第42話 脳と心臓

 

          ◯



 病院の中はいつだって消毒液のにおいがした。


 このにおいに当てられる度に、俺はどうしても死の気配を感じてしまう。


 病院というのは怪我や病気を治療する場所ではあるけれど、それと同時に、人の最期を看取る場所でもあったから。




 全身ずぶ濡れのまま院内に入ると、顔見知りの看護師からすぐに清潔なタオルと着替えを渡されて、そのまま手術室の方まで案内された。


 どうやら急患として病院に運ばれてきたのは、交通事故に遭った一人の少女のようだった。

 雨で視界の悪い中、赤信号の交差点に急に飛び出してきたという。


 車に撥ねられ、全身に擦過傷ができていたものの、幸い骨に異常はなく、出血の量も大したことはなかった。

 しかし頭の打ち所が悪かったらしく、未だ意識は戻っていない……。


 そんな説明を受けながら、俺は辿り着いた手術室で件の患者と対面した。


 手術台の上で静かに目を閉じていたのは、小麦色に日焼けした肌を持つ、愛らしい顔をした少女だった。

 体の大部分が青い布で隠されていたので、ほとんど顔の部分しか見えなかったが、その姿は見間違えるはずがない。

 俺が捜し求めていた、愛崎美波のものだった。


「美波……どうして」


 手術台に寝かされた彼女の口と鼻には、酸素を送るための管が通されていた。

 これが見知らぬ患者なら、俺にとっては子どもの頃から何度も見たことのある光景だった。

 けれど、いま目の前にいるのは他でもない美波なのだ。

 まるで現実味のないその光景に、俺は呆然と立ち尽くしていた。


「その子はやっぱり、お前の知り合いなのか」


 いつのまにか隣に立っていた父が、俺にそう確認した。


「……うん。友達だよ。美波は俺の……大事な友達なんだ」


 声が震える。

 自分で言いながら、『友達』という響きがなんだか虚しかった。

 俺はどうしたって、彼女と友達以上の関係を築くことはできなかった。


「意識は……美波の意識は戻るんだよな? 外傷は大したことないって、さっきも言ってたし。今は麻酔で眠っているだけなんだよな?」


 縋るように俺が聞くと、俺の視線を受け止めた父は、わずかな躊躇ためらいの後に首を横へ振った。


「残念だが、この子の脳はすでに機能している気配がない。心臓はまだ動いているが、いずれはそれも停止するだろう」


 父の言ったことが、すぐには理解できなかった。


 脳が機能していない。

 心臓もいずれは停止する。

 それはつまり、


「……死ぬってことか? 美波が?」


 まるで熟睡しているようにしか見えないこの少女が。


 傷も大したことはない、四肢がもげたわけでもない、内臓が外へ飛び出したわけでもない。

 今までこの病院で目にした患者の中には、もっと酷い怪我を負いながらも、じきに回復していった人間も多くいたというのに。


「嘘だよ。だって……心臓はまだ動いてるんだろ?」


 足が震えて、その場に崩れ落ちそうになる。

 そんな俺とは対照的に、父は至極冷静に言った。


「脳の機能が停止して、すでに脳波もない。今のこの子は、ほぼ間違いなく脳死状態にある。それが意味することは、お前ならわかるだろう?」


 脳死状態。


 美波の脳が、死んでいるということ。


「脳が死ぬということは、体の全ての機能が停止するということだ。自発呼吸もできなければ、臓器を働かせることもできない。……人工呼吸器を使えば、しばらく心臓は動いているだろう。けれどそれも長くはもたない。数日のうちに、この子の心臓は完全に止まる」


 心臓が止まる。


 美波が死ぬ。


 信じたくなかった。


 だって美波は、いつも俺と一緒にいた。

 小学生の頃から。


 最近は会う回数が減っていたけれど、それでも休みの日には一緒に出かけていたし、今度の花火大会だって、ずっと前から一緒に見ようと約束していたのに。


「美波……嘘だよな?」


 彼女の、俺にだけ見せるイタズラっぽい笑顔で「冗談でした」と言ってほしかった。

 事故なんてなかった。全部がただの演技で、さすがは演劇部のリーダーだと拍手を送ってやりたかった。


「何か……何か手はないのかよ。父さんは医者だろ? 医者は患者を救うためにいるんじゃないのかよ」


 目の前の命も救えなくて、何が医者だ。


 俺にあれだけ勉強して医者になれと言っておきながら、自分はこんな簡単に患者の命を見捨てるなんて。


「医者は神様じゃない。医療にも限界がある。お前もいずれ医者になるつもりならわかっているだろう。辛いとは思うが、今は耐えてくれ」


 それから父は俺に、美波の家族への連絡先を聞いてきた。

 どこまでも事務的な作業で、まるで他人事のようなその対応が、俺には信じられなかった。


「なあ。助けてくれよ。頼むから」


 美波を殺さないでほしい。


 まだ心臓は動いているのだから。


 そんな俺の思いに応えてくれる人間は、この病院の中にはいなかった。

 

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