第15話
なんとなく感じた寝苦しさに目を覚まし、有慈を起こさないように腕の中から抜け出す。スマホに確かめた時刻は二時過ぎ、静まり返った夜の中で虫の声だけが響いている。額を拭うと少し汗ばんでいたから、それだけ夜も暖かくなってきたのだろう。熱の冷めた肌に寝巻きを着て、トイレへ向かった。
本殿に住んでいるのは私と有慈だけで、ほかの職員や修行者達はみな宿舎だ。宿舎は見た目も中身も現代的な作りだが、本殿や拝殿の外見は一般的な神社と変わらない。でも中身はトイレもあれば風呂もある近代的な作りだから、たまに秘密基地に住んでいるような気分になる。穏やかな色で点る壁の照明を眺めた時、ふと背後に何かを感じた。
思わず振り向いたが、誰もいないし、いるわけはない。ここは私達二人だけだし、夜間は警報システムも作動している。誰も駆けつけないのは、誰もいないからだ。
ホテルでの一幕や瑞歩達の部屋で感じた気配のことを思い出すと、ぞっとする。せっかく忘れていたのに、やめてほしい。小走りで、逃げるように奥へ向かった。
辿り着いて洗面所の照明を点けると、洗面台の鏡が目に入る。髪が乱れ憔悴しきった表情に苦笑し、髪を整えながらトイレへ入る。
ここはあのホテルでも瑞歩達の部屋でもない。それに、ここには有慈がいる。傍にいれば何も起きない。大丈夫、大丈夫だ。
いやなことを考えないようにして済ませ、トイレを出る。安堵しつつ再び洗面台へ向かい、すっかり眠気の覚めてしまった顔を鏡に映した。
少し、痩せたかもしれない。なんとなく、目が昔の大きさに近づいた気がする。ここのところの心労が祟ったのだろう、頬も少し痩せたように見えた。このままだと、見た目年齢が有慈と逆転する日も近いかもしれない。有慈が特殊なのは理解しているが、十八歳差が覆るのはちょっとショックだ。老いの兆候を探しながら溜め息をついた時、鏡の中の私が私を睨んだ。
ひゃっ、と変な声が出る。飛び退くように遠ざかり、鏡をじっと見据えた。そこにいるのは確かに寝巻きを着た私なのに、映っているのは私ではない。恨めしげに睨みつけているあの顔は、瑞歩だ。やっぱり、狙いは私だったか。
「今更、私になんの恨みがあるの」
恨みなら、私の方が勝っているはずだ。恐怖を抑えて言い返すと、急に体が重くなり、強い力で床に押さえつけられる。骨のあちこちが軋む音がした。
「私から、欲しい、ものは、全部……痛っ!」
負けずに言い続けようとしたが、肩の辺りから鈍い音がして激痛が走る。じわりと全身に汗が浮かんだ。荒い息を吐き、唇を噛む。
私が大切にしたものは、全て奪ったはずだ。それでまだ、私から何を奪おうというのか。殺したいほど、私が憎まれることをしたとでも? そんなわけがない。
「あんたに、なんか……に、負け……ない」
死んでも命乞いなどしない。今はもう、労りたい祖母もいない。瑞歩に屈すべき理由なんて、一筋もないのだ。
負けてたまるか。
決意を新たにして鏡の中の瑞歩を睨みつけた時、右手の人差し指があらぬ方向に曲がり始める。私の意志とは別に少しずつ持ち上がっていく指に、唇を噛み締めた。すぐに殺さないのは、わざとだろう。私が許しを乞うのを待っているのだ。冗談じゃない。
一息つき、曲がりつつある人差し指をじっと見据える。
戻れ、戻れ。
胸の中で強く念じると、少しだけ戻った気がした。でも、いける、と思った次にはさっきより更にきつい角度を描いていた。より強い力で逸れていく指に歯を食いしばった瞬間、何かが割れる鋭い音が響く。ふっと体が楽になり、折れんばかりに反っていた指も元に戻った。
助かった、のか。
汗の滴る額を撫でて、ふと気づく。さっきまで確かに感じていた肩の痛みが消えていた。起き上がり、肩を回してみるがなんともない。有慈が助けてくれたのだろうか。
でも振り向いた先の廊下は静まり返っていて、誰かがやってくる気配はなかった。力を使って助けてくれたのなら、駆けつけていてもおかしくないのに。結界の効果が切れていたとか、そういうことか? 分からない。そもそも、有慈がこんなに近くにいるのに出るなんて。
汗ばんだ顔を洗うべく腰を上げて、鏡が割れていることに気づく。さっきの音は、これだろう。まるで銃弾でも打ち込まれたかのように、ひびが拡散していた。多分、これが私を助けてくれたのだろう。有慈ではないとしたら、誰だ。
割れた鏡に映る私はもう、正しく私なのか。一体、何が起きているのだろう。
洗面台に散らばる鏡の欠片に、顔を洗うのを諦めて部屋へ戻る。部屋では、有慈が安らかな寝息を立てて眠っていた。
――これは、珍しいな。
翌朝、有慈は鏡に残る痕跡を確かめて呟くように言った。でも、それだけだった。考え込むような難しい表情で洗面所を出て、そのまま仕事の部屋へと入ってしまった。
ちなみに、結界はちゃんと張ってあったらしい。それなら外から干渉すれば弾かれていただろうし、ホテルの時のように有慈も気づいたはずだ。原因が結界の内側にあったと考えるなら、浮かぶのは昨日持ち帰った像だが……ここは有慈の見解を待つしかないだろう。
確認し終えた資料を置き、椅子に凭れて眉間を揉む。昨日は結局、あのまま朝を迎えた。目を閉じると目の裏に恨めしげな瑞歩の表情が浮かんで、眠れなかったのだ。
望んだ仕事に広い家、わがままを聞いてくれる愛情深い夫。
それだけのものがあって、まだ何が必要だったのだろう。まあ持つ者ほど欲深いとも言うから、欲しくもないくせに「新興宗教教主の妻の座」を妬んだのかもしれないが。
しっくり来ない答えに腰を上げ、コーヒーを淹れに向かう。
ドアを叩く音に返事をして視線をやると、専用の装束をつけた教務部長が顔を出す。ほかの職員は動きやすさ優先でスーツやそれに準じた服装だが、教務部だけは有慈に準じた白い装束だ。私のところに来るのは大体、予算案を差し戻しした時の抗議か、新しく修行者が入った時の紹介の二つだ。今日は後者らしく、背後に誰か連れていた。
「新しい修行者が入りましたので、ご紹介に上がりました」
いつもどおりの丁寧さで、教務部長が頭を下げる。有慈と同じ年頃のはずだが、有慈の容姿が変わらないせいか老けて見えてしまう。上品な顔立ちも、痩せて骨が目立つせいで少し貧相に感じた。
「そうですか、ありがとうございます」
答えて視線をやると、教務部長の背後から五十辺りに見える女性が一歩進み出る。意を決したように顔を上げて私を見た瞬間、その表情が引きつった。目を見開いてこちらを凝視し、掠れた声で何かを呟いたあと倒れ込む。
教務部長は崩れ落ちる女性を支えながら、駆けつけた私をじっと見据えた。
「とりあえず、救護室へ運びましょう」
「はい、ただいま」
私の声に、教務部長ははっとした様子で女性を抱え上げる。私が開いたドアをくぐり、救護室へと急いだ。
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