第33話
――僕はもう、大丈夫だから。助けてくれて、本当にありがとう。
タクシーで帰ると言ったが宗市は聞かず、私と有慈を駅まで送り届けて礼を言った。
自覚が足らず本当に大丈夫なつもりでいるのか、私達に迷惑を掛けないように言ったのか。どちらかだろうが、どちらにしたって好ましいことではない。
「私、しばらく様子を見に通っても構いませんか。今回のことを話せる相手は、ほかにいないですし。愚痴でもなんでもいいから話して外に出さないと、気持ちが内にこもってしまいそうで。姉のせいで、これ以上苦しんでほしくないんです」
列車が駅を離れた辺りで、早速切り出す。行きと同じく通路側を選んだ有慈は、私を一瞥したあとで溜め息をついた。
「本人がいいと言っているのだから、手を出すな。深入りが必ずしも救いになるとは限らぬ」
「でも、ずっと姉のせいで」
「悪いのは姉であって、お前ではないだろう。あの男に罪がないように、お前にも罪はない」
「それは、そうですけど」
それは分かっているのだが、知らなかったとはいえきつく当たったし、地獄堕ちを願ってやまなかった。このまま何もしないでいるのは、罪悪感が疼いてしまう。
有慈は間にある肘掛けに頬杖を突き、納得しない私をじっと見つめる。それなりに大変だったはずなのに、美貌には一切の疲れが見えない。くまはおろか目元に影すら落ちず、肌もぴんと張ったままだ。今更だが、あと数年で五十を迎えるとは思えない。不死はともかく、不老はありえるのではないか。
「なんだ」
「ああ、いえ。相変わらずお美しいなと思って」
私の答えに有慈は苦笑し、前を向く。
「呪いにより歪められていた愛情の流れが、本来の流れに戻ったのだ。私を捨てて行く覚悟がないのなら、違う苦しみを与えることになるだけだからやめておけ」
ああ、そうか。今頃気づいたことに、私も向き直って前を見る。
本来の流れに戻るということは、私への愛情が復活したということだ。宗市本人は、当然分かっていただろう。呪いで無理やりほかの女を愛させられ、元に戻ったと思ったら、かつての恋人はほかの男と結婚していたわけだ。それは、耐えられる痛みなのだろうか。
「未練があるか」
「いいえ。ただ、心配なだけなんですが」
私から宗市への愛情は、確かに無理やりではあったが、その時に断たれて終わった。今あるのは同情と罪悪感であって、男女間のそれではない。確かに、その気のない私が近づくのは、宗市にとっては酷なことだろう。
「でも、そうですね。酷なことはしたくありません」
溜め息をつき、窓際に凭れて流れる景色を眺める。胸に燻る罪悪感は、私が自分でどうにかするしかないのだろう。「知らなかったのだから仕方ない」と割り切れたら楽だが、そううまくいくものではない。私は、瑞歩とは違う。
「今回、形となって現れた姉の呪いに触れて確信したが」
静かな声で切り出した有慈に、視線をやる。まだ、何かしでかしていたのか。
「お前の体調不良のほとんどは、姉の呪いによるものだ。おそらく寿命を捧げて願を掛け続けたのだろう」
思いもしなかった見解に、思考が止まる。姉の……つまり瑞歩の、呪い?
「病院でお前に会った時、私はお前の体から全ての不調を取り除いて守りを与えた。呪いが理由なのは知れたが、あの場で解呪はできぬからな。それでも、何もなければ十年は穏便に過ごせるはずだった」
有慈が私を見ないまま冷静な声で続けるせいか、私の胸も妙に落ち着いていた。まだ思考が追いついていないせいもあるのだろう。話されている内容の半分も理解できているかどうか、分からない。
「しかし二度目に会った時、お前は更なる呪いを掛けられていた。呪いの総量が私の与えた守りを上回る状態だった。おそらくお前の姉は、将来の我が子以外にも何度か寿命を犠牲にしてお前を呪っていたのだろう。自分が何を捧げているのか自覚せぬまま、軽んじてな。今回の自殺は、寿命と言っても良い」
ようやく追いついてきた鈍い頭で、これまでのところを反芻して理解していく。じゃあ、そのままなら八十過ぎまで生きたとして、そのうちの五十年を私を呪うために捧げたのか。
「じゃあ、私を呪うために命を懸けたのではないと?」
「いや、呪いが上書きされている状態から見て、それは確かだろう。天が摘む前に己で摘んで、最期の呪いを掛けたのだ」
尋ねたあとで少し的外れだった気はしたが、有慈は答えて、上着の内ポケットからピンポン玉ほどの大きさになったあの球を取り出す。厳重に御札に覆われているが、禍々しい雰囲気はそのままだった。そこに封じられているのは「宗市が私に掛けた呪い」と「瑞歩が宗市に掛けた呪い」だから、瑞歩が私に掛けた呪いは、まだ生きている。
「これまでお前に掛けられていた呪いは、不幸を望むものであって死を望むものではなかったはずだ。死は、命に見合うものを必要とするからな。ただ最期の呪いは、死を以って死を望んでいる」
有慈は取り出した球を眺めつつ、続ける。
寿命を掛けてまで私の不幸を願い続け、最期には命を犠牲にして私の死を願った。
「私は、どうしてそこまで姉に憎まれたんでしょうか」
「それほど珍しい話ではないだろう」
暗澹とする私に返す有慈の声は、相変わらず冷静だった。
「お前の姉は、幼い頃からお前を自分より下に見ていたはずだ。それが一転して、お前より下に落ちたと思える状況になった。耐えられぬ屈辱だろう。ただそこで、真っ当な者なら己の力で越えようとする。でも真っ当でない者は、上にいる者を落とすことで自分が上がろうとするのだ。姉がどちらだったのかは、明白なことだろう。何が最期の呪いのきっかけになったのかは、分からぬがな」
瑞歩にとって、他人の人生は「自分のためにあるもの」だった。自分が思いどおりに生きていくために、平気で周囲を踏みつけていく。私と宗市のほかにも、きっと犠牲者はいたはずだ。
「姉の呪いは、解けていないんですよね?」
「ああ。ただこれまで呪いが形になって結界内に現れていたのは、あの男がお前に遺骨を食わせていたからだ。姉の呪いは、それを依り代にして発現した。しかし拮抗のおかげで成就はしなかったし、これ以上遺骨を食わされることもない。もう結界をくぐって現れはせぬだろう」
安堵はしたが、どことなく違和感のある答えだった。
「解呪、しないんですか」
「死を望む呪いの解呪は、そう簡単にできるものではない。呪いの強さももちろんだが、今回のように掛けた者が死んでいる場合は情報が少ないからな。情報が多いほど、解呪は容易くなる。逆に言えば、少なければ解呪は失敗しやすいということだ」
確かに今回、有慈は宗市と話をして情報を収集していた。最初に一時中断したのも、危ういと察したからだろう。でも、それなら私は、一生これを背負い続けて生きていかなければならないのか。それでも、生きていけるものなのか。
「解呪しなくても、問題はないんですか」
なんともないのなら、気にしないようにすればいいだけのことだ。でも、問題が出てくるのなら、またあんな風に瑞歩が出てくるのなら、怖い。
有慈は呪いの球を再び内ポケットへ戻してから、不安に満ちた私を見る。少し考え込むような表情を浮かべたあと、視線を合わせた。
「実は、これまでお前が背負ってきた呪いも、解呪したわけではない」
驚いて、え、と小さく声を上げる。でも、言われてみれば確かにそうだ。私は、呪いを背負っていたことすらさっきまで知らなかった身だ。それらしき儀式なんて、記憶にはない。守りを超えるほどの呪いがずっと私の身を覆っていたのなら、飯山が誤解したのも頷ける話だ。
「確かに、そうですね。さっきのような儀式は、一度も受けたことがありません。じゃあ、どうやって」
「全て、私の力で抑えているのだ。下手に解呪を手掛けて失敗すれば、お前の身が危うい。それなら結界と私の力で守り続ける方が、健やかに暮らせると判断した」
予想もしなかった対応に、再び驚いて固まる。結婚してからなら九年、出会ってからなら十年だ。でも、一度だって匂わせたことはなかった。
「どうして、言ってくれなかったんですか」
言ったところで私にどうにかできるものではないが、与えられているものへの感謝はできる。既に体調面では守りを与えてくれていたのだから、ついでに言えば良さそうなものなのに。
「私はお前に恩を売りたいわけではないし、崇め奉られたいわけでもない」
有慈は少し間を置いたあと、視線を落として言葉を濁した。黙っていて叱られるような理由でもないのに、まるで子供のようで苦笑する。
改めて窺った周囲は、向かいにも前にも後ろにも乗客はいない。平日日中の指定席車両なんて、こんなものだろう。
間にある肘掛けを収納してすぐ傍に座り直し、手を握る。
「あなたが灯火教の神様だと知る前から、あなたは私の神様でした。今も、灯火教の神様である前に、私だけの神様だと思ってます。それは大丈夫ですか」
有慈は、ああ、と短く返して手を握り返した。
「これまでの体調不良が全部姉のせいだったと思うと、それほど憎まれてたんだと思うと、なんとも言えないものが湧いてきます。でも、あなたがずっと守ってくれていた嬉しさやありがたさの方が強いんです。だから、感謝はさせてください。私にできることは、それくらいしかないんですから」
瑞歩が病んだのは、あれほど愛情を寄せてくれる宗市が「本当は自分を愛していない」ことに耐えられなくなったからかもしれない。どんなに愛の言葉を連ねられても、抱き締められても、全て嘘だ。将来授かるはずの我が子を犠牲にして、得たのは偽物の愛だった。
実際のところ、瑞歩が宗市をどれくらい愛していたのかは分からない。でも一番傍にいる相手と本当の意味で心を通わせられなかったのは、地獄だったはずだ。
瑞歩のことだから、全ての原因を私に押しつけて呪って死んだのだろう。自分の過ちを認めてやり直せる人間なら、きっとまだ生きていた。
手を握って安堵したら疲れが出たのか、なんとなく眠くなってくる。
「疲れているのだろう。眠ればいい」
隣から聞こえた眠りを誘う声に、頷いて素直に目を閉じる。有慈の肩に頭を預け、吸い込まれるように眠りに落ちた。
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