絵画、または精霊

惑星ソラリスのラストの、びしょびし...

第1話

 たとえば、胸の大きな女性、などと大っぴらに言うと、色々と角の立つ時代ではある。

 僕としては胸の大小について基本的に博愛的な立場を、つまり、大きくとも、あるいはそうでなくとも、乳房は乳房、バストサイズというのはあくまでも計測可能な数値の一つ、大事なのは統一感・フォーム・テクスチャ、または乳房という概念全体を構成する個々の要素のハーモニー……

 失礼。

 ともかく、何が言いたいかと言えば、彼女はそのトータルの総和として(それは何も乳房だけではなく、頭の先から足の爪先まで、という意味で。または容姿と性格が織りなす抗いがたい引力、という意味で)、僕にとって著しく不相応、釣り合ってない、この両手に持て余すというか(なにも彼女の乳房の話だけではない)(乳房も持て余すほどではあるのだが)(失礼)、そういうタイプの人だった。

 恐ろしい、身の毛のよだつような美人。

 実際、僕を知るほとんど(というかすべて)の人間が、僕の傍らで僕を見つめニコニコと幸せそうに微笑む彼女を見て、大いに首を傾げ(うち一人はこの“傾げ”がきっかけで、その後長らく慢性的な首の痛みを患うことになった)、嫉妬からではなく、友あるいは息子を想う真摯な気持ちから、僕に対して警句の矢をどばすぱと放ってきた。そのほとんど(というかすべて)は、まったくもって正鵠を射抜いていた。つまり、「似つかわしくない」「意味が分からない」「何かの冗談だろう」「裏があるのではないか」「裏があるぞ」「騙されてはいないか」「騙されているぞ」「悪いことが起こる」「しかし君に騙し取られるほどの資産はない」「肉親である私たちもそうだ」「しかし奇妙だ」「実に奇妙だ」「恐ろしい」「辻褄が合わない」「だがともかくは」「おめでとう」と口々に言った。

 彼女は実際的かつ根源的な恐怖を僕たち(つまり僕と、僕の親しい友人と、僕の両親と)に想起させるレベルの美人だった。黒のロング・ヘアーは彼女のちょっとした仕草にあわせて、千々に千切れた陽光が煌めく朝の海の波間のように輝き、その隙間から時折、決して押しつけがましくないタイプの、きわめて良い匂いがした。瞳はしっとりと濡れた深い黒色。うすいピンク色の、ふっくらと、しっとりとした唇。顎のあたりに奇跡的な構成感覚のほくろが一つ。ほっそりとした首筋は陶器のように白く、そこにもほくろが一つ……ふたつ)、そして胸が、乳房が、とにかく大きかった(結婚後に得られた彼女の胸に関する統合された評価については、ここでは割愛する)。


 話を元に戻す。

 しかし何処から語るべきだろうか? 僕と彼女との出会いから? 

 あるいは、もっと前から?


 *


 僕と彼女はマッチングアプリで知り合い、その日が初デートで、午後一時に駅前で待ち合わせ(結局、合流するまでに10分ほどかかった)、あらかじめ予約しておいたカフェへ入った。彼女は紅茶と苺のケーキを、僕はアイス・コーヒーとチーズ・ケーキを頼んだ。

 と、思う。

 正直に話すと、実はここまでの記憶が殆ど無い。454カスール弾で脳天をぶち抜かれたあとみたいに、それは僕の頭から吹き飛んでしまっているのだ。

 駅前で合流した彼女は、美人だった。いや、美人すぎた。

 僕は通常、この手のアプリのプロフィール写真については、あらかじめ設定した割引率(僕の、これまでの経験から培われた、至極実践的な値だった)を適用して、実際現れるであろう相手の容姿を想像することにしている(それは理想と現実の落差に対する、ある種の防衛反応のようなものだ)。それゆえ、彼女と向かい合い、その顔を、その目を見たときの衝撃たるや、口の中に火薬をたっぷりとまぶして、勢いよく奥歯を噛み締めた時のような、それはもう凄まじい霹靂だった。

 そこから立ち直り、僕が僕自身の記憶と思考の連続性を回復すると、僕はカフェにいて、目の前には食べかけのチーズ・ケーキと、殆ど飲み干したアイス・コーヒーのグラスがあった。僕はすぐさまコーヒーのお代わりをした。その時になって僕はようやく気づいたのだけれど、彼女の胸はとにかく大きかった……オリジナルのエイリアンに出てきた、あの異星人(スペースジョッキー、というらしい)の死体くらいに、あるいは本州のうえに重ねた北海道くらいに、彼女の胸は大きかった。

 大きかった……!

 そして僕がその霹靂から立ち直ると、本当に信じられないことなのだけれど、僕たちの会話はフェラーリの内燃機関の働きのような滑らかさをもって開始された。そこには敵意も、疑心も、探り合いも駆け引きも無かった。まるで春の日差しの中で行われる、気心の知れた大学生同士(おそらくその二人は二年生でなくてはならない。一年生同士では互いにぎこちないし、三年生同士では緩み、ただれ過ぎているから)のテニス・ラリーみたいな、生暖かい会話だった。僕は彼女に好意を抱かないわけにはいかなかった。そして彼女もきっとそうなのだろうと思った。だからこそ、我々の会話は大学生(二年生だ!)のテニス・ラリーのように生暖かく、心地良いのだろう、と思った。

 我々は互いの話をした。出身地や出身大学、いまの仕事(彼女は衣料とか、繊維とかを扱う会社の、EC部門のデザイナーをしていた。春夏シーズンの展開とかで忙しい、とのこと)の話をし、最近見た映画の話をした。僕は「イニシェリン島の精霊」における画面構成であったり、島の人々の悪意についての持論を延々と話した(後日このデートの顛末を聞いた僕の友人は、黙って僕の話を聞き終え、手にした生ジョッキを一息に飲み干すと、「初デートで、イニシェリン島の話を?」と言ってから、首をまさしく90度に傾げた。僕は何も言い返せなかった。確かにその通りだ。イニシェリン島の精霊は良い映画だ。だけどマッチングアプリで知りあった男女が、初デートで話すべき映画としては、恐らく下から数えたほうが早い作品だろう)。彼女は僕の話に時折肯き、静かに笑った。

 僕たちはお代わりの紅茶とコーヒーを頼んだ。彼女は僕の着ていたベージュのシャツを褒め、僕は彼女の着ていたレギュラーカラー・シャツとロング・スカートの色の組み合わせを褒めた。二杯目の紅茶を飲み終えたあとで「こういうアプリを使うのは初めてだったけれど、あなた(つまり僕のことだ)のような人が来てくれて、とても安心した」といった趣旨のことを彼女は言った。

 元々の予定ではこのカフェで一旦切り上げて、互いの感触が良ければ、後日改めて本格的なデート、と考えていたのだけれど、僕のほうは気が逸ってそれどころではない。彼女さえよければ(いやきっといけるに違いないという、確固たる感触が僕の両の手のひらの中にあった)、どこかで時間を潰して、ちょっと早いけれど、しっぽりと夜の街へ飲みに行くのはどうだろうか、ということを考え始めた矢先、彼女と目が合った。

 彼女はニコ、と囁くように笑い、はにかみながら、しっとりとした二つの大きな目で僕を見つめ、

「絵の展示が、あるんです。もし良かったら、一緒に見に行きませんか?」

 と言った。

「あへぇ、絵、ですか」と僕が答え、「ええ、絵です」と彼女が答えた。

「素敵な、絵なんです。とても……」

 そこでぷつん、と会話が途切れた。

 ぶおんおん、おんおんおんおん。と空調の、やけに大きな音がいきなり天井から降ってきて、僕の耳に覆い被さった。聴覚の焦点が徐にぼやけ、周囲の客の話し声が、互いに互いをマスキングしあい、その意味を絶えず失い続けながら、僕の周りをぐるぐると回り始めた。そこには何か、啓示的な響きがあった。不穏な響きがあった。それは徐々に首をもたげて、どこからか僕を見つめ……

 あっ、これ絵画商法か

 と、僕が辿り着いたのは、そこから4分と30秒ほど経ったあとだった。それに気がついた瞬間に、店内の温度がストン、と下がった気がした(1987年のブラック・マンデーくらい、ストン)。視界は色褪せ、肉体はこの世界から急速に遠ざり始めた。僕はコーヒーの残りを飲み干そうとした。空だった。40代くらいのぶっきらぼうな店員が、その空のグラスと、ケーキの載っていた皿と、彼女のティーカップとを下げていった。

 彼女の瞳の底で、コーヒーのように黒い液体がとろとろと渦巻いているのが見えた。それを見つめながら、例えば「絵の展示」がどこかの美術館だったり、ちゃんとした、オープンで(つまり、身内だけで閉じていない、という意味で。あるいは、入ったが最後、ヤクザな人たちに囲まれることのない、という意味で)、居心地の良さそうなギャラリーでやっているのかもしれないという可能性について僕は真剣に考慮した。どう考えても、それはオッズの高すぎる選択肢には違いなかった。

 結局のところ、僕はそれに賭けることにした。

 二人分の支払いを済ませ、僕たちは店を出た。


 そこから4、50分経った。


 僕たちの乗る電車はいくつかのめぼしい駅を通り過ぎた。途中で各駅停車に乗り換え、さらに15分か20分ほど電車に揺られていた。先ほどまで穏当だった陽光が不穏に傾いて、窓の外から車内へと差し込んできた。

 電車は、あまり聞いたことのない駅と、あまり見たことのない街を通り過ぎていった。そのたびに、街からはストラクチャとバリエーションが間引かれていった。窓の外に、一定のリズムで立ち並ぶ背の低いアパートや住宅が見えた。そこにはある種のパターンが見られた。パターンは何かを表していた。

 僕は座席に背中を深々と埋め、先ほどのカフェでの、大学二年生みたいに生暖かくて、土曜日の午前中のように気怠くて、フェラーリのエンジンのようになめらかな会話を、牛のように繰り返し反芻した。そこに味は無かった(ところで牛のあれって、果たして味があるのだろうか?)。次に、イニシェリン島の精霊のラスト・シーンを反芻した。こちらにはまだ味はあった。何の味かは分からなかった。

 彼女は隣で目を瞑り、背筋をすっと伸ばし、揃えた膝の上に両手を置いていた。左と右の、すらりとした十本の白い指の先に、薄桜色の、品のある光沢を放つ爪が十枚くっついていた。それらは短くもなく長くもなかった。それは爪として最適な長さだった。ある種の工芸品か、もしくは品の良い和菓子を想起させるような、そういう爪の色で、光だった。彼女は目を開き、彼女の爪を見つめる僕に気が付いた。僕と目が合うと少し恥ずかし気に口角をそっと上げた。そしてまた瞼を閉じた。

 僕はタイミングを逸し続けていた。それは彼女に、僕たちの旅の行先を尋ねるそれであり、“絵の展示”の詳細を訊ねるそれであり、“今日はとても楽しい時間をありがとう・今日はあいにく予定が控えておりまして・また機会があればどこか遊びに行きましょう”、という断りのそれであった。それらはとろとろと走ってはガクン、と止まる電車の窓の外に幾度となく立ち現れては流れ去っていった。僕は履いているスニーカー(くすんだ、ねずみ色をしていた)の爪先をじっと見つめた。

 駅に着き、扉が開くたび、僕たちの乗る車両から人が消えていった。今いる車両に乗っているのは僕たちと、斜め向かいのシートの進行方向寄りの端っこに座った、50代くらいの男だけになった。彼は、この世の全ての重苦を背負っているような憂いを帯びた顔をし、ややこけた頬をこすり、ああぁっ、と呻くと、手にしたスポーツ新聞を拡げた。

 「悪意は、どこから来たとおもう?」

 ちょうどその時、その言葉は、いくつかの空気の層の向こうから、ぼわぼわと洩れ伝わるように聞こえてきた。まるで真夏の茹った市民プールの底にいて、両膝を抱えて背中をプールの床に向け水面を仰ぎ見ていて、鼻からぷかかかかと、ゆっくり空気を吐いていて、そんなときに、水面の向こうで誰かが僕に向かって声を掛けてきたような、そんな感じに、彼女の声は響いてきた。あんまりにもぼやぼやと、ねむたい具合に聞こえたので、僕はそれが意味のある言葉だと(そして僕に向けられた言葉だと)理解するまで、結構な時間を要してしまった。

 彼女は僕に向かって首を、まさしく啓示的な角度に傾げてみせ、眉根をそっと寄せ、あの黒い目で僕の顔を覗き込んできた。彼女の長い眉毛の震えや、微かな青が奔る白い頬の肌理が見えるほどの距離に、彼女の顔があった。特徴を捉えさせないかすかな匂いが、鼻孔の奥をくすぐった。その匂いが、僕の意識を一気に現実へと引き戻した。

 いや、ええと、と僕はしどろもどろになりながら、

「なに……」

「悪意」

「悪意?」

 イニシェリン、と彼女の唇が動いた。ああ……

「そう、悪意。あの島の、閉鎖的な環境で、人々の悪意が」

「それは、島のひとから生まれたものなの?」

「え?」

 彼女は右手で左の頬をさすり、例えばね、と言った。

「例えば、あの美しい島自体が、その風景が、土地が、何らかの悪意を持っていて、島の人たちは多かれ少なかれその影響を受けている、とか」

 なるほど。

 と僕は頷いた。実際には、何も分かってはいなかった。

 島自体が悪意を持つ?

「精霊よね」と彼女が言った。

 ガタランガタラン、ガタランガタラン。と窓の外から、ワーレントラス橋の斜材がつくる影が僕と彼女の身体の上を繰り返し通り過ぎていった。

「精霊、と映画では表現していたけれど、それは何というか、霊魂、つまりだれかの意思ですら無いのかもしれない、たとえば……ストラクチャ」

 ストラクチャ?

「映画の中に出てきた、あの音楽家だって、好き好んで左手の指をすべて切り落としたんじゃあないの。ましてや、あの、取るに足らない中年男のせいでもない」

 彼女はそう言うと、左手の指を広げ、そこにある指を一本ずつ確かめるようにじっくり眺めた。そして言った。

 つまり悪意は島の人々の、個々の心のなかにあるのではないの。彼らの悪意はむしろ、より大きなものに組み込まれている。抗いがたい状況、あるいは構造。あの美しい断崖や丘、格子状にどこまでも広がる低い石垣、その総体としての、風景……あるいはもっと別の、大きなフレーム。上位構造。

「組み込まれていて、抜け出せない。抜け出すという選択さえ思い浮かばない。なぜなら、それは見えないの。認識できないの」

 なるほどね、と僕は言った。

 そこで電車が止まった。彼女は立ち上がり、扉へ向かって歩いていった。うああ、と斜め向かいに座った男が小さく呻いた。彼は相変わらず全ての重苦を背負い、眉根は苦悶に歪み、半分開いた口からは嗚咽と涎が洩れ出て、腕と足を組み、半ば崩れ落ちるような姿勢で一心に目を閉じていた。彼女が電車から降りて、こちらを振り返った。僕は立ち上がり、転げ落ちるように閉まる扉の隙間からホームへ降りた。


 山の斜面に沿って立ち並ぶ家々やアパートのあいだの、ゆったりとのたうつ蛇行した坂道を、メトロノームのように規則正しく揺れる彼女の黒髪や左右の白いスニーカーの踵をじっと睨みつけて(それらは坂道を登り切ったあとも、しばらくのあいだ僕の瞼の裏に焼き付いていた)、25分ほどかけて登り切った。ここから先にはもう山しかない。額の汗をハンカチで拭った。ハンカチはすぐに使い物にならなくなった。夕暮れの赤や紫がおもむろに、西の空から滲みだそうとしていた。

 彼女はようやく足を止めた。一軒の家、屋敷と言ってもいいと思う、それが目の前にあった。しっかりとした造りの塀が、注意深く家の周りを囲っていて、ロートアイアンの門扉は鈍く、重く、沈んでいた。彼女は門扉を開けた。躊躇いも後ろめたさも無かった。僕は彼女のあとに続いた。

 玄関までのアプローチには几帳面にレンガが敷き詰められていた。大豪邸、というほどでないにせよ、おそらく大多数の日本の邸宅よりも遥かに広い庭(少なくとも僕の実家よりは広い)は、執拗に、そして神経質に整えられていた。見える範囲の窓には全て、鎧戸がかっちりと、またはベージュか、灰色をした分厚いカーテンによって閉じられていた。建物全体はそれなりに古いものに見えた。だけど欠けたり、損なわれたり、褪せたりしているところは見当たらなかった。つまり、まめに・一定のスケジュールでもって手入れがなされている、ということだった。

 そしてそれはいくぶん不自然だった。

 この家は静止している。それも長いあいだ。

 少なくとも、僕にはそう見えた。

 つまりそれは、だれかの生活の痕というか、動きの痕というか、ともかくそういう気配が、においが、微塵もないということだ。それはこの家自体の状態と比べて、どうもアンバランスな印象を僕にもたらした。

 だれも住んでいる気配が無いのに、この家には丁寧なメンテナンスが施されている。いったい、だれが、なぜ?

 カフェでそれとなく尋ねた限りにおいて、彼女がここに住んでいるはずはない(確か、職場からそれほど離れていない駅の名前を口にしていたと思う)。ここが彼女のいう、「絵の展示」のあるところなのだろうか? あるいは、これが絵画商法だとして、街の中ならいざ知らず、こんなところまでノコノコついてくるような輩(つまり、僕だ)が、いったいどれほどいるのだろうか。あんまりにも効率が悪いんじゃあないだろうか? 

 しかし逆に言えば、この効率の悪さそのものが、これが決して絵画商法のたぐいではなく、彼女がその真心をもって、ただ純粋に、僕に絵を見てもらいたい、そう考え、ここまで僕を連れてきたということの証左になるのかもしれない、と僕は思った。

 そしてアプリで知り合って初めてのデートで、こんな辺鄙なところ(失礼)まで相手を連れてくるというのは、一体どのような真心によるものなのだろうか? 見方によっては、うらぶれた雑居ビルの一室で、ヤクザな人たちに囲まれ、訳の分からない絵を高値で買わされるよりも遥かに“こわい”のではないだろうか。

 彼女が玄関のレバーに手を掛けた。鍵は掛かっていなかった。


 家の中はとにかく暗かった。閉じられた鎧戸やカーテンの隙間から、切れ切れになりながら僅かに光が差し込んできていた。漂う空気は外気よりも若干生温く、かすかに黴のにおいがした。外から感じた通り、長く動きのない空気がそこにあった。

 指先の感覚だけで靴を脱ぎ、闇の中にぼんやりと浮かぶ彼女の残像──腕や、頬の白、やや汗ばんだ匂い──を追って、恐る恐る廊下を歩き、すぐ左側の部屋に入った。入るとすぐに、彼女はその部屋の大きな掃き出し窓の前のカーテンを開けた。外の光が入ってきた。窓の外で、空がゆっくりと夜に向かって傾いているのが見えた。「待ってて」と彼女は言い、部屋から出ていった。僕がひとり残された。

 部屋には、かつてはファビュラスだったろう、うらぶれたソファ(上等なシロモノに違いない、ということが腰かけたときの臀部の感触で分かった)が一台あった。ソファの前には大げさな天板のローテーブルがひとつあり、壁際にはやや低めの飾り戸棚が置かれていた。飾り戸棚は防塵用の白い半透明のカバーで覆われていた。カバーの上をちょっと指でこすると、指の先に埃がべったりとついた。僕はソファに座った。もぞもぞ尻を動かして重心を変えると、床板が大げさな悲鳴を上げた。悲鳴が終わると、部屋はとても静かになった。他には何の音もしなかった。

 しばらくすると、彼女が上品なティーポットとカップふたつとミルクピッチャーとシュガーポットをトレーに載せて戻ってきた。きっとシュガーポットのなかの砂糖すら上品なに違いない、と思えるようなやつ。僕は尻を横に滑らせてソファの端に座り、彼女が座るための十分以上のスペースを作った。彼女は、微塵のためらいも見せずに僕のすぐ真横に腰かけた。僕のパンツと彼女のスカート越しに、互いの太腿が触れあった。彼女は右手で髪をかきあげ耳にかけた。かすかにシャンプーと、彼女自身の匂いがした。彼女がこちらをちらりと見たので僕は慌てて正面を向き、カップを手に取り、ミルクと砂糖をどたばた投入し、ティースプーンで攪拌した。一口飲むと、それは幾分甘ったるく喉を下っていった。疲れた体に糖の甘みが染み渡るのが感じられた。

「とても、美味しいね」と言うと、彼女は静かに笑った。その顔(や、その下の巨大な二つの隆起)を改めて見るにつけ、きっと大丈夫だ、彼女はただ、その好意ゆえに僕に絵を見てもらいたいだけなのだ、僕はきっとこの賭けに勝つのだ、と僕は自分自身に何度も言い聞かせた。しかし、賭けに勝ったとして、僕は何を得るのだろう? あるいは、今僕は何を賭けているのだろうか?

 僕は儀礼的な咳払いをして、たずねた。

「それで、ええと、この家は、君の家なのかな? それとも、お知り合いか何かの?」

 ええ? と、少し驚いた様子で、彼女は口元を右手で覆い、持っていたカップをテーブルへ置いた。それから、少しだけかぶりを振った。僕も彼女に合わせて笑い、彼女が口を開くのを待った。

 部屋に時計は無かった。1分経ったかもしれないし、5分経ったかもしれなかった。彼女は続きを、つまり、僕の投げかけた問いに対する何らかの回答を喋り出そうとはしなかった。僕の打った会話のテニス・ボールは、僕と彼女のあいだで宙ぶらりんのまま留置されていた。それは不穏な光景だった。僕と彼女はそのあいだ、何度かカップを持ち上げてはちびちびと紅茶をなめるように口に含み、再びテーブルへ置いた。彼女の目は真っすぐ正面に注がれ、そこから動かなかった。僕も彼女の視線を追って正面を見た。おそらく本物の暖炉(長いあいだ使われてはいなさそうな)がひとつあった。それだけだった。それ以外には何もなかった、何も……。

 僕は姿勢をちょっと変えた。床板がみししし……とあえいだ。そして部屋はふたたび静かになった。とても静かなところだった。車の音も、周りの住民たちの生活音もしなかった。本当に、誰もいないように静かだった。彼女がスン、と小さく鼻を啜った音がやたらと響いた。僕が彼女に向けて放ったテニス・ボールは「僕はいったい、これから先どうすればいいんだろうか?」という顔をして、いたたまれない様子で、いまだ僕と彼女のあいだの形而上的なネットの上に浮かんでいた。

 年老いた象がゆぅっくりと横向きに倒れるように時間が過ぎ、部屋は、誇張無しに、暗くなっていった。

 その長い沈黙を経て、ねぇ、と彼女は言った。

「あなた、子どもは何人くらい欲しい?」

 フワーォ。

 僕の放ったボールはシャラポワも悲鳴をあげるほどの急角度で僕のコートへと返ってきた。そして彼女は、僕が球を打ち返すのにまごついているあいだに二球目を打ち込んできた(そんなテニスあるか? しかし、彼女は本当に打ち込んできたのだ)。

「私は一人。ひとりでいいの。女の子よ。素直で愛らしくて、本当に良い子を、ひとりだけ。とても大事に育てるのよ。愛情をこめて、命をかけて。私の持っているものをすべて、その子にあげるの……。

 あなた、ご兄弟はいる? 私はひとり。一人っ子なの。父と母は私のことをとても愛してくれた。本当に素晴らしい人たちだったわ。私は満ち足りて、幸福だった。きっと世界一幸せな子供に違いないって思ってた。本当よ? 本当に、本気で思ってたの。

 ある日、ああ……忘れもしない、つまり、その日は私の10歳の誕生日だったのだけれど、それで、学校から家に帰ると、父と母が真剣な顔をして、テーブルに向かい合って座っていたの。ふたりとも俯いて、怖い顔だった。私は聞いたの。どうしたの、一体? って。しばらくしてから、父が私を見てこう言ったわ。「今日は、皆で絵を見に行こう」って。どうして? 何の絵を見に行くの? ってたずねると、母は、うぅっ、と肩を震わせた。俯いていて、顔は見えなかった。

 それから、私と、父と母と、父の運転する車に乗ったの。不思議なんだけど、どこをどう走ったのか、まるで覚えてないの。例えば、いくら子供の頃の出来事だといっても、断片的に覚えているものってあるでしょ? それが特別な日ならなおさらに。それは道沿いの建物だったり、その日の天気だったり、車内での父と母の様子だったり、カーステレオから流れてきた曲だったり……でも駄目なの。何一つ思い出せないのよ。不思議ね。

 それで、気が付いたら、私は父と、母と、一緒に部屋にいた。どんな部屋だったか? と聞かれると、やはりそれも覚えていない。本当に、ただ一つだけを除いては、何一つ思い出せないの。

 そして私たちはその絵の前にいたの。

 私は、その絵を見たわ。

 その絵を」

 その絵を、その絵を、その絵を、その絵を……その絵を。

 そこまで言うと、彼女はぴっちりと口を閉ざした。陽はほとんど沈みかけて、部屋はますます暗くなっていた。彼女がどんな表情をしているのか、影になっていて良く見えなかった。僕はカップに残った紅茶を飲んだ。底のほうで溶け切っていなかった砂糖が、舌の上でざらざらと音を立てた。

「私は幸せな子供だった。私は幸福だった。私は愛されていた。私はプレゼントに何を受け取ったのかしら?」

 ごくり、と生唾を飲み込む音。僕の喉からだ。その音は馬鹿なサウンドエンジニアが仕込んだみたいな、馬鹿みたいにオーバーなリバーブが掛かって響いた。脇の下が、汗でじんわりと冷えるのを感じた。

 それで、と、なるべく穏便に、何でもないようにたずねようとしたのだけれど、喉が渇いて張りついて、代わりに掠れた音が出た。紅茶はもう無かった。ごくりと、もう一度つばを飲み込んだ。

 それで、それから、どうなったの?

 彼女がこちらを見た。濡れた長いまつ毛と、とろとろとした黒い瞳。

 微笑んだ。

「絵を見に行きましょう」


 階段を上がった先の二階の床板は、踏むたびにきぃ・きいいと甲高い声でよがった。廊下は真っ暗で、ほとんど視界が取れない。窓の鎧戸のわずかな隙間から、昼の最後の残り滓が洩れ入って、反対側の壁に弱々しい線を描いていた。その線上に塵が舞っているのが見えた。ライトをつけようとスマート・フォンを取り出す前に、闇の中から、彼女の右手の白い五本の指が伸びてきて、僕の左手の指のあいだにするすると絡みついた。手はそのまま、僕を廊下の奥へと引っ張っていった。

 突き当りの扉を開けて、僕たちはその部屋に入った。部屋の左側の窓は開いていて、そこから外の風が吹き込んで灰色の分厚いカーテンを揺らしていた。部屋はだだっ広く、何もなかった。いやひとつだけ、丁度正面の壁の手前にイーゼルがあり、そのうえに大きなキャンバスがのっていた。僕の背丈くらいありそうなキャンバスだ。それは薄汚れて、やや黄ばんだ布に覆われていた。

 それは絵だった。

 尾骶骨から背骨にかけて、ぞり・ぞりと、多足類然とした悪寒が走り抜けた。足元の床板がみししし、と呻いた。僕の左手からは彼女の右手の指が離れないでいた。喉仏のうえを、冷たい汗がたらりと流れ落ちていった。足の裏は本当に床を踏んでいるのだろうか? なんだか妙にふわふわとしていた。

 しかし、絵なのだ。確かに、すごく奇妙ではあるけれど、絵を見るだけなのだ。それだけなのだから。きっと。

 やわく締め上げられていた左手から、彼女の右手の指が離れた。僕は静かに左手を握り、開き、握り、その感覚を確かめた。だいじょうぶだ、僕はここにいる。そして絵を見て、それで全部終わりだ。ウチに帰って、缶ビールをニ、三本飲んで、そして眠る。終わりだ、終わるのだ。

 彼女は絵に向かって歩き出した。部屋の中はぼんやりと濡れたように明るい。窓の外からの光……月が出ているのだろうか? ああ、とても大きな月、満月だった。もう、そんなに時間が経ったのだろうか?

 彼女が絵の隣に立ち、キャンバスに掛けられた布を掴み、引っ張った。するすると布が床に零れ落ちた。

 絵が露わになった。


 *


 彼女は僕の奥さんになった。初デートからちょうど一年後のことだ。ほぼ同時に、僕自身が父親になることを彼女から知らされた。口の中に火薬をたっぷりとまぶして、勢いよく奥歯を噛み締めた時のような笑顔で、彼女が僕に告げたのだ。

「きっと女の子よ」

 彼女は言った。わかるのよ、と。そして笑った。抗いがたい、引き込まれるような笑顔。僕も笑い、彼女の髪を撫で、そして抱き寄せた。

 僕たちは夫婦になり、そして妻の言う通り、女の子が生まれた。娘は多くの部分で母親に似ていた。つまり、とても美しかった。

 あっという間に10年が過ぎた。娘は9歳で、もうすぐ10歳になる。僕と妻も10年分、歳を取った。僕について言えば、多少下っ腹のあたりに貫録がついたのと、頭髪がややすっきりしたくらいで、それ以外はおおむね変わりなかった。妻は……僕の口から言うのは控えよう。いくら言葉で説明しても、毎年のボジョレーヌーヴォーの売り文句のように軽薄で、その実態からは大きく乖離したものになってしまうから。しかし信じがたいことに、彼女はボジョレーヌーボーの惹句さながらに、年を追うごとに美しくなっていったのだ。

 娘はもうすぐ10歳の誕生日になる。つまり、僕が絵を見てからもうすぐ11年経つ、ということだ。

 この頃、僕はあの絵について思い出す。忘れていた訳では無い。ただ思い出さなかっただけだ。あるいは思い出したことを忘れていただけだ。そして思い出さなかったことも、思い出したことを忘れていたことについても、僕自身、なんの違和感も抱かなかっただけだ。いや、抱けなかったと言うべきだろうか。今もこうして絵について考え、僕は僕自身に警句の矢を放つ。今すぐ、あの絵のことを妻に問い質さねばならない、と。あるいは妻の10歳の誕生日に、いったい何があった? と。

 きっとこのことも、すぐに忘れてしまうに違いない。問い質すことを? 違う。なぜ問い質さねばならないか? ということをだ。風も波も無い、ひどく静かな早朝の湖面に、小石をひとつだけ落とす。波紋がゆっくりと広がり……消える。そんな風に忘れてしまう。それはフェラーリの内燃機関のようになめらかで、出っ張りも、とっかかりもなく、僕自身の意識の奥にするりと滑り落ちていく。思い出せなくなる。

 イニシェリン、とかつて妻は言った。今となっては懐かしい映画だ。組み込まれていて、抜け出せない。抜け出すという選択さえ思い浮かばない。なぜならそれは見えない。認識できない。

 僕は賭けに負けたのだろうか? 僕は何を差し出し、そして何に組み込まれたのだろうか?


 絵の中に描かれていたのは、ある部屋の風景だ。

 その部屋の奥には一枚の大きなキャンバスがある(つまり、キャンバスの中のキャンバス、ということ)。キャンバスの中には三人の人物が描かれている。恐らくは三人家族。写真館で、何かの記念に撮られた写真みたいな感じの絵。父親がいて、母親がいて、あいだに女の子がひとり。9歳か、10歳くらいに見える。母親は長い黒髪で、そして胸がとても大きい(オリジナルのエイリアンに出てきた、あの異星人(スペースジョッキー)の死体くらいに。または本州のうえに重ねた北海道くらいに)。父親は、平凡で冴えない。が、心底幸せそうに見える。

 娘と思われる女の子は多くの点で母親にそっくりで可愛らしい。きっと父親と母親は彼女のことをとてもよく愛していて、彼女自身もそれを理解している、彼女はきっと、自身のことを世界一幸せな子供に違いない、と本気で思っている、そんな風に見える。

 絵の中の、三人家族が描かれたキャンバスの隣には女がひとり立っている。レギュラーカラー・シャツとロング・スカートを着ていて、長い黒髪で、胸が大きい。彼女の手には薄汚れて黄ばんだ布の端が握られている。床に零れ落ちた布の具合と、彼女の手の位置を見るに、おそらく、つい先ほどまで、三人家族が描かれたキャンバスは布で覆われていて、それをこの女が取り払ったように見える。

 部屋にはもうひとりいる。男だ。二十代の後半だろうか? ベージュのシャツと、ねずみ色っぽいくすんだスニーカー。彼は突っ立って、どうやら正面の、三人家族の肖像画を見ている。

 部屋全体は薄暗い。絵の左側に窓があるのだろうか? そこから濡れた光が差し込んできている。

 あの日、僕が見たのはそのような、本当にどうということはない絵だったのだ。

 そしてあの絵についてたびたび思い出すたびに、僕はある確信を得、それを強くする。けれどもその確信は、放った小石が水の底の泥の中に沈み込むように、他の記憶や考えと見分けがつかなくなる。

 確信とはつまり、こういうこと──あの日、あの部屋の、あの絵に描かれていた家族とは、いま現在の僕と妻と娘である──だ。ただ一度しか見ていないはずなのに、絵について思い出すたびに、あの日から遠ざかるほどに、それはますます確固とした考えになっていく。あるいは僕の想像が、記憶の中の、あのキャンバスの中の家族の肖像画を、何度も塗り直しているのかもしれない。もはやそれを確かめる方法は無いし、手遅れだと僕は思う。もう遅いのだ。僕は組み込まれている。おそらく妻自身も、僕と出会うずっと以前から組み込まれている。

 娘はどうだろうか? 娘はここから抜け出すことは出来るのだろうか?


 *


 キャンバスの中には「部屋の中、イーゼルの上に立てられた三人家族の肖像画を見る若い男と、その肖像画の傍らに立つ女」が描かれていた。キャンバスの中の肖像画の母親らしき女も、その傍らに立つ女も、そしていま、現実にこの部屋にいて、二人の女が描かれたキャンバスの傍らに立つ彼女も、長い黒髪で、そして胸がとても大きかった。彼女(つまり、現実の・絵の外にいる彼女)が、僕を見てニッと口角をあげた。

 それを見た瞬間に僕は確信した。この三人の女は同じ人物なのだ、と。そして同時に、肖像画の父親と、その肖像画を見る若い男と、その二人を見ている(現実の)僕もまた、同一人物なのだと、僕は確信した。

 つまり、今目の前に見えるキャンバス、の中のキャンバスに描かれたあの三人家族は、僕と彼女、そして恐らくはやがて生まれてくる僕たちの娘なのだ、と僕は確信した。確信というよりは理解そのものに近かった。それは、全く持って第三者に伝えられるような手合いのものではないのだけれど、あの時、あの部屋において、それは揺ぎ無く疑いようのない事実で、この世界を支える基盤そのもののように盤石だったのだ。

 キャンバスの隣に立つ、現実の彼女はこちらを見ている……が、僕を見ている訳じゃ無かった。彼女は”こちら側”を見ていた。瞳の底で、コーヒーのように黒い液体がとろとろと渦巻いていた。

 この絵は奇妙だ、と僕は思った。

 この絵には、「今、この部屋で、この絵を見ている僕」が描かれていた。どういう理屈なのか全く分からない、だけど現実にそうなのだ。

 そして、この絵は「僕の背後から」、具体的にはこの部屋の入口近くからの目線で描かれていた。

 “この絵は誰の視点から描かれている”のだろうか?

 きぃ、きししし、と床板があえいだ。僕の足元では無かった。僕の背後から、その軋みは聞こえてきた。彼女はそれを見て、とろとろと笑っていた。


 *


 娘はもうすぐ10歳になる。

 僕はいま、とても幸せだと思う。妻はずうっと美しく、魅力的で、そして胸が一際大きい。

 妻は時折静かに笑う。僕の背後で床板が軋む音がする。

 彼女の瞳の底で横たわる、とろとろとした黒いものが、もうすぐ、はっきりと見えそうな気がしている。

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絵画、または精霊 惑星ソラリスのラストの、びしょびし... @c0de4

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