第28話
翌朝の有慈は、至って普通だった。ひとまず結界を張り直してくれたが、呪いは私の内から発生しているから十分な効果は見込めないこと、原因が分かるまでは対処療法しかないことを伝えて、仕事に向かった。
――何かあれば、すぐに連絡してくれ。繋がるようにしておく。
昨日は見えた機嫌の良さも今日は消えて、愛情を確かめあったはずなのに照れた様子もない。あれは夢だったのかと思うほどに、普通だった。
奥様、と聞こえた声に意識を戻して、向かいに視線をやる。教務部長は装束の袖を払うようにして姿勢を整え、私を見据えた。
――『悪魔』と口走ったために、教務部長は私に報告して指示を仰いだ。
あれから、どことなく教務部長が私を見る目が変わったような気がする。恭しい態度を見せつつ厭んでいるのは察していたが、視線が露骨にそれを匂わせるようになった。
まあ、崇拝してやまない教主がある日突然、自分に相談もなく結婚を決めていたのだから、気持ちは分からないでもない。教務部長は、設立当初からいて有慈を支え続けている立場だ。
「近頃、修業を終えても山を下りたがらない者が増えております。これまでは全て受け入れておりましたが、どの部門も飽和状態になりつつあります」
切り出された問題に、ああ、と頷く。総務部長も、そんなことを言っていた。人手はあるが、仕事がない。ひとまず生産部門に回していると報告を受けたのは、昨年だったか。いよいよ溢れ始めたのかもしれない。
「各部門の希望を聞き取って、必要な部門や係を新たに設立してはどうですか。部門によってはシフトを三交代制にして、まんべんなく業務が回るようにしてもいいでしょう」
「確かに対応としてはそうですが、問題は彼らが下りたがらない理由です」
総務部長とも同じような話をしたが、教務部長が問題とするところは対処方法ではなかったらしい。教務部長は少し眉根を寄せ、身を乗り出す。
「彼らは、教義で推奨されないと知りつつも、教義の真に触れるために敢えて山を選ぼうとしているのではありません。単に、下の生活が大変で戻りたくないから残ろうとしているのです。下で遊ぶ金欲しさに残ろうと考えている者もおります」
「今、うちの初任給はどれくらいですか」
有慈が資産運用で大儲けしているせいで、うちは毎年ちゃんとベースアップがある。今年の春には、基本給が二万上がった。
「共済や保険などもろもろ抜けば、手取りで約三十五万です。週休三日で残業もほぼありません。山を下りればなかなかない待遇でしょう」
「確かに、残りたがるのも無理はないですね。それで、どのような対応をお考えですか」
私は市井で働いた経験がないから、周囲の話や相談、新聞や本で知識をつけている。九年も続ければさすがに付け焼き刃は脱せたと思っているが、折衝は未だひやひやする。
「残ることを希望する者達に、専用の試練を課してはどうかと思っています。既存の職員に対しても年一回は同様の試練を行い、合格しなければ山を下りるように」
納得できるものとできないものが同時に来て、小さく唸る。
「修行者達に試練を課すのは、良い案かもしれません。ただ、既存の職員にまで課すのは手を広げ過ぎでは?」
「いえ。近年は信仰のなんたるか、教義のなんたるかを忘れた者が増えております。休みの日に山を下り、遊興に耽る者も少なくありません。それが彼らのしたいことであるのなら、山を下りるべきでしょう」
休日の下山を許可したのは有慈だが、元々は私が言い出したことだ。山の中でろくに使えない金を貯め込んでいるより、山を下りて使ってくれた方が教団のためになると提案した。
「職員に山を下りての自由行動を許しているのは、町に金を落とさせるためでもあります。罪を犯し警察の世話になるようなら問題ですが、そうでなければ個人の良識に任せましょう」
教務部長は、おそらく飲み屋や雀荘通いのことを言っているのだろう。こんな田舎町に風俗はないが、あって利用したとしても、私は構わないと思っている。有慈が行くのは別だが。
「市井の人々は、いちいち我々の教義の内容を調べたり教主の高邁さを確かめてくれたりはしません。我々がどんな教義の下でどんな信仰を持っているのかなんて、彼らにはどうでもいいのです。新興宗教は全部、『新興宗教』なんですから」
ただその中では、神光教の教祖の息子が拓いた灯火教は、気がかりな部類には入るだろう。神光教事件を知らない町人は、ほぼいないはずだ。
「あとから来た上にハンデのある我々がここでの活動を許され続けるには、問題を起こさないことと金を落とすことしかありません。まともだと証明するために教義を伝えようとしたところで、布教だと思われて遠ざけられるだけです。町にできるだけ金を落として経済を活性化させ、『金を落としてくれるから、まあいてもいいかな』と思わせるのが共存の最適解です」
新興宗教団体を、なんのわだかまりもなく受け入れてくれるような自治体はまずないだろう。うちの施設がここに建つ時も、地元住民はそれなりに反対したと聞いている。マイナスからのスタートなのだ。信用されなくて当たり前の状況を、信用はしないけど「いてもいい」にさせる潤滑油が金だ。世知辛い話だが、金ほど「一般人」の心を動かすものはない。
「奥様のやり方は、金で人の心を買えと言っているのと変わりません。灯火教の教義が良しとする和合とは、互いに心を開けるよう、言葉と誠意を尽くして行われるべきものです。あなたが言うような、金の力でコントロールして得るものではありません」
教務部長の訴えはもっともだが、私だってただ金をばらまけと言っているわけではない。町へ出た信徒達は飲み屋で隣に座った人と気さくに話をするだろうし、コンビニでは店員に礼を言うだろう。和合のための円滑なコミュニケーションと金を落とす、その両方が必要なのだ。
「私は金の力だけでどうにかしろと言っているわけではありません。金が十分な働きをするのは、和合を目指した円滑なコミュニケーションあってこそです。問題が起きていないのは、彼らがそこを弁えて教義を実践しているからでしょう」
私の目には、実にうまく行っているように見えている。職員はストレス解消ができ、町は潤う。正にWINWINの関係ではないか。
教務部長は教義を、信仰を神性化しすぎている。そして金への偏見が強い。金は道具であり、手段でしかないだろう。きれいなものでもないが、汚いものでもない。
「町で教義を実践するなら、ボランティアやイベントに参加するだけでも十分です。以前のように清掃活動や祭りだけに参加して、清潔感ある崇高な姿を見せれば良いのです! 金を出さなければ受け入れられない、金で人を動かそうなどという考えは、邪なものです。あなたのやり方は、ここに堕落しか齎さない。正に悪魔だ!」
身を乗り出して反論する教務部長は、思い余って避けるべき言葉を口にする。すぐにはっとして気まずげに俯いたが、胸の内に同意する思いがあったから捨てきれなかったのだろう。悪魔なら堕落を齎しても、なんらおかしくはないからだ。
「今日のところはもう、お下がりください。いただいた提案は、教主様に伝えて指示を仰ぎますので」
「承知しました。失礼いたします」
促した私に、教務部長は頭を下げてあっさりと退く。部屋を出て行く背を見届け、溜め息をついてソファに寝転がった。行儀の悪いことはすべきではないが、時々こうして朝イチから気力をこそげ取っていくやり取りがある。
悪魔か。
元は勘違いとはいえ、教務部では既にその扱いになっていそうな気がする。そもそも、ここへ来た時から教務部はあまり私を歓迎していなかった。有慈があっさりと私をこの位置に据えたせいもあるのかもしれない。
――愛している。
昨日初めて聞いた台詞を胸の内に反芻してみる。もう少し高揚してもいいはずなのに凪いでいるのは、有慈が決して幸せそうに見えなかったからだ。結婚した当時は、私を愛するつもりはなかったのかもしれない。それが変わったのが、それほど問題なのだろうか。
また溜め息をついてごろりと仰向けになった鼻先に、瑞歩の顔があった。驚きに、短く吸った息が止まる。逃げたくても、体は金縛りに遭ったかのように動かない。口だけでも動くなら文句の一つでも言いたいところだが、唇は薄く開いて細く息を吐き出すだけだった。
瑞歩は血走った目を見開いて私を睨みつけながら、私の胸に触れる。ぐっと押される息苦しさのあと、そのまま手が私の中へ沈み込んでいくような感触を得た。ぞわりとして、総毛立つ。何をされているのかは分からなくても、まずいことだけは分かった。
でも、逃げ出したいのに、体をよじるどころか指先一つ動かせない。生気のない瑞歩の青白い顔が、明るい陽光に照らされる。くまの染みついた目元には細かな皺が寄り、ほうれい線はくっきりとして頬が痩けている。二歳違いとは思えないほど老けた顔立ちに、不意に記憶が呼び起こされた。
鉄格子の中から見上げると、この顔が、パンを投げた。……そうだ。母も、こんな顔だった。私はそのパンを拾って食べながら、鉄格子の向こうに、ずっとあの祭壇を眺めていたのだ。
決して幸せにはなれない記憶に、泣きたくもないのに涙が伝う。
母も瑞歩も、私の存在を喜んだことなどなかったのだろう。望んで生まれてきたわけでもないのになぜ、ここまで憎まれなければならなかったのか。
瑞歩の手が沈んでいくほどに、意識が朦朧としていく。もう、いいのかもしれない。私を殺せば気が済むのだろう。私の生は、どうせ誰にも。
諦めて見上げた瑞歩の顔が、涙で歪む。次には、本当に歪んでいた。
背後から突然伸びた二本の手は、瑞歩の顔を掴んで容赦なく爪をめり込ませていく。目を潰す指にうめき声を上げながら、瑞歩もその手の小指を噛みちぎった。指とともに落ちてきた血の温かさに、一気に現実が蘇り全身が総毛立つ。叫びたくても叫べず、目を閉じることすらできない。胸の内で有慈を呼ぶが、当然届くわけはない声だ。
誰か、誰でもいいから、助けて。誰か!
目の前で続く凄惨なやり取りに強く願った時、私の背後が急に眩しくなった。
「散れ」
男性の声とともに夥しい光が発せられた瞬間、瑞歩達は塵となって消える。鮮烈な、白い光だった。
瞬きできる目に気づいて、慌てて跳ね起きる。振り向くと、すぐそこであの光が揺らめいていた。でも今は、夢ではないだろう。夢の中だけではない存在だったのか。
「ありがとう、ございました」
窺いながら礼を言うと、光が少し揺らめく。
「本当は良くないが、あまりにも酷なことをするものでな」
私に近づくと、子供を労るかのように私の頭を撫でた。柔らかで温かい光に、涙が溢れる。さっきまで体中を占めていた不安と恐怖が、癒やされていくようだった。
「大丈夫だ、お前は強い子だ」
穏やかな声に、ふと顔を上げる。その言葉には、なんとなく聞き覚えがあるような気がした。でも、どこで聞いたのだろう。
「あの」
身を乗り出した時、手の内に何かを感じる。驚いて開くと、手のひらに収まるほどの木彫りの像がいた。
「持っていなさい。身を食う毒くらいは防いでやれるだろう」
光はゆらりと揺れたあと、静かに消えていった。
体をちゃんと起こしてソファに座り直し、現実にあった証拠としての像を眺める。両手で、包み込むように宝珠のような玉を持っている。みずらのように髪を結い上げた顔は、柔和な笑みを浮かべていた。これが、さっきの光の姿なのだろうか。
頭に浮かぶのは、蝋に隠されて未だ本来の姿を見せないあの像だ。それでも。
――本当は良くないが、あまりにも酷なことをするものでな。
あれは、誰のことを言っていたのだろう。瑞歩ならいいが、もしそうではなかったら?
上着のポケットからハンカチを取り出し、そっと包んで戻す。この像のことは、誰にも話さずいることにした。
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