第16話

「今日、入ったばかりの信徒がいただろう」

 有慈がその話題を口にしたのは夜、いつものように向き合って夕食の膳を味わっている時だった。

「はい。私のところへ挨拶に来たのですが、顔を見た途端に倒れてしまって。大丈夫でしたか」

「ああ。目覚めたあとに山を下りたと報告を受けた」

 予想外の内容に、高野豆腐へ向けた箸が止まる。修行者の下山は珍しいことではないが、入った当日に下りるのは初めて聞いた。

「お前に掛けられた呪いが見えてしまったようだな。見える者には仕方のないことだから、気にしなくていい」

 有慈はまるで気にする様子もなく、汁椀を傾ける。そうはいっても、彼女は信仰への熱意を持ち難関をくぐり抜けてようやく本部へ入ったはずだ。それが、すぐに下りるとは。私にそれだけの何かが見えたとしか考えられない。

「昨日の夜もですが、どうして呪いが私に近づけるんですか。ここは結界の内なんですよね?」

「ここに張っている結界は、取るに足りないものをまとめて弾くためのものだ。九割方はそこで弾かれて入ってこられない。残りの一割はすり抜けてしまうほど強いものだが、結界の強度をそこに合わせて張り続けるのは消耗が激しいのだ。それなら、すり抜けて入ってきたものに個別対応する方が良い」

 確かに、その方が合理的だ。すり抜けるほどの呪いなんて、よくあるものではないだろう。いつ来るか分からないもののために有慈が日々消耗するのは、私も望まない。ただ、これで分かったこともある。

「あれは『結界をすり抜けるほど強い姉の呪い』で、間違いないですか」

 改めて煮物の鉢を持ち上げ、しいたけをつまむ。高野豆腐としいたけ、人参、旬の筍を煮込んだ一品は、味だけでなく食感の違いも楽しめる。今メインで調理を担っているのは、京都の日本料理店で働いていた板前らしい。

「そうだろうな」

 認めた有慈に頷いて、煮汁をたっぷり吸ったしいたけを口に運ぶ。まろやかな出汁の風味を味わいながら、有慈を窺った。優雅な所作で箸を運ぶ姿はいつもどおりで、なんの動揺も見られない。それは十分に対応できるから、なのだろうが。

「姉の呪いは、あの像に掛けた願いによるものですよね?」

「ああ、おそらくそれは間違っていない。ただ、何が呪いの力を削いだのか。身に覚えはないか? 何かしら、お前を助けるような存在だ」

 有慈は飯碗を手にしながら、私の質問に返す。少し、意外な答えだった。

「あなたでも、分からないことがあるんですね」

「私にできるのは一般的な原因に起因する病の霊視と癒やし、あとは守りだ。それ以外には長けていない。呪いを原因とした症状への対処療法と結界ならできるが、解呪を必要とする根本療法は荷が重い。お前のものはどうにかしようとしているが」

 そうだったのか。

 有慈の能力について尋ねるのは値踏みをするようで、なんとなく下世話な気がして避けていた。勝手に万能感を持つよりは、ちゃんと聞いておくべきだったのかもしれない。

「ごめんなさい。いろいろな相談を受けているから、てっきり全てに対処可能なのかと思っていました」

「解決は難しくとも、相談になら乗れるからな。だから呪いに関しても、知識だけはある」

 確かに、情報を得るだけでも救われる信徒はいるだろう。それはさておき、だ。

「私を助けてくれるとしたら、祖母でしょうか。祖母は姉とのことを心配していましたし」

「祖母か」

 有慈は頷いて、少し考えるように間を置いた。

「何か、分かりますか」

「いや、血族の守りは良いものだと思ってな」

 ああ、そうか。有慈の父親はあれだし、母親は有慈を産むためだけに選ばれた人だ。祖父母には、縁を切られていたのかもしれない。

「私、この前ホテルで眠る時に話してもらったこと、ほとんど覚えてないんです。大事なお話を聞いたと思うんですけど」

「気にしなくていい。取るに足りぬことだ」

 いつもどおりの大人しい表情と声だが、少し突き放されたような気分になって寂しい。でも話したくないと分かっていることを無理やり聞き出すのは、よろしくないだろう。

「そうですね。でも、もし話したくなったら、聞かせてください。私があなたの傍にいて楽になったみたいに、あなたにも楽になってほしいので」

 私達の間にあるものがなんであっても、有慈に恩を感じているのは事実だ。妻としてできることはしたい。

「そうだな。いつか、全て話せる日が来ればいい」

 有慈は頷いて、汁椀を傾ける。表情は見えなかったが、笑んでいることを願った。


 眠る前、有慈は私に結界を張ってくれた。これでもう、昨日のようなことは起きなくなるらしい。すっかり安堵して眠ったが、結局跳ね起きた。いやな夢を見たのだ。どうして、あんな夢を。

「どうした、大丈夫か」

 隣から声がして、温かい手が伸びる。

「大丈夫です。ただ、すごくいやな夢を見てしまって」

 溜め息をつき、引き寄せる手に逆らわず再び腕の中に収まった。

「祖母が、黒い海に呑まれていく夢でした。私を呼んで手を伸ばすんですけど、届かなくて」

 夕飯の時に、祖母の話をしたからかもしれない。でもそれで、よりによってあんな夢を見るなんて。溜め息をついた私を、有慈は抱き締めて頭を撫でた。

「少し神経が過敏になっているのだろう。大丈夫だ、夢はただの夢でしかない」

 宥める声に耳を傾けた途端、眠気が襲ってくる。もしかしたら、これも有慈の力なのかもしれない。ゆっくり休め、と聞こえたのを最後に、眠りに落ちた。

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