第32話
有慈は、片付けたダイニングテーブルの上に水と塩と酒を置き、最後に御札を並べる。大きさはさまざまだが、どれも流麗な毛筆で何か書いてある。中には朱色で書き込まれているものもあった。
「ここに座れ」
広いスペースに椅子を置き、宗市に指示を出す。宗市はのろりと腰を上げて、大人しくその椅子に座った。解呪の儀式を始めるのは理解できたが、以前は荷が重いと話していた。既に半分は解けているようだから、大丈夫なのだろうか。
有慈は髪を解いて目を閉じ、精神統一をするかのように間を置く。やがてゆっくりと目を開くと、小さめの御札を手に取った。何かを唱えながら手を濡らした水を宗市に向かって払い、額に御札を貼る。不意に、宗市の体がぐにゃりと異様な動きをした。
「お前、呪いが働いているな」
有慈は、貼りつけたばかりの御札を剥がして宗市の顎を持ち上げる。覗き込むようにして、宗市の目を確かめた。
「どういうことですか」
「この男に、まだ生きた呪いが掛かっている。今回の呪いと連鎖しているから、そちらも解かなければ片手落ちだ」
考えたこともなかった状況に戸惑い、ただぼんやりとしている宗市を見る。呪いを掛けた宗市自身に、呪いが掛かっていたということか。掛けたのは当然、瑞歩だろうが。
「今回の呪いに連鎖する呪いだから、『死んだ妻を蘇らせる呪いを掛けるような精神状況を作り上げた呪い』だ。つまり、この男が『妻を狂おしいほどに愛している』という状況だな」
有慈は腕組みをして、溜め息をつく。あっさりと言われたが、頭がついていかない。それでも、心の奥底からいやな予感が勢いよく湧き上がってくるのが分かった。
「この男が妻に惚れたのは、呪いによるものだ。おそらく、死ぬまで自分を愛し続けるようにと願ったのだろう。しかし人心を操るには、かなりの犠牲が必要だったはずだが」
考え込むように顎をさする有慈は犠牲となったものを気に掛けているようだが、私はそれどころではない。運命を歪められたのは、宗市だけではない。
「じゃあ、この人は心変わりをして、私を裏切って、姉を選んだわけではないのですか」
「そういうことだ。この男は、お前に注いでいた愛情の流れを呪いで捻じ曲げられ、姉に注ぐように仕向けられただけだ。責はない」
突然与えられた無罪の宣告に、心がついていかない。
確かに、確かに突然の心変わりではあった。私が鈍くて気づかなかったのだろうと悔いていたが、本当に、そんなものはなかったのだ。
――宗市は、私を好きになっちゃったんだってぇ。
全ては瑞歩が私から宗市を奪うために、「私が選んだものを盗むため」だけに掛けられた呪いだった。瑞歩は「宗市を好きになったから奪った」のですらなかったのだ。ただ、私が選んだものなら間違いないからと。そんなことのために宗市と私の人生を歪めたのか。
「……なんてことを」
「そう珍しいことではない。自身に向かぬ愛を希い邪な術に頼る欲深い者は、いつの時代にも存在する。正道では届かぬ祈りだからな」
有慈の答えはあっさりしたものだったが、そうではない。
「違うんです。姉は、その人を好きになったから私から奪ったわけではありません。私が選んだ相手なら間違いないと分かっていたから、奪ったんです」
「それなら、より罪深いな。お前の姉は、さぞやあれに好かれたことだろう」
一旦中断せざるを得なくなったらしい状況に、有慈は椅子の一つを引いて腰を下ろす。
「呪いの因果を紐解くには、もう少し情報がいる。姉が何を犠牲にしたか、心当たりはないか。姉に近しく、姉が喪って絶望するような者が突然死んだことは?」
瑞歩に近くて、喪ったら絶望するほど大切にしていた相手か。本当に、全く心当たりがない。
「まず父は論外ですし、祖母も私が大学へ入学するまでは生きていたから違います。友達にいたのかもしれませんが、しっくりはきません。姉は自分が輝くために他人を利用する人だったので、大事にするとは考えにくいですね。まあこの人に対しては、一緒に過ごすうちに愛情が湧いてたみたいですが」
思うに、宗市は大切にしていたのではないだろうか。灯火教のパンフレットで有慈を見た時、私の選んだ男を乗り換えたくなったのなら、瑞歩なら躊躇いなく呪いを掛けていた。間違いなく、宗市を捨てて有慈を奪おうとしただろう。それをしなかったのは多分、宗市に愛情があったからだ。ただそうなると、呪いで自分を愛しているに過ぎない相手を、愛したのか。それほど虚しいこともないが、瑞歩はそれで良かったのか。
「では愛情ではなく姉の理想を、欲を満たすために必要な存在……いや、そういうことか」
有慈は気づいたように、視線を宗市へと移す。
「お前達に子が為せないことを、妻は何か言っていなかったか」
「……体外受精が失敗した時やお酒を飲んだ時に、『こんなはずじゃなかった』『私の人生はめちゃくちゃだ』と」
以前、私も聞いたことがあるから確かだ。「こんなはずじゃなかった」は、単純に子供ができないことに対してだと思っていたが、そうではなかったのか。
掠れた声で答えた宗市に、有慈は納得した様子で頷く。宗市の前に椅子を移動し、向き合って座った。
「お前があれに唆されて行った神光教の願掛けは、身を切れば切るほど叶う。お前が捧げた寿命のほかに、恋人や家族を贄に差し出す者もいた」
宗市は顔を上げ、虚ろな目で有慈を眺める。呪いが解けつつあることも関係しているのか、さっきまでに比べると明らかに精彩を欠いていた。
「あれは、子供時分の妻が誰も愛しておらぬこと、将来は子供を欲すことを分かっていたのだろう。だから、お前の心を惹きつける代償として、将来産むであろう子の魂を贄として捧げさせた。そのような妻を、どう思う」
「愛しています」
即座に答えた宗市に、有慈は手を伸ばして宗市の顎を掴む。目を確かめているのか、光に翳すように宗市の顔を動かした。
「その思いはまやかしだ。お前の妻は、珠希を愛していたお前の心を呪いで捻じ曲げ己に向けさせた。これが事実だが」
「そこまでして僕を振り向かせたかったのかと思うと、愛おしくてたまらなくなります」
迷いのない答えに腰を上げ、間近で宗市をじっと見下ろす。
「妻と付き合い始めてからでは、何年経つ」
「十二年です」
宗市の答えを聞き遂げて、再び椅子に腰を下ろした。脚を組み、その膝に肘を突いて宗市を眺める。滑り落ちた髪が、光を弾いて揺れた。
「かなり根深いようだな」
「呪いを解いたら、この人はどうなるんですか」
解呪しても、なんの問題もなく明日からも暮らせていくものなのだろうか。
「呪いも解呪も、等しく因果律に手を入れる行為だ。反応はその都度違うから、こうだと言い切れるものはない。今回なら今の状態で自分の妻への愛がまやかしであったことを自覚するか、呪われる前に人生が巻き戻されるか。予測できるのはそれくらいだ。どちらにしろ人生にかなり食い込んでいるようだから、影響は大きいだろう」
今の宗市から瑞歩への愛情が失われたら、どうなってしまうのか。瑞歩のために借金までしているのだ。運が悪かったね、で済むとは思えない。
「癒せますか」
「できぬことはないが、一般的な心身の不調とは違うからな。因果律の大きな修正は、本人以外の人生にも影響が出ることがある」
癒やしの力が万全でないことは知っているが、今回もその部類に入ってしまうのだろう。
因果律は、「結果は原因を必要とし、原因は必ず結果を生む」法則だ。灯火教教義では、これは悠久の時の流れに存在する鉄則で、誰も逃れることはできないとされている。原因は種、結果は実のようなものだ。悪い種を蒔いたあとに良い種を蒔いても駆逐されることはなく、悪い実と良い実が両方成ってしまう。扱いは難しいが、良い種を蒔き続けるのが難しいのなら悪い種を蒔かないようにするだけでいい、と有慈は信徒達によく話していた。
「呪いを解いたら、瑞歩への愛情が消えるんですか」
「『消える』のではない。元より『ない』のだ。今、愛していると思っているその感情はまやかしでしかない。解けば理解できる」
悲痛な表情で尋ねた宗市に、有慈は抑えた声で説く。でも宗市は、当然ではあるがまるで納得できないようだった。
「珠希ちゃんを呪ったことは、本当に申し訳なく思っています。でも、僕はこの気持ちを」
「黙らぬのならここで地獄に落とすぞ」
有慈は冷ややかな声で続きを封じると、腰を上げる。
「……愛してるんです」
「愛など、枷にしかならぬ」
溜め息交じりに返し、再びあの御札を手にした。何か言おうとした宗市の額に張りつけた途端、体がまたぐにゃりと揺れて大人しくなる。
有慈は準備した水と酒、塩を時折使いながら、何かを唱えつつ宗市の体に触れていく。素人目には、十分慣れていそうな手つきには見えた。
任せていれば問題なさそうなのに気持ちが沈むのは、さっきの言葉のせいだろうか。有慈にとって愛情が不要なものなら、一層、私と結婚した理由が分からない。跡継ぎを望むわけでもなく、ただ私を傍に置いているだけだ。私の、何が必要なのだろう。
不意に聞こえたうめき声に、はっとして視線を上げる。有慈達の方を見た瞬間、思わず小さな悲鳴が漏れた。……なんだ、あれは。
上を向き、あり得ないほど大きく開けられた宗市の口から、どす黒い肌をした人のようなものが這い出している。黒い手で宗市の顎を掴むと、穴から体を引き抜くようにして一気に現れた。長い黒髪が、周囲に溢れて宗市の姿を呑み込む。私でも分かる異様な雰囲気に、総毛立つのが分かった。
有慈が酒を振り掛けると、ギィ、と異様な声を上げて宗市の体から滑り下りる。私に気づいたのか、四つん這いで駆け寄ってきた。激しい音を立てて結界に弾かれた拍子に髪が大きく分けられ、顔が露わになる。瑞歩と、同じ顔をしていた。私を睨む目つきも昔を思い出すものだ。でも、瞳だけは違う。今の瑞歩の瞳は冥く、光さえ映していなかった。
「……あん、た……さ、え……」
勢いよく結界に張りついた瑞歩は、掠れた声で恨み言を吐きながら見えない壁に爪を立てる。黒板を尖ったもので掻くような、あのいやな音がした。
肩を竦めて耳を塞いでいると、瑞歩の背後から有慈が現れる。有慈は瑞歩の髪を掴んで後ろ向きに引きずり倒し、動かないように踏みつけながらいくつかの御札を手早く貼りつけた。
相手は本物ではないし危害を加える存在なのだから、多分それが適したやり方なのだろう。でも、なんとなく暴力行為を見てしまったようで気分が優れない。耳を覆っていた手を外すと、有慈が何かを唱える声が聞こえる。胸を落ち着けるように深呼吸をして、涼しい表情を崩さない有慈から、瑞歩へと視線をやる。さっきまでは人の形をしていたはずが、揺らぎながら縮み始めていた。そのまま少しずつ小さくなっていき、最終的には御札で覆われた球になった。
「これで、解呪できたんですか」
「ああ、お前達から切り離して封じた。これであの男が掛けた呪いも、あの男に掛かっていた呪いも作用することはない」
安堵して宗市を見ると、知らない内に椅子から滑り落ちていた。動かないが、気を失っているのかもしれない。さっきの光景を思い出すと、顎が外れていてもおかしくはなさそうだが。
「それは、どうするんですか」
球は、いつの間にか有慈の手のひらに収まるほどに小さくなっていた。数枚の御札を丸めただけにも見えるようなそれの、中身はまるで見えない。
「ここではどうにもできぬから、持ち帰る」
「保管するんですか」
驚いた私に有慈は頷いて、その球をシャツのポケットに入れた。
「時期を見て適切に処理をするまでは、そうなるな。私が手元に置いておくから、心配は要らぬ」
そうだろうが、身近にあると思うだけでなんとなく落ち着かなくはある。それはともかく、と有慈が切り出した時、その背後で宗市がのそりと動いた。
「宗市さん、大丈夫ですか」
駆け寄って、体を起こすのを手伝う。宗市はゆっくり起き上がると、憔悴した表情でじっと私を見据えた。顔色は悪いが、顎は外れていないらしい。
「気分はどうですか」
再び尋ねた私に、宗市は見る間に目を赤くして、涙を溢れさせた。
「……ごめん、珠希ちゃん。僕は、君に、なんてことを。こんなに傷つけてしまって、本当にごめん」
苦しげに詫びて顔を歪めた宗市に、ああ、と懐かしい感覚が蘇る。自分は私以上に被害に遭っているのに、真っ先に私を気遣う。確かにこれが、本当の宗市だ。
「気にしないで、宗市さんのせいじゃない。悪いのは宗市さんじゃないんだから。今、記憶が欠けたり抜けたりしてる感覚はない?」
「今のところは、気になる感じはないよ。自分が何をしていたのか、ちゃんと覚えてる。……本当に」
項垂れてまた詫びようとする宗市に、慌ててその腕をさすった。
「いいの、謝らないで。私は大丈夫だから。宗市さんは、自分を癒やすことを考えて。一番傷ついたのは、あなたなんだから」
近づく気配に視線をやると、隣に有慈が腰を落とす。無言で宗市の顎を掴み、瞳を確かめるように顔を動かした。
「呪いは問題なく抜けているな。私の力を使えば、因果律に影響が出ぬ程度でその痛みも取り除いてやれるが、どうする」
「その方がいいと思う。一人で抱えるには、重すぎるから。私も、そうしてくれた方が嬉しい」
本来の宗市は責任感が強く、真面目な性格だ。どうにかして減らしておかなければ、最悪の結果になるかもしれない。
宗市は私の必死な表情を見つめたあと、ふ、と苦笑した。
「珠希ちゃんがそう言ってくれるなら、お願いしようかな」
柔和な笑みに頷いて、隣を見上げる。有慈はまた手を伸ばし、今度は宗市の額に触れた。
「多くは取り除けぬから、痛みは残る」
「構いません。僕も、全てなかったことにするのは性に合わないので」
宗市は目を閉じたまま、有慈の言葉を受け入れる。私なら限界まで取り除いてほしいと頼みそうなところだが、宗市らしい。でも痛みがしっかり残るのなら、不安は消えない。
自分の罪ではない罪に、押し潰されてしまうのではないだろうか。私の知る宗市は、それほど強い人ではなかった。歳を重ねて多少強くなっていたとしても、今回のことはそれを打ち消すくらいの破壊力を持っている。宗市はきっと大丈夫だと言うのだろうが、心配だった。
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