯でも行こう!」
通話が終わり、私はしばらくスマホを見つめたまま座っていた。沙織の言葉はいつも私を励ましてくれる。でも、彼女の無邪気さが今の私には重く感じる。私はもう、夢を楽しむことができないのかもしれない。
その夜、私は再び一人で自宅のリビングに座っていた。窓の外には、遠くにネオンの灯りが見える。部屋の中は静まり返っていて、ただ時計の針の音だけが響いていた。成功の証は部屋の中にいくつもあった。書棚には私の本が並んでいて、メディアで取り上げられた記事や賞状が額に入れられている。
でも、そのすべてが無意味に思えた。
私は考えないようにしていたあることを、再び思い出してしまった。
――直樹。
思い出そうとするたびに、何かが私を阻む。彼の顔も、声も、まるで霞のように掴めない。だけど、彼が私にとって大切な存在だったことだけは、確かに覚えている。彼との思い出が、私の中から消えてしまった。それが「夢を売る店」での代償だったのだ。
「あの店に行かなければ…」
ふいに、そんな後悔の念が湧き上がった。もし、あの時、夢を手に入れることを選ばなければ、私は直樹との大切な思い出を失わずに済んだはずだ。だけど、もう遅い。一度手放したものは二度と戻らないと、あの店主は言っていた。
心に広がる喪失感を埋める術は、もうないのだろうか。
数日後、私は仕事の合間に一息つこうと、ふとカフェに立ち寄った。書店の近くにあるそのカフェは、デビュー前にいつも通っていた場所だ。ここでノートに物語を書いていた頃は、未来に向けて夢中になっていた。今となっては、その頃の情熱が懐かしく思える。
コーヒーを頼んで席に座ると、偶然目に入った新聞の記事が私を釘付けにした。
「新進気鋭の作家、渡辺彩香、最新作で大反響!」
その見出しを見た瞬間、胸の奥にざわつきが広がった。渡辺彩香――同世代の作家で、彼女もまた最近注目を集めている人物だ。彼女の名前を聞くたびに、心の中で何かが掻き乱されるのを感じる。彼女はすでに複数の作品で成功しており、私の存在を脅かすライバルだ。
「負けるわけにはいかない」
いつの間にか、私の中にそんな感情が芽生えていた。夢を追うことが楽しみだったはずの私は、今や競争の中で自分を見失いかけている。私は何のために作家を目指していたのだろうか?成功を手にするため?それとも、ただ物語を紡ぎたかったから?
答えはわからない。
でも、渡辺彩香に負けるわけにはいかない。そう思うことで、私は何とか自分を奮い立たせていた。
その夜、私は再び眠れないままベッドに横たわっていた。頭の中は、次の作品のアイデアでいっぱいだったが、それを形にする気力が湧かない。作家として成功したい――その思いは強いはずなのに、何かが欠けている。
「私は何を失ったんだろう…」
心の中でその問いが繰り返される。思い出そうとしても、掴めない。私は何を失ったのか、そしてそれを取り戻すことができるのか?
その答えを知るために、私は再び「夢を売る店」へ行こうと決意した。
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