第25話
誰かに呼ばれたような気がして顔を上げると、なぜかまた実家の居間にいた。いつ戻ったのかと考えたが、すぐに夢だと分かる。柱のように伸びた白い光が、目の前で揺れていた。温かく柔らかな光で、なぜか涙が出そうだった。
「お前の身に、危険が迫っている。このまま夫に阿っていたら、命を落とすだろう」
光は緩やかに揺れながら、当たりの柔らかい、穏やかな声で私に警告する。嗄れていないが若くもない、四十代くらいの男性の声だった。
敵意はなさそうだったが、言っていることは的外れだ。私は有慈に阿っているつもりはないし、危険は有慈の結界が防いでくれている。多分、夢だからだろう。
「私は、夫を信じています」
「そうか。もう日はないぞ」
光はそれ以上の警告は重ねず、ふっと消える。それと同時に目を覚ますと、汽車の中だった。いやな感じではなかったが、不思議な夢だった。
頬を伝っていた涙を拭ってあくびを噛み殺し、窓外を流れていく景色を眺める。曇天の下に広がる田の向こうには、海があった。晴れていれば美しく日に輝いているが、今は灰色がかった青でどことなく息苦しい。
変な夢を見てしまったのは、父の言葉に引きずられているからかもしれない。
でも、有慈はただ悪人の息子として生まれたにすぎない。それだけで悪人となるなら、無実の有慈をいたぶり罪を着せようとした刑事達はどうなのか。正義の面を被れば、全て許されるとでも言うのか。
森の中を突き進む列車は、やがてトンネルへと突入する。ガラスに映る疲れた顔をぼんやりと眺めていると、不意に視線が合った気がした。
驚いて体を起こし、ガラスに映る自分を凝視する。いやな予感に肌が粟立った時、列車はトンネルを抜けた。
気のせい、だろうか。
もう映らなくなったガラスに触れ、落ち着かない胸に深呼吸を繰り返す。
――お前の身に、危険が迫っている。
思い出された夢の言葉に不安が湧く。あれは、本当のことだったのだろうか。でも、今も結界はきちんと張られているはずだ。そのおかげで前回鏡が割れた一件以来、瑞歩の気配を感じたことはなかった。瑞歩のものに触れたせいで、弱まってしまったのだろうか。
最寄り駅への到着を告げるアナウンスに、バッグを掴んで窓から離れる。何がどうなっているのかなんて、素人の私に分かるわけはないのだ。早く帰って有慈に聞くしかない。
腰を上げ、デッキへ向かう。無事に帰り着けるよう、ただひたすらに祈った。
ホームに降りた瞬間揺れ始めたスマホに驚いて確かめると、前田からの着信だった。おそらく、飯山の遺体の件だろう。応えながら駅員に切符を渡して、改札をくぐる。
「『事件性なし』で帰ってきた。ご家族が引き取りに見え次第、お渡しするよ」
「そっか、良かった。無事に引き渡せるように祈ってる。あのペンダントも、よろしくお願いします」
ようやくの、心穏やかに聞ける話題だった。これで、有慈もひとまずゆっくり眠れるだろう。駅前のパーキングに止めていた車に乗り込み、安堵の息を吐く。それで、と聞こえた声に、次を待った。
「彼女と旦那さんに接点があったとか、聞いたことない?」
「ううん、ないけど。何かあったの?」
一瞬どきりとした胸を宥め、平静を装って嘘をつく。顔を合わせていたら動揺でバレていたかもしれないから、電話で良かった。個人的には話してもいいような気はするが、本人が「不要だ」と言っていたのだから尊重すべきだろう。
「いや、ないならいいんだ。ありがとう。じゃあ、そういうことだから」
「忙しいのに、連絡ありがとう」
前田はあっさり引き下がって、通話を終えた。
スマホを助手席に投げ、ハンドルに突っ伏して大きな息を吐く。嘘をつくのは苦手だし、好きではない。仕方ないと分かっていても、罪悪感で胸が重苦しくなる。
それでも、これで有慈が疑われて捕まったら、また似たような目に遭うかもしれないのだ。それに比べたら私の胸が澱むくらい、どうということはないだろう。有慈が私を守ってくれるように、私だって有慈を守りたい。有慈のような力はなくても、できることはある。多少の犠牲は必要だとしても、だ。
手触りの悪い感触が胸から去るのを待って、体を起こす。シートベルトをしながら何気なくバックミラーを見た瞬間、凍りつく。後部座席に座っていた瑞歩が、鏡越しの視線を合わせてにたりと笑った。
がばりと背を起こして振り向くが、当然そこに瑞歩の姿はない。でも、確かにあれは瑞歩だ。私と似た顔で、私と違う髪型で、違う服を着ていた。さっき汽車の窓に見たのも、やはり瑞歩だったのだろう。家から、ついてきたのか。
前回と似たような状況に陥るなら、ひどい目に遭うはずだ。私だけならまだしも、運転中に何か起きて誰かを巻き込むのは絶対に避けたい。
震える手で再びスマホを取り、有慈に連絡を取る。今の時間はおそらく信徒と面談している頃だが、ほかに策がなかった。
予想どおり留守番電話に繋がった通話に、現在の状況と指示を待つことを伝えて終える。あとは、じっとしておくしかない。車内にいるのは怖いが、私以外の犠牲を出すわけにはいかない。
こういう時、昔はただ漠然と神に祈っていた。今も別にそれで構わないのだろうが、信徒の一人としては有慈に祈っておくべきだろう。どうにか、凌げますように。
溜め息をついて座席に凭れた瞬間、何かが背後から私の首を掴んだ。何か、ではない。瑞歩だ。バックミラーには、目を見開き般若ような顔をした瑞歩が映っている。
強く締められていく首に逃れようとするが、実体のないものを引き剥がせるわけはない。顔が熱くなり、汗が噴き出る。頭痛とともに耳鳴りがし始めた。これはもう、だめかもしれない。少しも外れそうにないどころか力を込めていく手に、抗う気力が奪われていく。
ああ、悔しい。瑞歩に負けるのか。目の裏で舞う銀が、霞んでいく。溢れたのは悔し涙か、そのまま視界は黒に埋められていった。
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