第22話
有慈に先駆けて風呂を済ませ、湿り気の残る髪を手櫛で梳きつつ部屋へ向かう。今日は先に寝ていればいいらしいが、しばらくは眠れそうにない。飯山の件が尾を引いて、胸のざわつきがまだ収まらなかった。
確かに確認もせず「息子を喪った痛みを癒すために入信した母親」だと信じたのは私のミスだが、そこから「幼少期の有慈を崇拝する神光教の狂信者」は落差がありすぎる。私の話を疑いもせずあのペンダントトップを受け取った前田も、知らないはずだ。有慈は、正直に話していないだろう。
警察を嫌っているのは分かるが、下手に嘘をつけばとんでもないしっぺ返しを食らわせるのが警察だ。多少厳しいことを言われるとしても、今からでも正直に話しておいた方がいいのではないだろうか。
有慈を説得する方法を考えつつ、灯りの点る仕事部屋へ近づく。深呼吸をした時、中からくぐもった声が聞こえた。電話だろうか。
少しだけ開いていた障子をもう少し引いて、中を窺う。背を向けた有慈の肩越しにあの蝋まみれの像を見て、面食らった。有慈は何を唱えているのか、応えるように像が妖しく発光する。像から立ち上った黒いものが、像を包んでいくのが見えた。ぞわりと背中を這い上がる悪寒に、肌が一気に粟立つ。離れた方がいい気がする。
一歩引いた足が、床を小さく軋ませる。振り向いた有慈に血の気が引いたが、有慈は私を見て、苦笑で緩く手招きをした。……大丈夫、だったのか。
一息ついて中へ入り、有慈の傍に向かう。有慈は髪を下ろして装束を雑に羽織った、事後そのままのしどけない姿だった。はだけた装束の間から見える肌から、なんとなく視線を逸らす。今更だが、明るいところで見るのは慣れていない。直視しないよう、真正面を外して斜向かい辺りに座った。
「ごめんなさい。覗き見をするために来たんじゃないんです。飯山さんの話を、今からでもちゃんと警察に話しておいた方がいいのではと思って」
「不要だ」
気持ちを整えて早速切り出した提案を、有慈はあっさり却下した。予想していた反応ではあったが、素直に引き下がれるなら最初から来ていない。
「でも、あとで知られたらややこしく」
「神光教事件が起きた時、私の関与を疑った連中は、私を裸にして取り調べを行った。弁護士を呼ばせず、何も食わせず、眠らせず、トイレにも行かせなかった。耐えきれず私が漏らせば、十人近い男達が口々に罵って嘲笑った」
遮って明かされた取り調べのひどさに、絶句する。とんでもない話だが、神光教事件は二〇〇四年で、まだ取り調べの可視化が試行すらされていなかった頃だ。ドアの内側で何をされても、それを証明できるものが存在しなかった。事件が事件だけに、壮絶なものだったのだろう。
「連中は私の心を折って、自分達が作った筋書きに合う役割を、『集団自殺の企画者』を私に負わせようとした。最早私が本当に関わっているかどうかなど、どうでも良かった。ただ大量殺人を起こした父の責と止められなかった自分達の罪を、誰かに背負わせたくてたまらなかったのだ」
信じられないが、証言の押しつけはちょくちょく聞く話だ。
神光教事件の頃は、父もまだ現役で働いていた。マル暴だから捜査には関わっていないはずだが、同じ警察官がしたことだと思えば吐き気がする。
「そこから、どうやって助かったんですか」
「運良く、その場にいた一人が倒れたのだ。運ばれていったが、おそらく死んだのだろう。私はそれを自分がしたことと仄めかして、次は誰にするかと尋ねた。すると、その日のうちに解放された。そこからは、なんの接触もない」
彼らの思いどおりに動いてくれなかったから、諦めたのだろう。傷つけるだけ傷つけておいて、どうせ謝罪もない。
「それは、憎んでも仕方ないですね。つらい思いをしたのだろうとは思っていましたが、そこまでとは思っていませんでした。ごめんなさい」
「気に病むな。犬に人の真似をしろと言うのは無理がある。それに、全ての元凶は我が父だ。父の邪悪さが全てを歪めた」
有慈は零れ落ちた髪を掻き上げ、傍らに置いていた像を手に取る。無表情の中で、見えないはずの目だけが昏く澱んでいるように見えた。
「さっき、像が光ったように見えたんですが」
話題を変えた私に、有慈は頷く。
「解呪ができないかと、いろいろ試していたのだ。ただ、やはり簡単にはいかないようだな。当初はお前を守る力が呪いを弾いたと思っていたのだが、そうではなかった。生きている呪いが二つあって、これが拮抗している」
「拮抗、ですか」
有慈は、ああ、と答えて、像の縁にまとわりつく蝋を少し割る。割りとった一片を、確かめるように照明に翳した。
「片方の呪いが成就しそうになると片方が止める、といった関係性だ。だからこの前も、お前は助かった」
「『呪いに助けられた』ということですか」
「表面的にはな。実際には、もう片方の呪いが優位に立ったに過ぎぬ」
有慈が何かを小さく唱えると、欠片は蒸発するように散って消える。その調子で蒸発させ続けたら呪いもなくなる、のなら簡単なのに。
「最初の呪いが成就、あるいは消滅する前に、次の呪いを重ねたのだろう。目的が同じであっても、一つにまとまりはせぬからな」
「そうなんですか」
「呪いも人間と同じく、個があるものだ。暗殺者二名が同じ相手を狙っていても、合体はせぬだろう。今は、どちらが殺すかで揉めているような状態だ」
全く歓迎できない状況だが、受け入れるしかないのだろう。いやだと足掻いたところで、私にはどうにもできないものだ。
「私はもう少し調べるから、先に寝てくれ」
「分かりました。でも、無理はしないでくださいね」
自身の力で疲れを癒やせるとしても、酷使していいわけではない。しわ寄せは、いつかどこかで出てしまうだろう。あの苦痛を、有慈には背負ってほしくなかった。
挨拶をして腰を上げ、部屋を出る。障子を閉めながら視線を上げると、蝋で覆われているはずの像と目が合った気がした。
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