第26話

 聞き覚えのある音にぼんやりと目を覚ました途端、首に激痛が走り目眩がした。呻きながら震える手でシートベルトを外し、助手席の方へ倒れ込む。絶えず舞い続ける視界と首の痛みに耐えて、スマホを手に取った。

「珠希、私だ。大丈夫か」

 聞こえた有慈の声に応えようとしたが、声が出ない。絞り出そうとしても掠れて、ちゃんとした音にならない。首だけでなく、喉も激痛だった。

「すぐ迎えに行く」

 非常事態を察したらしい有慈は、一方的に通話を終える。これで、大丈夫だろう。

 でも苦しい喉では安堵の息も吐けず、一時も休まず舞い続ける視界のせいで違うものが出そうだ。飲み込めないつばが口の端から垂れていくし、左手はずっと震え続けている。命だけは助かったらしいが、首へのダメージが凄まじい。それでも死ななかったのは、また呪いが拮抗したせいだろうか。

 気づくと溢れ出していた涙に洟を啜り、久し振りの感覚を味わう。これまでの体調不良と質は違うが、絶望感は似たようなものだ。痛いし苦しいし、つらい。そして心細い。一人だけ、生き地獄に突き落とされたような気分だ。私だけがこのままここから逃れられないような、絶望感と無力感。苛立ちと諦めが、入れ替わり立ち替わり思考を埋めていた。

 私の抱えた不調は当初、髄膜炎ずいまくえんの後遺症だと思われていた。祖母は私をあちこちの病院に連れて行き、大学病院で詳しい検査も受けさせ、どうにか私を救おうとした。詳しい検査の結果、後遺症とは違うのではないかと言われたが、だからといってこれといった原因を特定することはできず、最終的には自律神経失調症じりつしんけいしっちょうしょうで落ち着いた。

 祖母は症状に効くサプリがあると聞けば買ってきて、漢方での体質改善が効くと聞けば漢方医に連れて行った。整体にもはりにも行った。でもその努力を嘲笑うかのように悪化することはあっても、良くなることはなかった。

 祖母が亡くなったのは大学一年の六月、夕飯の支度中に突然倒れた。

 ――良くしてあげられんで、ごめんね。

 救急車を待つ間、朦朧とする中で詫びたそれが、最後の言葉となった。私の体は一生このままでもいいから祖母を返してほしかったが、その願いは叶わなかった。

 祖母亡きあとも、祖母が悲しまないよう自暴自棄は起こさないようにして暮らした。でももう、なんの目標も夢もなかった。それまでは、治れば祖母が喜んでくれる未来があったが、もう祖母はいないのだ。きちんとした生活を送っていても、生きる気力は失われていった。友達が灯火教の集会に誘ってくれたのは、そんな時だった。

 彼女の名前はもう名簿にないから脱会したのだろうが、今でも感謝している。彼女が私を心配してカミングアウトしてまで誘ってくれなければ、私は有慈に再会することも体調不良から抜け出すこともなかった。

 ――お前は、あの時の子供だな。どうだろう、私の妻にならないか。

 あの日、私は二度目の神に会った。


 背後でドアが開く音がしたのはどれくらい経った頃か、すぐに馴染んだ声がした。

「どこが痛むか、差せるか」

 震える左手で首に触れると、すぐに有慈の手が重なる。私を救ってくれる手だ。

「大丈夫だ。すぐ、楽になる」

 いつもどおりの落ち着いた口調に、不安が凪いでいく。痛みを取り除いてもらうのは何年ぶりか、普段は健康のありがたみを忘れないよう頼らずにいる。健康が当たり前になったら、傲慢になってしまいそうな気がするからだ。

 少しずつ息が深くなり、痛みが消えていく。左手の震えと目眩も、潮が引くように消えていった。

「……良くなりました。ありがとうございます」

 苦痛から解放された体をゆっくりと起こすと、すぐ間近に有慈の顔があった。

「そうか、それは良かった」

 有慈は安堵したように答えたが、顔は少し外を向いていて、明らかに視線が合わない。信徒との面談を済ませたあとに更に力を使わせてしまったせいで、心眼が利かなくなったのだろう。視力に回す力まで使い切ってしまったのだ。

「ごめんなさい。私のせいで」

「気に病むな、眠れば治る。帰ろう、私は助手席に乗る」

 運転席から出ようとする有慈を助けながら車から降り、待っていた運転手の手を借りつつ助手席へ座らせる。ぐたりと座席に凭れる有慈の表情は明らかに疲労していて、罪悪感が湧いた。

 有慈は薄く笑み、空を掻くように手を伸ばす。その手を取って頬に当てると、泣くな、と宥めるように言った。

「お前が無事なら、私はそれでいい」

 穏やかな笑みと声に諭されて洟を啜り、涙を拭う。

「家に、帰りましょう」

 胸を切り替えるように肩で息をして、有慈の手を膝へ戻した。

 何かあった時のために私達が先に行き、運転手には後ろからついてきてもらう。日暮れの山道を、いつもより慎重に上り始めた。

「さきほどお前を癒やして、分かったことがある」

 助手席で切り出した有慈を、視界の端で一瞥する。

「確かに強い呪いではあるが、前回ならず今回までも結界を抜けてくるのはおかしいと思っていたのだ。その理由が分かった」

「なんですか」

 街灯の少ない山道に、ライトを点けて先を行く。まだ完全に日は暮れていないが、上っていくほどに森は深くなる。平日の対向車は少ないものの、先んじて用心するに越したことはないのだ。

「その呪いは結界の内から、お前自身から湧いて出ているようだ」

「私に掛けられた呪いが私の内から、ですか」

「ああ。なぜかは分からぬが、お前の中にお前ではないものを感じた。呪いがお前の内にあるのなら、納得がいく」

 そんな可能性は考えたことがなかったが、結界が効かない理由としては確かに理解できるものだった。問題は、「なぜそれが起きたか」だ。

「遺品整理で、姉のものに触れ続けているからでしょうか」

「確かに、遺品整理は故人のエネルギーに触れるものではある。だが、お前は『これからも傍にいてほしい』『見守ってほしい』などと願いながら触れているわけではないだろう」

「はい、全く。むしろ『いい加減にして』とうんざりしながら始末してました」

 しんみりする瞬間がなかったわけではないが、そんな一瞬で滑り込むとは考えにくい。

「それなのに、内にこれほど宿る理由が分からぬ。遺品整理中に、怪しげなものには触れなかったか?」

「特には、何も。今日はただひたすらに、メイク用品のゴミ分別をしてました」

「人髪で作ったかつらの類はなかったか」

「ありませんでした」

 髪には、良くも悪くも呪いや力がこもりやすい。それが、有慈が髪を伸ばしている理由でもある。有慈は、ふう、と長い息を吐いた。

「再び拮抗したおかげで助かったのだろうが、いつまでもこの状態が続くとは限らぬ。どうにかせねば、お前の命が危うい」

 確かに、こんな目に何度も遭うのはごめんだ。今回だって、有慈の助けがなければ入院治療が必要だっただろう。どうにかして、解呪の糸口を見つけなければ。

「次の遺品整理には、私も行こう」

 さらりと伝えられた提案に、え、と短く声が漏れる。

「遺品整理、するんですか」

「すれば原因が分かるかもしれないだろう。前回も今回も、遺品整理の日に攻撃を受けている。何かがあるはずだ」

「そうですね。分かりました、義兄に連絡しておきます」

 今日一日では半分も終わらなかったから、来週もまたひたすらメイク用品の後始末をする予定だ。でもあんな作業を、神にさせていいものなのか。宗市に相談して、良さそうな作業を見繕ってもらっておくしかない。

「そういえば、お前と義兄はかつて恋仲だったな」

 続いた言葉にどきりとしたが、当然、疚しさは全くない関係性だ。口にした有慈も、特に気にしている様子ではない。

「そうですね。かれこれ十二、三年ほど前ですが」

「姉が嫉妬している可能性は? 嫉妬は強い呪いを生み出すものだ」

 ありえない、と思ったが、留まって少し考える。

「そうですね、ないとは言い切れません。義兄は、今も姉が好きで好きで仕方ないんですけど、姉の方は義兄が愛情表現をしても信じなくなってたらしいので」

「なぜ信じなかった? 惚れられていたのだろう」

「まず、鬱のせいだと思います。あとは昔、義兄は私に好きだと言ってたのに姉に心変わりしたんです。それなら、姉と結婚して好きだと言ってても、またほかの女性に心変わりする可能性はあるでしょう?」

「確かに、一度裏切ったことのある者が信用されぬのは、仕方のないことだろうな」

 納得した様子で返す有慈に頷く。宗市の愛情を信じきれずに死んだ瑞歩が、一緒に遺品整理している私を見て嫉妬に燃えた……いや、そうか。死ぬ前からだったのかもしれない。

「もしかしたら、生前からまだ私のことを好きだと思い込んでた可能性がありますね。それで、嫉妬に駆られて私を呪いながら死んだのかも」

 最初に考えていた「灯火教のパンフレットに有慈を見て私に嫉妬した」案より、こちらの方が可能性は高いかもしれない。どちらにしろ、死ぬほどはた迷惑な筋書きだが。

「因果は巡るとは、正にこのことだな。己の犯した罪に己が怯えることになろうとは」

「自分を責めずに私を責めて死ぬところが、最高に姉らしくてげんなりします」

 自分にないものは他人から奪えばいいと思っていた人だ。最後まで反省なんてしなかっただろう。全て周囲の、環境のせいにして恨みながら死んだ。鬱より、パーソナリティ障害が強く出ている気がする。

「姉妹なのに、まるで性格が違うのだな」

「そうですね。顔はちょっといやになるくらい似てるんですけど。姉は母親似で、私は父親似なんだと思います」

 似ていると言われても全く嬉しくはないが、母に比べればマシ、なのだろうか。母も結局は、姉を愛していたわけではなかったのだし。

「父の話では、母は姉だけを連れて神光教の集会に行ってたらしいんです。私は暗がりの中、ペットケージに入れられて置いていかれてたみたいで。そう言われても、全く記憶にないんですけど」

 そういえば、祖母が「なかなか喋らなかった」「なかなか歩けなかった」と話したことがあった。あれは、母が育児放棄していたからだろう。

「単身赴任だった父がそのおかしさに気づくまでに、四年掛かりました。それまでは、多分放ったらかしだったんです」

 父が気づかなかった程度には、食事を与えられて清潔さは保たれていたのだろう。でもそこに、愛情があったとは思えない。

 想像すればまだ疼く胸に溜め息をつき、教団施設へ入る道へのウインカーを出す。

「私も五年、視力を完全に失い心眼を開くまで、暗闇の中で育てられた」

 少し早めのブレーキを踏んで、助手席を見る。有慈はいつの間にか窓に凭れて、見えない外を眺めていた。

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