第17話

 珍しい客が執務室のドアを叩いたのは、二日後の昼前だった。

 恭しく頭を下げて挨拶したのは、四十代半ば辺りに見える警部補の細野ほそのと、小中学校で同級生だった巡査長の前田まえただった。といっても同じクラスになったのは数回だし、同じクラスになってもあまり話はしたことがない。向こうも気づいていないようだから、私も知らないふりをすることにした。

「我々がここに伺った理由、分かりますかね」

 応接セットに腰を下ろした細野は、細身で小柄な男性だった。顔も小作りで、どこにでもいそうな地味な顔立ちだ。隣の前田はがっちりとして厳つい、父とよく似たタイプだから、細野にはなんとなく「刑事」として違和感がある。

「収益の点でお疑いなのだと思いますが、申告は税理士の指導の元で適切に行っております。従来の宗教団体らしい事業収入益が少ないのは、もちろんですが過少申告ではなく、資産運用益が莫大なためです。潤沢な資産があるから、支部や信徒から掻き集める必要がないのです。詳細なファイルが必要でしたら税務に」

「いえ、その必要はありません。お伺いしたのは、全くの別件ですから」

「え?」

 遮るように返した細野に、思わずきょとんとする。では、何をしに来たのだ。

「教団ナンバー2で事務方トップの奥様に情報が届いていないのは、どうなんでしょうね。どなたが情報統制の指示をしてらっしゃるんでしょうか。やはりご主人が?」

「失礼ですが、何を仰りたいのか分かりかねます。夫が何かしたとお疑いなら、はっきりそう仰ってください。ケンカを売っているのでなければ」

 値踏みするような無礼な視線に睨みつけると、隣の前田が、細野さん、と小さく諌めた。

「失礼しました。ここからは、私がご説明します」

 場を仕切り直すように小さく咳をして、前田は握り締めていたメモを開く。

飯山いいやまあかりさん、という女性をご存知でしょうか」

「いえ、存じません。その方が信徒でも、全員の名前を覚えているわけではありませんので」

「一昨日の五月九日、こちらに訪れたようですが」

 追加された情報に、ああ、と頷く。あの女性のことだったのか。

「その方なら、確かにこちらでお会い致しました。教務部長が紹介で連れてきたのですが、名前を口にされる前に倒れてしまわれて。救護室へ運ばれて、そのあと山を下りられたと聞きました」

 説明しながら、少しずつ状況を理解していく。彼女が下山した二日後に、警察がここに来ている。どう考えても、いい理由ではないだろう。適切な処置を見誤って、何か起きたのかもしれない。救急車を呼んでおけば良かったのか。

「下山中に、お亡くなりになりました」

 抑えた声の報告に、溜め息をついて顔を覆う。

「救急車を、呼んでおくべきでした。申し訳ありません、私の指示ミスです」

 尋常でない様子で倒れたのだから、救護室に丸投げせずに呼んでおけば良かったのだ。私のミスで、人が死んだ。許されるミスではない。胸を重く圧す悔いに、唇を噛んだ。

「いえ、病死ではなく滑落死です」

「えっ」

 驚いて顔を上げると、前田が苦笑で応える。

「ただ滑落死にしては少し不自然な点があるので、ひとまず事件事故の両面で捜査をしています」

「そう、ですか……良かった……あっ、全然良くはないですよね! 申し訳ありません」

 思わず零れ落ちてしまった本音に、慌てて言い足し頭を下げた。前田は相変わらずの苦笑で、細野は鼻で笑ったあとわざとらしく脚を組む。

「ですので、先程お話いただいたこちらでのやり取りを、もう少し詳しくお伺いしたいのですが」

「分かりました、では」

 気持ちを切り替えて話に移ろうとした時、ノックもなくドアが開く。現れたのは、険しい表情をした有慈だった。信徒との面談を終えて、急いで駆けつけたのだろう。

「待てと言われて待てぬとは、しつけの悪い犬と同じだな」

 皮肉を込めた物言いは初めて聞くきついもので、驚いてじっと見つめる。

「待ち時間があるのなら、聞ける相手を優先しようと思ったまでですよ。我々の時間も有限なのでね」

「食わせてもらわねば生きられぬさもしい犬が、一端の口を聞くものだ」

 有慈はずかずかと歩きながら細野に言い返し、私の隣に腰を下ろした。不機嫌を隠そうともせず、細野を睨む。

「話なら、妻ではなく私が聞く」

「もちろんあなたにもじっくりお伺いしますが、奥様にもお伺いする必要があるんですよ。捜査なので」

 細野はまるで挑発するかのようにソファの背に凭れ、だらしない姿で言い返す。さすがの無礼に私も思わず眉を顰めるが、隣の前田が必死で諌め始めたから、今は許すことにした。尻拭いも大変だ。

「奥様には私がお伺いしますので、よろしいでしょうか」

 手を挙げて許しを願いつつ、前田は私を一瞥する。

「私なら、大丈夫ですから。一昨日ここであったことをお伝えするだけです」

 隣を見上げて窺うと、有慈は溜め息をついて頷いた。

 改めて一昨日の話を前田に伝えながら、有慈の一方ならぬ苛立ちの理由を考える。おそらくだが、神光教事件ではないだろうか。既に脱会はしていたが有慈は教祖の息子だし、教祖の遺体は「消えてしまった」。どこで消えたのかは知らないが、現実的な常識に即した捜査をする警察は、他者の関与を疑ったはずだ。そこで有慈が疑われたのかもしれない。遺体隠しだけでなく、それ以上の関与を疑っていてもおかしくはない。

「なぜ、あなたを見て倒れたと? 以前に面識が?」

「いえ、全く。倒れた理由は、分かりません」

 有慈に聞いてはいるが、警察に話したところで不審がられるだけだ。

「飯山さんが口走った言葉は、分かりますか?」

「いえ。私は離れていたので、聞こえませんでした。でも教務部長なら、分かるかもしれません」

 そう言えば、私も聞いていない。有慈に呪いが見えたのだと聞いて、納得したきりだった。前田はメモに走らせていたペンを止め、有慈を一瞥したあと私を見る。

「最後に一つ。他意はないのでお答えいただきたいんですが、誰かに恨まれる覚えは?」

 相手が死人でも良ければ一人は確実にいるが、警察の望む答えではないだろう。

「ありません。もちろん、身に覚えのないものは分かりませんが」

 私の答えに頷いて、前田はメモを閉じた。ようやく終わった緊張の時間に、長い息を吐く。事情を聞かれたのは初めてだが、二度目がないことを祈る。

「私の話は外で話す」

 隣で腰を上げた有慈に、前田より早く細野が続いた。不敵な笑みを浮かべ、上目遣いで窺うように有慈を眺める。

「あなたのお話は、私がお伺いしましょう」

 不安しかない組み合わせに、思わず有慈を見上げた。「煽って怒らせたところを公務執行妨害で捕まえる」なんてことはさすがにしないだろうが、細野の態度はあまりに無礼で、不快そのものだ。

「駄犬の無駄吠えをあしらえぬほど馬鹿ではないから大丈夫だ。お前は業務に戻れ」

 有慈は笑みを浮かべて私の頬を撫でたあと、歩き出した細野に続いて部屋を出て行った。

「細野さんは、普段から誰に対してもあの調子ですか」

「すみません。クレームも来ますし、何度も注意は受けてるんですが」

 すまなげな前田の表情を見るに、職場でも手を焼いているのだろう。問題児を押しつけられた感じか。損な役回りだ。

「また何かありましたらご連絡させていただくと思いますが、よろしくお願いします」

「承知しました。飯山さんのためにも、できる限り協力いたしますので」

 元を正せば、飯山が山を下りることになったのは私の呪いが、瑞歩が原因だ。瑞歩の尻拭いをするつもりはないが、知らない顔はできない。熱意を抱いてここまで来たのに、どんな思いで……いや、そうか。自殺ではないのか。

「あの、答えられたらでいいんですけど、なぜ事件が疑われてるんですか?」

 ふと思いついて尋ねると、前田はドアの方を一瞥したあと、ずんぐりした身を乗り出す。応えて、私も少し身を乗り出した。

「死因は滑落中に負った頚椎の骨折と診られてたんですが、骨折が先だった可能性が出てきたんです」

「つまり、首の骨を折られたことで滑落に至ったのかもしれない、と」

 声を潜めた前田に合わせて私も声を潜めて返す。前田は、そうです、と返して姿勢を戻した。

 最初は事故だと思われていたくらいだから、飯山が抵抗した形跡はなかったのだろう。抵抗される間もなく首の骨を折るなんて、普通の人間にできることなのだろうか。

「どうかされましたか」

「首の骨を折るって、そんな簡単なことなのかなと思って」

「いや、簡単ではないですね。被害者に抵抗させる間もなく折ったと考えると、一般人には無理です」

 少し引っ掛かりのある言葉に、前田を見据える。「一般人には無理」か。

「夫を、疑っているんですね」

「容疑者というわけではないんです。ただ、こちらの教団が関わっていたことは事実です。そして、ご主人はあの神光教教祖の息子であり父親と同じように宗教の指導者となった点で、こういったことが起きた時にはスルーできない存在になってるんです」

 前田の弁解はまあ、致し方のないものだった。長吉に背負わされたものは、そう簡単に下ろせるものではない。有慈はもちろん、そんなことも分かっているのだろうが。

 長吉と有慈が全く違う教主なのは、何を為し、何を為していないかを見れば明らかなはずだ。俯くと、膝で組んだ手が固く拳を作っていた。

「個人的には、ご主人に子供の目を見えるようにしてもらった人を知っているので、あまり失礼なことはしたくないんですが」

 すまなげに零す前田に、ぱっと顔を上げる。

「そうなんですか。実は私も、長い間体調不良で苦しんでいたのを、夫に救ってもらったんです」

「ああ、やっぱり。日杜ひもりさん」

 前田は、厳つい顔を初めて笑みで崩した。やはり、前田もなんとなく気づいてはいたのだろう。

「小学校の時、入院した時に見舞いの色紙を書いた覚えがある。中学校の時も休みがちだったから、大変だなと思ってた」

「入院したり手術したり、原因不明の熱が収まらなかったりで、あの頃はずっと体調が悪かった。大学一年の時に、心配してくれた友達に負けてここの集会に行ったの。そこで夫に救ってもらって、やっと普通に生活できるようになった。今はもう、走っても跳んでも大丈夫だよ」

 朝起きてもどこもつらくないし、夕方になっても熱が出ていない。走っても飛び跳ねても、息苦しさに倒れることもない。有慈に出会うまで、世の中はつらく厳しい場所だった。楽しいことや美しいものがあるのは分かっていても、それを味わうだけの余裕が私にはなかったのだ。でも今は、日々の食事や移り変わる窓外の景色を楽しめるようになった。まさかこんな日が来るとは、思っていなかった。

「そうか、元気になって良かったな」

 ほっとした表情を浮かべる前田に、笑みで頷く。

 世間の大多数は有慈を「怪しい新興宗教の教祖」か「神光教教祖の息子」としてしか見ないだろうが、ちゃんと知ってくれている人はいるのだ。

「じゃあ、俺もあっちに行くよ。多分、ものすごく殺伐としてると思うから」

「うん。よろしくお願いします」

 前田は腰を上げ、部屋を出て行く。

 思わぬ再会だったが、おかげで少し気持ちが楽になった。一人置いていかれていたら、あの二人のやり取りを想像して落ち着かなかっただろう。

 腰を上げてデスクへ戻り、椅子を回して雨に濡れる山の緑を眺める。日差しに輝く緑もいいが、洗われて鮮やかになる雨の緑もいい。

 季節の移り変わりなど気にしていられなかったあの頃の私を抱き締めて、もうすぐ救われるのだと教えてやりたい。きっと信じないだろうが、奇跡が起きるのだ。奇跡、か。

 今はもう誰もいない腹を撫で、椅子の背に凭れる。

 胸にある願いを反芻して、目を閉じた。

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