第13話

 来週の予定を決めたあと、私は父の迎えを待って実家へ向かい、宗市はクリーンセンターへ向かった。祭壇の一式は慎重に梱包して段ボールに詰め、言いつけどおり持ち帰る。

「いいとこに住んでてびっくりしたよ。四十九日が済んだらワンルームに引っ越すらしいけど」

「瑞歩の言いなりだったみたいだからな」

 父は台所から麦茶のペットボトルとグラスを持ってくると、座卓の上に置く。向かいにどさりと腰を落とし、早速それぞれに麦茶を注いだ。

 久し振りに足を踏み入れた実家は、玄関も居間も驚くほど片付いていた。自分の生活に不要なものを処分したのだろう。私にはできなかったことだ。

「お姉ちゃん達と、どれくらいの頻度で会ってたの?」

「結婚式の次が葬式だ。あいつは俺を親だと思ってなかったからな」

 驚いて父を見たが、私はもっと会っていなかったことを思い出して視線を逸らす。差し出された麦茶を、黙って飲んだ。

「早速なんだけど、あの祭壇はお姉ちゃんの部屋にあったの。ウォークインクローゼットの一番奥に。夫にも同じ画像を送ったんだけど、神光教の祭壇なのは間違いないみたい。ただ、生きてるから願掛けを受け入れた状態だろうって」

「瑞歩が自分の命を犠牲にして願掛けしたってことか」

「そうじゃないかな。夫は呪いの質だって言ってたし……私も、心当たりがあるの」

 向かいから鋭い眼光で圧を掛ける父から視線を逸らし、麦茶のグラスを傾ける。ほろ苦さで喉を洗ったあと、一息ついてホテルでの一幕を報告した。父は信じられないような表情で聞いていたが、翌朝実際に痕が残されていたことを伝えると、渋い顔でようやく頷いた。

 かつて私が救急外来で有慈に救われた話は、祖母から伝わっていなかったのか、全く信用されなかった。でも今回はホテルに問い合わせればすぐに分かることだ。これで少しは、見えない世界の話も信じるのではないだろうか。

「でも、今の私にお姉ちゃんが命を懸けて呪い殺すような理由はないと思う。欲しいものは、全部私から奪っていったんだもん」

「旦那の顔見て嫉妬したんじゃねえのか」

「確かに顔は抜群にいいけど、それで命捨てるほど嫉妬する? 世間一般から見たら、宗市さんの方が優良株でしょ。それに、お姉ちゃんは『新興宗教教祖の妻』や『俗世間から離れた山の中での暮らし』を馬鹿にはしても、羨ましいなんて思わないよ」

 姉が欲しがるものは、羨望の視線をより多く集められるものだけだ。羨ましがられる家、一目置かれる夫、憧れられる暮らし。間違っても「あの人のご主人、新興宗教の人らしいわよ」と言われる人生ではないだろう。

「理屈で考えりゃそうだが、人間はそれほど頭がいい生きもんじゃねえからな」

「まあ、そうだけど。それで私は、お父さん達が離婚する前に何か恨まれるようなことがあったのかなって思ったんだけど」

 話を振ると、父は途端に暗い表情で俯く。麦茶のグラスを、握り潰すように両手で掴んだ。

「それはねえな。あの頃のお前に、あいつが羨む要素なんか一筋もねえよ」

 低い声で零し、残りの麦茶を一息に飲み干す。荒い息を吐いたあと、硬い音を立ててグラスを置いた。そのまま、まるで固まったかのように動かなくなる。よほどのことがあったのは察せて、不安につばを飲み込んだ。

「さっき、祭壇見て思い出したって言っただろ」

 やがて、重い声がのたりと切り出す。

「ああ、うん。鉄格子みたいなものに入れられた、祭壇が見えたの」

「あれは、祭壇が鉄格子の中に収められてたんじゃねえ。お前が、ペット用ケージの中に入れられてたんだよ」

 私が、ケージに? 何を言われているのか分からなくて、胸の内で無意味に繰り返す。いつの間にか早鐘を打っていた胸を押さえて息を吐くと、震えていた。

「抱えてた仕事がすんなり片付いて、単身赴任先から早めに帰った日があった。そん時に、見つけたんだ」

 父は黙りこくった私の向かいで麦茶を手酌で注ぎ、呷るように飲む。私も喉は乾いていたが、体がうまく動かなかった。

「お前は三歳を過ぎてもろくに喋らなかったし、歩けなかった。俺と目を合わせることすらなかった。母さんは病院に行ってるって言ってたから、そういう子なんだろうと信じてた。殴ったような痕もなかったし、極端に痩せてるわけでもなかったしな」

 父にも祖母にも、私が幼い頃の話は聞いたことがない。言わなかったのではなくて、言えなかったのか。初めて知る事実に溜め息をついた時、いや、と短く否定するような父の声が聞こえた。

「どっか、おかしいとは思ってた。ずっと違和感はあった。だからあの日、母さんに連絡せず早く帰宅したんだ」

 苦しげに歪められた表情は、瑞歩の葬儀の日、最後に見たものとよく似ていた。

「離婚して引き取って数年経った頃、ばあさんがお前には昔の記憶がないと言ってた。それなら、このまま死ぬまで思い出さなきゃいいって願ってたんだけどな」

 父は溜め息をついて、背を丸める。項垂れた頭に増えた白髪を見て、老いを感じた。これほど家族を犠牲にして続けた仕事は、父を幸せにしてくれたのだろうか。

「ばあさんはよく、お前はその頃のストレスで体調を崩すんだろうと言ってたよ。本人は覚えていなくても、体や心は覚えてるからな」

 確かに、そうかもしれない。体調を崩し始めたのは確か小学四年の頃だ。「普通の」生活に慣れてもう大丈夫だと感じたから、ストレスが症状として現れ始めたのだろう。心の衝撃を和らげるように、体に。

「うちの祭壇は、どこにあったの」

「押し入れの下段だ。俺が帰る日は、手前に収納ケースを置いて隠してた。普段は襖を開けて、いつでも拝めるようにしてたんだろうな」

 そして私は、その前に置かれていたケージに入って、集会に出掛けた母達が戻るのを待っていたのか。いや、多分集会の時だけではなかっただろう。私は、確実に母には愛されていなかった。では、瑞歩はどうか。

「お姉ちゃんが、神光教のことを一切言わなかったのはどうして」

「もし周りに話したと分かったら、俺が捕まえなきゃいけなくなるって脅したからな」

 なるほど、それなら確かにあの瑞歩でも黙るだろう。瑞歩の性格なら母が死んだことと合わせて「あの事件の生き残りなの」と言って注目を集めそうなところが、不自然なほどそちらだけを隠していた。

 ――お母さんが好きだったのは、私だけ。あんたはお母さんに全然かわいがられてなかったから、お父さんに渡されたんだよ。

 瑞歩は、負け惜しみで言ったわけではないだろう。ああでも言わないと、やってられなかったのだ。

「お母さん、集団自殺の日にお姉ちゃんを犠牲として捧げて、新しい人生を手に入れようとしたんだって。でもお姉ちゃんが『私にちょうだい』って奪って生き残ったらしいよ。結局、どっちの娘も愛してなかった。お母さんって、どんな人だったの?」

 「母親」の存在は知っているが、本物を知らない。私が母親のように感じていた祖母は、母親とは違う存在だったのか。本物を知れば、分かるはずだ。

 父は長い息を吐いたあと私を一瞥し、また麦茶を注ぐ。

「元々は、いいとこのお嬢だった。実家は、銀座の商売人でな。バブル期には無茶な経営をして不動産業にまで手を出してた。バブル崩壊とともに実家も崩壊だ。短大を出て『家事手伝い』名目で遊んでたあいつも、急転直下の没落ぶりでな。俺が会った時は、深夜のコンビニでバイトしてた」

 電車も走らない田舎で生まれ育った私には、「銀座生まれ」がどれくらいの金持ちなのか分からない。でも、きっとすごい金持ちなのだろう。私の周囲ではコンビニバイトはごく普遍的な選択肢だったが、母にとっては屈辱的な選択肢だったのかもしれない。

「当時は二十四か五だった。化粧っ気がなくてやつれた雰囲気でも、目だけはギラついててな。ここから連れ出してくれる男を探してるんだろうなと思ってた。で、多分俺が、店に来て声掛ける男の中で一番まともだったんだろう。異動でもう来られねえって言ったら、連れて行ってくれって。それで連れてって結婚した」

 そんなあっさりと、と思ったが、私の結婚だって似たようなものだ。人のことは言えない。こんなところは別に、似なくても良かっただろう。苦笑して、ようやく麦茶を啜った。

「俺との結婚で『人生をやり直す』と言ってた。『本当の自分を取り戻す』ともな。周囲には銀座生まれのお嬢であることは話しても、実家が没落してコンビニバイトしてたことは話さなかった。実家の親とも縁を切って、死んだことにしてな」

 瑞歩の性格は、もしかしたら母譲りだったのかもしれない。虚栄心が強く、プライドが高い。一緒にいるうちに似てしまったのか、元々似ていたのか。だとしたら、姉と性格の違う私は、父に似たのだろうか。嬉しくはない。

「でも、続かなかったんだよ。大学に編入したけど辞めて、次に美容系の専門学校に行ったけど結局辞めた。周りがみんな若いとか、馬鹿にされるとか言ってな。口を利いた事務職も続かなかった。作家や絵描きにもなりたがってたな。でもどれにもなれなくて、結局子供産んで専業主婦になるとこで落ち着いたんだ」

「努力嫌いだったの?」

 とっかえひっかえ、まるで良い部分だけで選んで失敗しているような雰囲気だ。どこにいたってどんな職業だって、継続的な努力が不要な場所はないだろう。

「というより、自分の実力をだいぶ上に見てたんだろ。お嬢でチヤホヤされて育ったし実家は金持ちだから我慢してねえし、バブル期は男が女に傅いてた時代だ。周囲に与えられてたもんを、自分が得たもんだと思ってた。だから、環境さえ整えばなんでもできると思ってたんだろうよ。理想と現実の差がありすぎた。夢破れて結婚してみれば家はボロい2DKだし、旦那は単身赴任でほとんど帰ってこねえしな」

 それで、こんなはずではなかったと現実に打ちひしがれて、宗教にハマっていったわけか。

 ――お酒飲んだらよく、『こんなつもりじゃなかった』『私の人生はめちゃくちゃになった』って言ってた。

 やっぱり、瑞歩と似ている。もしかしたら、あのセンスのなさは母譲りだったのかもしれない。

「あいつはその解決を俺と話し合うんじゃなくて、宗教に頼った」

「話し合ってどうにかなるもんじゃなかったんでしょ」

「まあな」

 即答に、グラスを握ったまま溜め息をつく。父には、分かっていたはずだ。

「なんで結婚したの? ただ付き合ってるだけで良かったじゃない。結婚なんてしなくても、ましてや子供なんか作らなくても」

 妻を、子供を犠牲にすると分かっていて、なぜその道を選んだのか。

「真っ当に生き抜くための理由が欲しかったんだよ。信念を曲げねえ理由がな」

「そんなもの、刑事の仕事があれば十分だったんじゃないの」

 社会を守る正義の番人だ。確かに不祥事を聞くこともあるが、そんなのは一部の人間だろう。

「なかったら俺は多分、道を踏み外してた。ヤクザあいつらは、心の隙を突くのが抜群にうまい。宗教みてえなもんだ」

 父は低い声で返したあと、麦茶を飲み干してグラスを置いた。

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