第46話 奇跡

 

 奇跡が起きたと思った。


 比良坂すずの中に、別の人間の記憶がある。


 もしやと思った。

 だって、あれだけ少女然としていた比良坂すずが、自分のことを『僕』だなんて呼ぶのだ。


 彼女が大部屋へ移ったのを見計らって、俺は彼女に会いにいった。

 看護師や見舞客が他にいないのを確認して、ベッドを囲むカーテンの隙間からそっと中の様子を窺う。


 どんな言葉をかけるべきかも考えず、ただ逸る気持ちのままそうしていた。

 だから、中にいる彼女と目が合ったときは心底焦った。


 彼女は少しだけ驚いたように目を丸くして、けれど悲鳴を上げたりはせず、じっとこちらの顔を見つめ返していた。


「……俺のこと、わかる?」


 気づけば、俺はそんな言葉を口にしていた。

 声が震えて、不自然ではなかっただろうかと不安になる。


「その、ごめんなさい。今は、事故のせいで記憶が」


 比良坂すずはそう言って、申し訳なさそうに黙り込んだ。

 どうやらまだ彼女自身も混乱しているらしい。


 そりゃそうだ、と思う。

 彼女は昏睡状態から覚醒したばかりで、自分の置かれている状況を受け止めるのにも戸惑っているだろう。

 年上の男がいきなり病室を訪ねてきて、怖がらせてしまったかもしれない。


 けれど、もう少しだけ、彼女と話がしたかった。

 警戒されるかもしれないと思いつつも、俺は彼女の方へ足を踏み出すのを止めることができなかった。

 静かにカーテンを開け、ベッドの方へ歩み寄る。


「記憶喪失になったって聞いたけど、本当だったんだな」


 白々しくそんなことを言いながら、俺は彼女の前に立った。


「あの。あなたは、僕とどういう関係なんでしょうか」


 彼女に聞かれて、俺は迷った。

 素性を明かしていいものか。

 俺は比良坂すずの個人情報を秘密裏に探ってここへ来た。病院側にバレればどんな処分を受けるかわからない。


「俺は……キミの通う学校の教師だよ」


 咄嗟に、そんな嘘を吐いた。

 クラスの担任ならばこうして見舞いに来てもおかしくはない。


 しかし、実際に本物の担任がここへ現れたときには彼女が混乱してしまう。

 なんとか辻褄を合わせなければと焦った俺は、


「……今は担任じゃないけど、前に受け持ったことがあったから」


 などと、回りくどい言い方でカモフラージュした。


 怪しまれただろうか——と危惧する俺には構わず、彼女は至極真面目な顔で、俺の言葉を受け止めていた。


「教師……。そっか。それでがあったんだ」


「え……」


 見覚え。


 俺の顔に、彼女は見覚えがあるという。


 比良坂すずとは面識のない俺を、いま目の前にいる『彼女』は知っている。


「何か、思い出したのか?」


「あ、いや。なんとなく見覚えがある気がしただけで。具体的なことは何も思い出せないんですけど」


 どうやらまだはっきりとは思い出せていないらしい。


 けれど俺は、これで確信した。


 この比良坂すずの体には今、愛崎美波の魂が宿っているのだと。


「比良坂さーん。ちょっと失礼しますねー」


 と、今度は別の声がカーテンの外から届いた。

 サバサバとした女性の声。

 こちらの返事を待たずに、女性は問答無用でカーテンを開けた。


「あら! ごめんなさい。取り込み中だった?」


 現れた看護師の女性は、しまった、という仕草で口元に手を当てた。


「ああ、いえ。大丈夫です。もう帰るところでしたので」


 あまり顔を見られるのはまずい。

 俺は精一杯の愛想笑いを浮かべながら、そそくさとベッドを離れる。


「待って。あの。……先生の、名前は?」


 比良坂すずに呼び止められて、俺は思案した。

 ここでは偽名を使うべきかもしれない。


 でも。


 俺の名前を聞けば、彼女は何かを思い出してくれるんじゃないか——そう思うと、とても偽名なんて使う気にはなれなかった。


「井澤だよ。井澤凪」


「井澤……先生」


 先生、と彼女に呼ばれるのはこれで二度目だったか。

 一度目に呼ばれたのは、もう十年以上も前のことだ。

 将来は医者になるかもしれないと言っていた俺のことを、美波は茶目っ気を含んだ笑顔で『井澤先生』と呼んだのだ。


 彼女が俺の前だけで見せていた、イタズラっぽい笑みを思い出す。


 懐かしさで胸が溢れて、視界がぼやけそうになって。


 俺は逃げるようにして、その場から離れた。

 

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