夢を売る店
@pinkuma117
第1話:夢と現実の狭間
――まるで、無音の荒野を一人で歩いているかのような感覚だった。
今日もまた、私はデスクの前で固まっていた。パソコンの画面に浮かぶ未完成の広告コピー。クライアントが求めるのは、いつも「斬新さ」と「感動」だ。しかし、私の頭にはもうそれを生み出す余力が残っていない。肩は凝り固まり、時計の針が無情にも夜の10時を回ったことを知らせている。
「これでいいんだろうか…」
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。今、私は何のために働いているんだろう?毎日同じようにデスクに向かい、終わりのない仕事に追われている。高校生の頃から夢見ていた「作家」という肩書きは、もう遥か彼方のものになってしまった。
私は、作家になることを夢見ていた。子供の頃から物語を紡ぐのが好きだった。ノートに書いた物語を友達に見せると、みんなが「続きが読みたい」と言ってくれた。あの頃は、夢が現実の一部になると信じて疑わなかった。
しかし、現実は厳しかった。大学の新人文学賞に応募した作品は、すべて落選の通知ばかり。次第に自信を失い、就職活動が目の前に迫ると、私は現実を選んだ。安定した職業――広告代理店のコピーライターという仕事に就いたのだ。
「作家なんて、特別な才能がある人だけのものだよね…」
ため息をつきながら、自分にそう言い聞かせる。日々の忙しさに追われる中で、いつしか書くことすらしなくなった。それでも、心のどこかではずっと「夢を諦めた」という感覚が消えない。作家としての成功を諦めたことで、何か大切なものを失ったような気がしてならなかった。
今日もまた、私はデスクに向かいながら、夢の欠片を探していた。
夜が深まると、会社は静まり返り、オフィスの中には私一人だけが残されていた。周りの席は空っぽで、かすかな蛍光灯の光だけがデスクを照らしている。疲れた体を引きずるように立ち上がり、デスクの隅に置かれたカバンを手に取った。
「今日はもう帰ろう…」
無意識のうちに口にした言葉が、妙に空虚に響く。帰ってもやることはない。家に帰れば、ただテレビをつけてぼんやりと過ごすだけだ。休みの日ですら、何もする気力が湧かない。私の人生は、いつからこんなにも空虚なものになってしまったのだろう?
外に出ると、冷たい夜風が肌に触れる。少しだけ気持ちが落ち着いた。新宿の街はまだネオンに包まれ、雑踏が響いていた。夜の都会には無数の人々がいる。誰もがそれぞれの目的地に向かって歩いているのだろうが、その足取りはどこか機械的だ。私もその一人だと思うと、ますます虚しさが募る。
「どこか、違う場所に行きたい」
ふと、そんな考えが頭をよぎった。今まで何度も心の中で繰り返してきた願望。だけど、それは叶わないと分かっている。夢を捨てて現実を選んだのだから。これが私の選んだ人生だ。
だがその時、不思議な感覚に襲われた。街灯の影にひっそりと佇む小さな店が、ふいに目に留まったのだ。ここには、こんな店はなかったはず。私は足を止め、店の看板を見上げた。
「夢を売る店」
その文字が、ぼんやりとした光を放っている。まるで、私を誘っているかのように。
「夢…を売る?」
私は思わず看板を見つめてしまった。夢を売るだなんて、そんなことが本当にできるのだろうか。何かの悪ふざけだろうか?でも、不思議とその店に引き寄せられるような気がした。
好奇心に駆られて、私は店のドアを押した。ぎいっと古びたドアが軋む音が響く。中に入ると、薄暗い店内に独特の香りが漂っていた。アンティーク家具が並び、棚には無数の瓶が並んでいる。小さなラベルには、それぞれ何かの文字が書かれているようだが、遠くて読めない。
「いらっしゃいませ」
低く静かな声が聞こえた。振り返ると、カウンターの向こうに年老いた店主が立っていた。彼の顔には深いしわが刻まれ、その目には不思議な光が宿っている。
「あなたは…?」
「私は、この店の店主です。お客様に夢を売る仕事をしております」
「夢を…売るって、どういうことですか?」
店主は静かに微笑んだ。
「そのままの意味です。ここでは、お客様の心にある願いを『夢』として現実にして差し上げます。しかし、夢を手に入れるためには代償が必要です。何か大切なものを差し出していただく必要があります」
「代償…?」
一瞬、私は耳を疑った。夢を現実にする代わりに何かを差し出す――そんな話、信じられるわけがない。でも、店主の眼差しには嘘は感じられなかった。
「あなたが叶えたい夢は何ですか?」
店主の言葉に、私は答えられずにいた。夢――私には夢があった。ずっと作家になりたかった。でも、その夢はもう諦めたはずだ。今さらそれを手に入れることなんて…
しかし、その時、心の奥底から湧き上がる声が聞こえた。
「作家になりたい」
自分の声が、店内に響いた。店主は穏やかに頷く。
「その夢を叶えることができます。しかし、あなたが代わりに差し出すものが必要です。それはあなたにとって何か大切なもの――記憶や感情かもしれません」
「大切なものを…失うってことですか?」
「そうです。しかし、それがなければ、夢を手に入れることはできません」
私は混乱していた。夢を手に入れる代わりに、何か大切なものを失うだなんて…。でも、もしそれで作家として成功できるなら、私は何を失っても構わないのかもしれない。
「何を差し出せばいいんですか?」
店主はゆっくりと棚から一つの瓶を取り出した。その瓶のラベルには「作家としての成功」と書かれていた。
「あなたが差し出すべきものは、あなたの最も大切な記憶の一つです。それがなければ、この夢は叶いません」
私は少し考えた。大切な記憶…。何を失うのだろう?でも、それでも私は夢を叶えたい。作家として成功する夢を。
「分かりました。その記憶を差し出します」
店主は静かに頷き、瓶の封を開けた。すると、柔らかな光が店内を包み込み、私の胸の中から何かがすっと抜け落ちていく感覚がした。
「これで、あなたの夢は叶います」
そう言って、店主は微笑んだ。
その瞬間、私の頭の中には、新たな感覚が流れ込んでいた。物語のアイデアが次々と浮かび上がり、私は無意識のうちにそのアイデアを紡ぎ始めていた。私の夢は、今、現実になったのだ。
それから数週間、私の人生は一変した。作家としてのデビュー作が大手出版社で採用され、瞬く間に話題となった。雑誌やテレビの取材が殺到し、私は成功を手に入れた。まさに夢のような日々だった。
しかし、何かが足りない気がしてならなかった。何か――とても大切なものが。
「私は一体、何を失ったんだろう?」
その問いが、心の中で何度も繰り返された。
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