第24話
作業を一旦終えて振る舞われた昼食は、手打ちそばだった。まるで店のようなせいろに盛られて出されたざるそばに、びっくりする。先週はパスタで、今週はそばか。
「ごめんね、こんなに分別が大変だと思ってなくて」
「いいよ。分かってたところで、あの量を一人でするのは大変でしょ」
すまなげな宗市に答え、つゆに浸したそばを啜る。
そば粉の割合が多い色の濃いそばだったが、もさもさしていなくて食べやすい。多分、二八そばだろう。味付けの濃さによるものか、前回のパスタに比べると少し粉っぽさはあるものの、市販品よりはずっとおいしい。
「手伝うって決めたのは私なんだから、気にしなくていいよ」
一人でちまちましていたら、引っ越しに間に合わなくなるだろう。まとめて業者に引き取ってもらう手もあるが、それは最終手段だ。
「珠希ちゃん、休みの日は何してるの?」
「基本的に、休みはないよ。こんな風に用事がある時や調子が悪い日には休みを入れるけど、あとは大体働いてる。土日は各地から信徒が押し寄せるから、一番忙しいしね」
せいろからそばを持ち上げながら答えると、宗市は驚いた表情を浮かべる。
「そうなんだ。大変だね」
「いや、楽しいよ。体調不良で不完全燃焼だった頃の鬱憤を今晴らしてる感じで。もちろん、それで体調崩したら元も子もないから、気をつけてはいるけど」
常に体調のことを考えなければならないストレスから解放された今、仕事でもなんでも楽しくて仕方がない。
「確かに、あの頃よりいきいきしてるもんね。瑞歩も治してもらえば良かったな」
宗市は苦笑しながら、そばを啜る。悔いるのは分かるが、無理な話だ。
「勧めても無理だったと思うよ。お姉ちゃんは新興宗教を蔑んでただろうし、しかも治すのが私の夫なんて、拒否反応しかないはずだから」
有慈は、力を信じていなくても「そんな不審な力に頼ってでも治したい」気持ちがあれば効くと話していた。要は「治りたい」という本人の強い意志が重要なのだ。でも瑞歩は「そんな不審な力には頼りたくない」の方が強いだろうから、どうにか入信させて抽選を勝ち抜いたところで、多分効かない。
「まあ、そうだね。一度でも珠希ちゃんに会って、その元気な姿を見たら変わってたかもしれないけど」
今となってはどうしようもない「たられば」を口にしながら、宗市は溜め息をつく。でもそれは、喪失を癒やすための大切な過程だ。
私との面談を希望する信徒の中には、喪失の痛みを抱えて苦しんでいる者も多い。でも彼らに有慈に頼めば癒せると伝えたところで、きっと望む者は少ないだろう。彼らにとっては、その苦しみも愛情の一部なのだ。切々と思い出を語る彼らの言葉は、いつも深い愛情に満ちている。彼らはたくさんの「たられば」を繰り返しながら長い時間を生きて、やがて心に落としどころを見つけるのだろう。「死は思い出を美しくする」と言うが、きっとそれが落としどころなのだ。瑞歩もやがて、宗市の中では現物の数倍美しい姿で落ち着くのだろう。
わさびをもう少し追加したつゆに、最後のそばを軽くくぐらせて啜る。つん、と鼻に抜ける辛味に涙目になりながら、箸を置いた。
在宅を確認してから訪れた実家は、剪定を済ませた庭木のおかげで日当たりと風通しが良くなっていた。
「剪定、庭師に頼んだの?」
「いや、俺がした」
驚いて、さっぱりとした楓や金木犀から視線を移す。父は座卓の一辺に腰を下ろし、グラスと麦茶を置いた。
「剪定なんて、できたんだ」
「適当だ。もしマズいことして枯れたとしても、庭じまいだと思えばいいだけだしな」
最近、ちょくちょく信徒達からも聞く言葉だ。庭じまい、墓じまい、生前整理。
「六十五で終活は、まだ早いんじゃないの」
「そうはいっても、何があるか分からねえだろ。できるだけお前に面倒がねえようにはしとく」
言われて、ああ、と気づく。もう「私しかいない」のだ。
父は三人兄妹の長男で、妹達は県外に嫁いでいる。祖母の葬儀で一度会ったが、それきりだ。いとこ達もいるはずだが、私達姉妹が「問題のある家庭」で育ったせいだろう。一度も会ったことがなかった。まあ大人になった今でも、私は「積極的に会いたい従姉妹」ではない自信がある。
戸を開け放ったまま戻り、座卓の傍に腰を下ろす。麦茶のグラスを受け取り、少し飲んだ。
「それで、今日はなんの用だ。ただ顔見に来ただけじゃねえだろ」
「うん。ちょっと聞きたいことがあってね、神光教事件の取り調べについて」
切り出した私に、鋭い睨みが一瞬こちらを刺す。思わずびくりとしたが、麦茶を飲んで胸を落ち着ける。これくらいで怯むなら、わざわざ来ていない。
「夫がとんでもない取り調べを受けてたみたいなんだけど、知ってた? 課は違っても、同じ警視庁でしょ?」
「俺は
「相手がヤクザなら、似たような取り調べしてたわけ?」
「そこまでじゃねえよ」
仕返しのように私が睨むと、父は気まずげに答えて麦茶を啜った。
「私が結婚する時も、自分達が無実のあの人に何をしたのか、知ってたんでしょ」
「無実と決まったわけじゃねえ」
「決まってなかったら許されるの? 素っ裸にして食事も睡眠も与えず、トイレにも行かせず漏らしたら罵声を浴びせるやり方が?」
言い返した私に、父は俯いて黙り込む。でも私が父に一番言いたかったのは、こんなことではない。
「あの人が明らかに常識を逸したひどい取り調べを受けたと知ってたくせに、お父さんは悪びれるどころか、あの人を『クズ』だと言った」
「九十六人殺した父親と同じ道を選ぶ奴が、真っ当なわけがねえだろ」
「あの人は、たくさんの人を救ってる。癌の人も目が見えなかった人も、私も!」
少しの罪悪感も見せない父に、思わず身を乗り出して訴える。座卓に突いた手が、拳を作っていた。
「私は、あの人に救われたの。子供の頃からずっと苦しんでたのが、あの人と暮らすうちに嘘みたいに治った。お姉ちゃんの葬儀の時、お父さんはあの人に、娘を救ってくれた礼と詫びを言うべきだったんだよ」
どんな話をしたのかは聞いていないが、父がその二つを口にしていないことだけは分かる。血が上った頭を冷やすべく、麦茶を飲み干す。喉を洗い落ちていく冷えた流れに、一息ついて腰を上げた。もうこれ以上、言い残すことはない。
「まあ、お父さんに無理なのは分かってる。分かってて、ただ気が済まなくて言いにきただけ。もう、会いに来ないから」
これでもう、ここに来ることはないだろう。次に会う時は、どちらかが遺影になっている。珠希、と背後から呼ぶ声に、廊下へ出る足を止めた。
「悪人は、常に悪いことをしてるわけじゃねえぞ」
低い声の忠告に溜め息をつき、玄関へ向かう。何も置かれなくなった靴箱の上を確かめながら靴を履き、いつの間にか建てつけの良くなっていた玄関戸を引いた。
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