第12話 君が望むなら

 

 彼は返事をする代わりに、ふっと息を吐くようにして笑った。

 そして、


「知りたいか?」


 改めて、こちらに尋ねる。


「キミが望むなら、俺は俺の知っていることを全てキミに伝えよう。けれど、後悔するかもしれないぞ。それでも知りたいのか?」


「……そんなの」


 後悔するかもしれない、なんて言われても、どうすればいいのかわからない。

 そもそもこちらには判断材料がないのだ。

 過去のことを何も思い出せない以上、『知りたい』という欲求以外に背中を押すものはない。


「知りたいに決まってるじゃないですか。自分が誰だかわからないなんて、こんな気持ち悪い状態はなかなかないですよ。ぼくが比良坂すずじゃないというなら、ぼくは、一体誰なんですか?」


 井澤先生はスラックスの尻ポケットからスマホを取り出すと、軽く操作してから画面をこちらに見せる。


「この場所に見覚えは?」


 彼がそう言って示したのは、一枚の風景写真だった。

 どこかの川を撮ったものだ。

 青々とした山をバックに、穏やかに流れる川の上を細い橋が横切っている。

 橋はかなり簡素なもので、手すりすらない。


「ここは……」


 どう見ても田舎の風景だった。

 およそこの病院から見える景色とは似ても似つかない。

 どこかの山間部にある川原だろうか。


 おそらくはここから離れた場所。

 であるはずなのに、なぜか、うっすらと見覚えがあるような気がする。


「この橋、なんだか知っているような気がする。ここは、どこなんですか? なんでぼく、ここに見覚えが——」


「この場所に行きたいか?」


 再び質問が飛んできて、思わず顔を上げた。

 すると、目の前に立つ彼はどこか寂しげな瞳でこちらを見下ろしていた。


「明後日になったら、俺はこの場所に向かう。もしキミが一緒に行きたいというなら、連れていってもいい。当日の朝に、この病院の前で待ってるから」


 彼はそれだけ言うと、さっさとスマホを仕舞ってきびすを返す。

 今はこれ以上話せないということだろうか。


「ま、待って。どうしてそんな回りくどいことをするんですか。どうせ教えてくれるつもりなら、今ここで話してくれたって」


「キミはまだ何も思い出せていないんだろう? もしかしたら、『本当のキミ』は思い出すのを嫌がっているかもしれないじゃないか」


 ぼくが、思い出すのを嫌がる?


 あるのだろうか。そんなことが。


「キミが心の底から記憶を取り戻したいと思っているのなら、きっとあの街へ行けば自ずと思い出すだろう。明日一日、どうするか考えてくれ。明後日の朝六時に、俺はここを出発する」


 それじゃ、と軽く手を振って、彼は病棟の角を曲がっていった。


 その場に一人残されたぼくは、それまで無意識のうちに張り詰めていた気持ちを解く。

 じんわりと熱気を含んだ風が肌を撫でる。

 夕焼け色に染まった空のどこかで、ヒグラシの声が響いていた。

 

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