第18話
細野と前田は、結局あのあと教務部長のところと救護室を回って帰っていた。私も飯山があの時何を呟いたのか知りたかったが、有慈いわく「掠れ声で聞き取れなかった」らしい。
「飯山さん、私の呪いに襲われて亡くなったとか、そういうのはないですか」
「それはないだろうな。呪いは、呪った相手に作用しなければ意味がない。相手の周囲を不幸にする呪いであっても、まず狙われるのは配偶者や子供など身近で親密な存在だ。一度対面しただけの相手を殺したところで、言葉は悪いがダメージは少ない」
そう言われたら、確かにそうかもしれない。頷いて、久し振りのカレーライスを口に運ぶ。給食のカレーを思い出すが、それより少し香り高くてさらりとしている。基本的な具に加えて、今日は筍入りで歯ざわりがいい。肉の代わりに使われている麩は、噛み締めると旨味をたっぷり含んだルーが染み出してくる。個人的には、カレーライスが一番好きなメニューだ。
「旨そうに食べるものだな」
よほど表情に出ていたらしい。向かいで、有慈がスプーンを止めて笑んでいた。
「ここのカレー、大好きなんです。旬に合わせて具材が変わるし、お麩もおいしいし。カレー以外も、おいしいものたくさんありますけど」
後口を麦茶で流し、残り少なくなってきたカレーにまたスプーンを差す。
「一日の仕事を終えたあとのごはんがおいしいって、幸せですよね。夕方頃になると『今日は何かな』って、ちょっとそわそわしてしまいます」
朝と昼はあっさりとしたものだから、余計に期待してしまう。
体調を崩していた時は胃が受け付けなくて食べられないものが多かったが、今はもうなんでも食べられる。それを確かめられるのも、嬉しさの理由なのかもしれない。
「あなたのおかげで、今はもう、なんでもおいしく食べられます。ありがとうございます」
「持つ者として、当然のことをしたまでだ。礼は要らない」
有慈は緩く頭を振り、カレーを口に運ぶ。あまり表情が変わらないから、おいしいのかどうかが分からない。好みを話すと皆がそれに合わせるようになるから避けている、と以前話していたが、好きなものを言えないのは寂しくないだろうか。
「でも、お前に言われるのは嬉しいものだな。お前を救えて良かった」
品の良い手つきで口元を拭ったあと、私を見て穏やかに笑んだ。
この雰囲気なら、切り出しても大丈夫かもしれない。最後のカレーを食べたあと、麦茶を飲んで気持ちを整える。それでも上がっていく心拍数に、あの、と切り出して少し間を置いた。
「私、やっぱり、子供が欲しいと思うようになったんです。この前のことで、自分の中にそういう気持ちがあったことに、気づいて」
「お前が欲しいのならそうしよう。私は元よりどちらでも構わない」
意を決しての告白だったのに、答えはあっさりとしたものだった。また、あの日の感覚が蘇る。
――特に珠希ちゃんの旦那さんは教祖なんでしょ。そういう感じは強いんじゃないかなあ。
急に抱いた距離感に、宗市の言葉を蘇らせる。きっと、考えていないわけではないのだ。共感に乏しいのは、隠されている子供時代が関係しているのかもしれない。
「子供が欲しいと、思ったことはないんですか」
「ないが、欲しくないと思ったこともない。お前の人生に必要なら産めばいい。父親としてできる限りのことはする」
まるで、認知を求めた愛人に義務で応えているかのようだ。感情が見えない。産めば、愛情は湧くのだろうか。
「分かりました。ただ、九年経ってもできていないので不妊治療が必要なのではと思ってます。だから、検査をした方がいいと思うんですが」
「いや、その必要はない。命そのものを生み出すことはできぬが、生殖機能を癒やせば子は宿る。不妊の問題で癒やしを授けた信徒は、ほぼそれで子を成している」
有慈は食べ終えたスプーンを置き、麦茶のグラスを掴んだ。
そういえば、近年は各支部報に毎号出産報告の写真が掲載されている。それだけ悩む夫婦が多いのだろう。瑞歩達も知っていれば、とふと思ったが、まあ瑞歩は子供ができると分かっても新興宗教に入信なんてしない。
「お願いしたら、すぐ?」
「概ね、次の周期かその次の周期でできている」
そんなにすぐ、叶うものなのか。急にざわつき始めた胸に、溜め息をつく。大丈夫だ。これまでになかったものが湧いたことには、きっと意味がある。
「お願いします」
私にとっては人生で一番重い決断だが、有慈はやはり変わりがない。
「分かった。では、閨で」
いつもどおりの表情で受け入れて、少し密やかな笑みを浮かべた。
有慈の力を受けたのは、十九歳で再会した時以来だ。てっきりこれまでのように額に触れるのかと思ったが、有慈は私の寝巻きを解いて直接子宮の辺りに触れた。額に触れられた時は清らかな水が全身を洗い流していくような感触だったが、今日は熱が少しずつ沁み込んで、ずっとそこに留まった。そのあとのセックスは、これまでにない強烈な感覚だった。
響き始めた太鼓の音に、はっとする。それとなく周囲を見やったあと、居住まいを正して視線をまっすぐ前にやった。
祭祀長が太鼓に合わせて祈祷を始めた向こうには御簾が垂らされ、その奥には有慈が鎮座している。毎週土曜朝に行われる祈祷は教団で一番大きなもので、本部にいる全職員と全修行者が集まる。拝殿の内には私と各部門の役職が座し、ほかの者達は外で起立だ。この日は全員が統一された白装束を身に着けるから、壮観ではある。
普段一緒に生活していると忘れそうになるが、教団にとって有慈は現人神の扱いだ。
まあ普通の人間は心眼で生活したり触れるだけで病を治したり懐妊させたりできるわけがないのだから、間違ってはいないだろう。教団のパンフレットにも『幼少期に力を与えられ神となる』と書いてある。でも肝心のその時の話は書かれていないし、語られてもいないのだ。ネットで調べても有慈本人については『神光教教祖の息子』『現人神とされている』程度のものしかない。
――そうだな。いつか、全て話せる日が来ればいい。
私も、本当にそう願っている。
祭祀長が
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