第21話

 ――掠れた声だったので、聞き取れなかったんですよ。

 仕事終わりに教務部長に会って確かめた飯山の言葉は、有慈の説明と同じではあった。でもやはり、有慈は救護室へと訪れていたらしい。私が周囲に確かめればすぐ分かる嘘を、なぜついたのか。

「お前に与える情報を減らして、余計な不安を抱かせぬためだった」

 飯山の台詞以外を伝えて尋ねた私に、向かいの有慈はあっさりと嘘を認める。いつもどおりの表情で悪びれる様子もなく、酢の物の小鉢を手に取った。

「でも」

「お前には堪える話だと分かっていたから、避けたのだ。気持ちの良い話ではない」

 有慈は答えたあと、酢の物を口に運ぶ。今日は、山菜と焼き茄子に一味を効かせた、風味の良い一品だ。私も、落ち着くために同じ小鉢を手に取る。

 はあ、と向かいから溜め息が聞こえた。

「あれは、神光教の信徒だ。未だこの血を神と崇め信仰を維持する一部の者達は、過激な思想に走っている者も多い。あの者達の間では、私が神光教を継いでいることになっている。正確に言えば、『神光教を継いでいるのに悪魔のせいで戻ってこられない』ことにな」

 甘酢の沁みた焼き茄子を味わいながら聞いた話は、私の知る飯山の印象を大きく覆すものだった。

「もしかして、飯山さんが私を見て呟いたのは」

「そうだ。『悪魔』と口走ったために、教務部長は私に報告して指示を仰いだ。あの女は、私を連れ戻すために教団に潜入したのだろう。そしてお前がまとう呪いを見て悪魔だと勘違いし、ヒステリーを起こして失神した」

 結局、教務部長にも騙されていたというわけか。

 それはともかくとして、飯山が執務室で倒れた一件はいまいち納得できないところがあったから、有慈の説明で腑に落ちたところはある。でも、全てではない。それに私の目には、そんな狂信者には見えなかった。

「ペンダントには、お子さんの写真が入っていました」

「五、六歳くらいの男児ではなかったか」

 有慈は頷いて、ご飯茶碗を手に取る。じっくり見たわけではないが、確かに十代ではなさそうだった。あの感じは、何歳ぐらいなのだろう。

「子供には疎いので分かりませんが、そうだったかもしれません。でも、確かに大きな子ではありませんでした」

「それは、あの女の子供の写真ではない。私だ。あの者達は今、目覚めた当時の私を神として祀っている」

 予想外の答えに、持っていた小鉢を落としそうになる。胃を突き上げる不快感に、小鉢を置いて胃を押さえた。気持ち悪い。

「お前に手を出すつもりならそれなりの対応をしたが、誤解が解け何もせぬと誓ったから返した。殺されたのであれば」

 有慈は何かを口にしかけてやめ、箸を口に運ぶ。それきり黙って、食欲が失せた私の前で淡々と食べ進めた。

 飯山が神光教の信徒でスパイだったのは、事実かもしれない。でもそれなら、なぜ彼女は私に気をつけるように言ったのだろう。ペンダントを届ける礼として、なのか。

 ――……気を、つけ……て……し。

 多分、最後は「し」だった。ぱっと浮かぶのは神光教だが、その信徒が「神光教に狙われているから気をつけて」と警告するだろうか。「信徒の中に敵がいる」とか?

 いや、そもそも飯山は私の呪いを見た途端、本懐も忘れて失神したのだ。有慈が口を噤んだのは、「お前の呪いが原因だ」と言えなかったからではないか。

 溜め息をつき、残りの多い膳を眺める。いつもなら大喜びできれいに平らげるのに、今日はもう、その意欲が湧いてこない。

「ごめんなさい。もう食べられそうにないので、私の分も食べていただけますか」

「ああ、問題ない。横になって、楽にしていればいい」

 許されて座を離れ、少し離れたところで横になって目を閉じた。目の奥に鈍い痛みを感じつつ、日に焼けたい草の匂いをゆっくりと吸い込む。考えなければならないことは山のようにあったが、今はもう何も考えたくない。

 この匂いは、実家を思い出させる匂いだ。子供の頃は祖母の膝枕で耳かきをしてもらいながら、庭を眺めていた。いろいろな植物が植えられていたが、私は紫陽花が好きだった。ガラス越しに雨に打たれる青紫を、じっと眺めていた。あの頃が多分、一番。

 珠希、と呼ぶ声に、ふと目を覚ます。眠っていたのか。まだぼんやりとしたまま、重なる唇を受け入れる。少し薄めで冷ややかな、いつもの唇だった。

「まだ、お風呂に入っていないので」

 滑り始めた手を引き止めると、有慈は私の耳の縁を甘く噛む。

「どうせ汗を掻くのだから構わない」

 今日は気が進まなかったが、許されないのは分かっている。目を閉じて、細く息を吐いた。

 いつも同じ調子で受け入れられればいいのに、精神的なもので割と左右されやすい。皆そうなのか私だけなのか聞いてみたいが、そんな話を気軽にできる相手はいなかった。

 この前のように背を向けて眠るような強攻策を取らなくても、うまく気持ちを変える言葉はないだろうか。それができれば、こんな気持ちになることも減るだろう。

 呼ぶ声に目を開くと、薄暗がりの中に白い喉が浮いていた。汗ばんだ手のひらが頬を撫で、唇が重なる。ゆっくりと離れると、熱い息が鼻先をくすぐった。

「だから、気持ちの良い話ではないと言っただろう」

「それでも、嘘をつかれるのは好きではありません。『話せない』と言ってくれればいいのに」

 言い返すと首筋に掛かる息が揺れて、有慈が少し笑ったのが分かった。

「秘されているものは知らぬ方が、隠されているものは暴かぬ方が良い」

 その方が、幸せになれるとでも言うのだろうか。

 有慈は指を絡めるように私の手を握って引き寄せ、自分の頬に重ねた。

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