第27話
有慈を支えて部屋へ戻ったあとは、夕食を助けて風呂について入った。全盲といっても、普段は心眼で全て見えているから、私達が急に見えなくなるのと同じような感覚らしい。
「心眼が開いたと、なぜ気づかれたんですか」
十分に濡らした有慈の黒髪を毛先の方から洗いつつ、控えめに尋ねる。少し踏み込んだ質問だったが、今なら答えてもらえるような気がした。
「暗闇にいるのに、そこにある全てのものが見えたからだ」
「じゃあ今も、暗くてもちゃんと見えてるってことですか」
初めて知った心眼の性能に驚くと、有慈は、ふふ、と笑う。
「そうだ。だから、閨でのお前もよく見える」
その答えに、髪に泡を揉み込む手が止まった。
「照明を、点けても点けなくても変わらないと……?」
「そうだな。明度や彩度に違いは出るが、見えることには変わりない」
そういうのは、良くないのではないか。
「なんで、黙ってたんですか」
「閨でしか見れぬ顔を見るためだ」
「九年も一方的に満喫を?」
再び手を動かしながら口を尖らすと、有慈はまた笑った。見えていないのは負担なはずなのに、心なしか普段より機嫌がいい気がする。
「私は良き妻を持った」
「いい感じにして終わらせようとしてもダメですよ」
苦笑して、頭にも泡をつけて洗っていく。頭皮を揉むように洗い始めると、有慈は気持ち良さそうに息を吐いた。
「本当に、そう思っている」
「じゃあ、あと五十年くらいしてから、こうしてあなたの介護をしてる時に言ってください。きっと疲れが吹き飛びますから」
五十年後には、美しいこの黒髪も真っ白になっているだろうか。それはそれで楽しみな未来だ。まあ七十九歳の私の方が、よっぽど弱っているかもしれない。生きていれば、だが。有慈の力でも、死は癒せない。
「そうだな」
呟くように答えた有慈に頷いて、シャワーを手に取る。
「じゃあ、流しますね」
温度を確かめたあと、頭の上から泡を流した。
ふと呼ばれた気がして目を覚ますと、暗がりの中でまたあの光が揺れていた。慌てて有慈を起こそうと振り向いたが、姿がなくて夢だと気づく。
「お前の身に、危険が迫っている」
「あなたは、誰ですか」
同じ警告を繰り返す光に尋ねると、ふわりと漂うように揺れて拡がっていく。部屋を包み込むように拡がる光は幻想的で美しく、思わず溜め息が出た。
「名は教えられぬ。お前に危機を伝えるために現れたもの、と思えば良い」
光は揺れながら、ぼんやりと人の形を取る。眩しさに、少し目を細めた。
「言葉ではなく、行動を見よ。言葉では、どのようにも取り繕えるものだ。真意は行動にこそ現れる。悔いのないようにな」
大人しい声で諭すように伝え、光は暗がりに溶けていく。すっかり消えたところで目を覚ますと、有慈の腕が絡まっていた。
そっと腕から抜け出して、体を起こす。さっきまで光がいた辺りには、当然何もない。夢では真っ暗だったが、現実は常夜灯がぼんやりと照らしていた。
夢なのは間違いないとしても、二度も危険を伝えに出てきたのだ。何かあるのかもしれない。言葉ではなく行動、か。
「どうした、眠れぬか」
背後で起き上がる影に気づいて、振り向く。有慈は覆い被さるように私を抱き締めて、また寝転がった。
「少し怖い夢を見て。でも、大丈夫です」
なんとなく内容は話さない方がいいような気がして、ごまかす。有慈は、そうか、と答えて抱き寄せ、私の頭を撫でた。
「もう、見えますか」
「ああ、よく見える」
含みのある声に体を起こし、視線を合わせる。今も私はあまり見えていないが、有慈はしっかり見えているのだろう。わざと眉を顰めて見せると、笑ったのが分かった。
「いつもは私が触れるばかりだが、今日はお前が触れてくれた。たまには、力を使い切るのもよいものだな」
穏やかな声が伝えた予想外の心境に、驚いてじっと見つめる。確かに、普段は私から触れることはほとんどない。装束の乱れに気づいた時に直す、くらいかもしれない。だから、機嫌が良かったのか。
手を伸ばして、ぼんやりと見える頬に触れる。
「私が触れたら、嬉しいですか」
「ああ。でも、既に十分すぎるほど私の欲に付き合わせているのは分かっている。無理はしなくていい」
有慈は、私の手に自分の手を重ねながら答えた。もしかして、変わったのは私だけではないのだろうか。じわりと熱が上がったような気がした。
「無理は、していません。夫婦ですから」
自分なりにがんばって主張してみたが、有慈を窺うに、全くピンときていない。もしかして、鈍い人なのだろうか。そういえば、過去の恋愛話は一度も聞いたことがなかった。
「私が、癒やしの力との等価交換で妻をしてると思ってますか」
「そうではないのか」
あっさりと返された答えに、思わず苦笑する。まあ確かに、燃え上がるような感情ではないし、高揚が収まらないようなときめきがあるわけでもない。ただ少しずつ、寄り添うように形を変えていっただけだ。
「最初は、確かにそうでしたが……九年も一緒にいれば、変わります。あなたもそうなら、嬉しいのですが」
皆、こういう時はどんな風に話しているのだろう。もう少しうまく言えば良かったのに、照れと不安が先に立ってしまった。
不意に重ねられていた手が離れて、私を抱き締める。いつもより力を込める腕が意味するところが絞り込めず、小さく呼んだ。
「そうだな、私も変わった。お前が変えてしまったのだろう」
どことなく苦しげに聞こえた有慈の声に、少し顔を上げる。有慈は気づいて腕を緩め、私の顔を掬い上げるようにして触れた。
「愛している」
初めて与えられた言葉に、安堵の息が漏れる。やはり高揚はなかったが、熱が指先まで行き渡っていくような感覚だった。これでようやく、夫婦になれたのかもしれない。
有慈はゆっくりと唇を深く重ねたあと、少し離れる。
「もう、どうにもならぬ」
悲痛なものが滲む声に顔を上げるが、有慈は視線を合わすのを避けるようにまた唇を深く重ねた。同じものを得たはずなのに、胸を占めていくのは戸惑いだった。
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