第11話

 GWの後半から降り始めた雨は、今日まで続くらしい。前回は駅前からタクシーに乗ったが、今日は駅南から宗市の車に乗った。

「旦那さん、大丈夫だった?」

「うん。『行ってくればいい』ってすんなり」

 どう伝えるべきかとひとしきり考えを巡らせたが良い案もなく、諦めてそのまま伝えたのは一昨日だった。何かしら苦言を受けるかと身構えていたが、有慈はあっさりと了承した。念の為に結界を少し強くしておく、と言い足されたくらいだ。

「そっか。確かにあれこれ言いそうな人じゃないね。ケンカする?」

「しない。でも、今ちょっとぎくしゃくしてるとは思ってる、私は」

「えっ」

 私の答えに、ハンドルを握ったまま宗市がこちらを一瞥する。その表情や雰囲気は昔のまま変わらないのに、見た目は本当に変わった。私はぽっちゃりとしたあの見た目も気に入っていたが、本人的にもこちらの方が良かったのかもしれない。

「もしかしてこの件で?」

「違うよ。そうなら言ってる」

「まあ、そっか。珠希ちゃんは言うよね」

 宗市はシャープになった横顔に笑みを浮かべながら、国道を左折して県道に入る。あの頃には気づかなかったが、頬にえくぼができていた。

「答えたくないならいいんだけど、子供ができなくてケンカとかぎくしゃくとか、あった?」

 控えめに切り出した私に、宗市は驚いた様子もなく頷く。

「しょっちゅうだったよ。うちは僕にも瑞歩にも問題はなかったのに、なぜかできなくてね。結婚三年目から不妊治療を始めて、結局六年くらいしたかな。夫として踏んだらいけない地雷は、ほとんど踏んだ気がする。最初の頃は特に、なかなか瑞歩の気持ちに寄り添えなくて傷つけてばかりだったな」

 苦笑交じりの答えに、なんとなく背中が寒くなる。もしうちがこれから六年治療を続けたら、私は三十五歳で有慈は五十三歳だ。それでもまだ、うまくいかないこともあるのか。どこで諦めればいいのだろう。どこまですれば、諦めがつくものなのか。

「不妊治療するって決めた時に『検査するよ』って言われたから『がんばってね』って励ましたら、『あんたもするんだよ!』って叱られた。で、『えっ、僕も?』って言っちゃってね。大変なことになった」

「『でしょうね』としか言えない」

「でも、分からなかったんだよね。今思うと当事者意識が足りなかったんだと思う。妊娠や出産って男には完全に未知の領域だから、我が身で行われる女性とはスタート地点で既に覚悟が雲泥の差なんだよね。だから、『あんたの子供だろ!』ってよく詰められたよ」

 苦笑しつつも懐かしそうに瑞歩の話をする姿に、確かにあったらしい愛情を確かめる。有慈は多分、私が死ねば掻き抱いて泣くような気はする。でも、とぼんやりと浮かんだものは、見ないふりをした。

「うちの夫も、そんな感じなのかもしれない。うちはまだ不妊治療はしてないんだけど、うまくいかなくて。私はショックだったのに、夫は『つらかったな』って他人事みたいに言うし、『子供には次がいる』って。それで『あなたの子供ですけど?』ってなって、そこからぎくしゃくしてる、私が」

 私だけが引きずって、私だけがぎくしゃくしている。有慈はまるで気にしているようではない。この差は、宗市の言うような夫婦の意識の違いによるものなのか。

「珠希ちゃんは、一緒に悲しんでほしいと思ってるんだよね。でも、夫って妻が弱ってると『慰めなきゃ』がどうしても先に立っちゃうんじゃないかな。妻が弱ってたら、守るためには自分がしっかりしなきゃって考えちゃうし。特に珠希ちゃんの旦那さんは教祖なんでしょ。そういう感じは強いんじゃないかなあ。まあ勝手な想像だけど」

 宗市の分析は、確かに一理ある。有慈が慌てたり動揺したりするところを一度も見たことがないのは、責任感の強さによるものだろう。妻の私でも、何が弱みなのかを知らない。

「そうかもしれない。ありがとう、ちょっと楽になった」

「それなら良かった。妊娠出産関係は、夫婦の溝ができやすいって聞くからね。お互いちゃんと愛情はあるのに、捉え方や考え方のせいでうまく伝わらないのは残念だから。うまくいくといいね」

 少し寂しげな笑みを浮かべて、宗市はマンションの敷地へと車を入れる。閑静な住宅街の一角にある低層マンションは、見るからに高級そうな場所だった。


 宗市達の部屋は最上階である三階の角部屋、よりによって一番高そうな部屋だ。大理石のタイル貼りのエントランスは磨きに磨かれていたし、エレベーターや通路も美しく保たれている。辿り着いたドア前で振り向くと、居住者専用らしい中庭にはガゼボまであった。

「下世話なことを聞くけど、家賃どれくらいなの」

「十二万に共益費や管理費なんかを入れて、実質十四万くらい」

「田舎の値段じゃないね」

 苦笑して、開かれたドアの内へと足を進める。おじゃまします、と玄関へ入った途端、背筋にぞわりとしたものが走った。思わず振り向いたが、そこには重厚なダークグレーの扉があるだけだ。……なんだ、今のは。

「どうぞ、入ってくれたらいいよ」

 許しを待っていると誤解したらしい宗市が、リビングへ向かいながら招き入れる。

「ああ、うん」

 こめかみにじわりと浮いたいやな汗を拭い、靴を脱いで低い上がり框を越えた。

 日当たりの良い二十畳ほどのリビングダイニングの一角に、小上がりになっている和室がある。その隅には小さな祭壇が作られ、納骨を待つ瑞歩の骨壺と遺影が置かれていた。

 礼儀として一応、骨壺に収まった瑞歩とその遺影に手を合わせる。相変わらずいやになるほど似ているから、今日は少しメイクを変えた。その場しのぎだが、違うと思えることが重要なのだ。

 一息ついて腰を上げ、背を向ける。ふと感じた気配に勢いよく振り向くが、当然誰もいない。祖母の葬儀の時、僧侶が四十九日までは魂がこの世にいると話していた。だとしたら、瑞歩はまだここにいるのではないだろうか。

 既に帰りたくなった胸を切り替えて、宗市の元へ戻る。

「それで、私は何を手伝えばいいの?」

「瑞歩の部屋で処分するものを選ぶんだけど、僕が迷ったものに対して捨てるかどうかの判断を下してほしい。あと、思い出の品は君が処分して僕が判断する方向で」

「分かった。じゃあ、取り掛かりましょう」

 パーカーの袖をたくし上げ、視線で促す。宗市は頷いて、廊下へのドアを開けた。

 通された瑞歩の部屋は、おそらく夫婦の寝室として割り当てられるのを想定されたと思われる広い部屋だった。でもベッドはシングルサイズで、ソファやテレビ、冷蔵庫まである。

「大学生のワンルームみたい」

「そうだね。自分が病気だって分かってからは一人になりたがることが多かったんだ。それで寝室も分けたし」

 振り向いた宗市の視線を追い、違和感を見つける。ドアに、鍵らしきものがついていた。賃貸だし大仰なものではないが、でも鍵ではある。

「夜は鍵を掛けてた。僕に襲われると思ってたんだと思う。被害妄想もあったから」

「鬱だったんだよね?」

「正確には、鬱とパーソナリティ障害の併発だった」

 パーソナリティ障害か。どれかは分からないが、あの性格なら頷ける。

「病気になってたのは、どれくらい?」

 湿度を感じるこもった空気に、部屋の奥にある窓を開けに向かう。レースカーテンを引いて窓を開けると、爽やかな風が滑り込む。ようやく、ちゃんと息ができた気がした。

「一年くらいかな。でも、だんだん薬を飲まなくなって、それを指摘すると部屋にこもって出てこなくなったから、言わないようにしたんだ。そしたら、当たり前だけどどんどん調子を崩して。最後の方はずっと部屋でぶつぶつ何かを言ってるのが聞こえてた。それと関係するのか分からないけど」

 宗市は部屋の中ほどにある引き戸を引いて、中へ姿を消す。ウォークインクローゼットか。あとを追って中に入ると、瑞歩のものと思しき服が所狭しと掛けてあった。相変わらずぎょっとするようなものもあるが、無難なものもある。今は、誰のセンスを盗んでいたのだろう。

「瑞歩が死んだ時に呼んだ警察官が見つけたんだ。蝋燭を使ってたみたいだから、火事にならなくてほんとに良かったよ」

 その一番奥に辿り着いて、びくりと固まる。棚の上に設えられていたのは、明らかに何かの祭壇だった。壁には筆で家紋のような模様が描かれた紙が貼られ、中央には垂らされた蝋燭に覆われた、十五センチくらいの像らしきものが置かれている。手前には白い皿と、その左右に蝋燭立てがあった。

 なんともいえない禍々しい雰囲気がする祭壇だ。こんなものを見るのは初めてだし、気味が悪い。瑞歩は一体、何に祈っていたのだろう。

「珠希ちゃん、これが何か分かる?」

「分からない。こんな気持ち悪いの」

 「初めて見る」と言い掛けた脳裏に一瞬、似た映像が浮かんだ。辺りは暗がりで、目の前には鉄格子が見える。そしてその中には似たような模様の紙と揺らめく蝋燭、あの像があった。

「珠希ちゃん?」

 宗市の声にはっとして、意識を引き戻す。今のは、なんだったんだろう。なぜ私はこれを知って……ああ、そうか。ぴんと来た理由に、ジーンズの腰ポケットからスマホを引き抜く。

「これ、ちょっと撮影させて。分かるかもしれない」

 さまざまな角度から数枚撮影して、有慈と父に送る。私の勘が正しければ、答えは同じものを指すはずだ。ふと気づくと、ずっと纏わりついていた何かの気配が消えてた。

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