第9話

 結局、私はそのまま体調不良期間に突入した。大体三日ほど体のふらつきや怠さ、熱っぽさが続き、四日目頃から楽になっていく。少し無理を押せば仕事もできそうだし儀式にも参加できそうだったが、それは有慈が許さなかった。

 まあ突然の不調に備えて普段から報連相ほうれんそうはきっちりと行っているから、大きな混乱は起こらないはずだ。ただ今回は、よりによってこの時期だ。GW前半はもう、使いものにならないだろう。

 それでも、布団でもできる仕事がないわけではない。むしろ対外的な仕事がない分、『宿舎の給湯設備交換について』だの『食堂の炊飯器の追加購入について』だの『職員共済の利率変更について』だの、私が承認しなければ回らない稟議書の束にしっかり向き合うことができる。

 期日の迫っていた稟議書のチェックを済ませて判を押し、大きく伸びをする。春の陽気でこもる空気に、腰を上げて障子を開けに向かった。

 不意に障子の向こうで物音がして、障子に伸ばす手を止める。続いて聞こえたのは、女性達の明るい笑い声だった。

「あ、だめよ。今日、奥様お休みになってるの」「あんまり丈夫な方じゃないって聞いたことがあるけど」「そうそう。だから教主様も、お子様をお望みにならないんでしょうね」

 おかわいそうねえ、と答えながら声は少しずつ遠ざかっていく。私が部屋にいることを分かっていてその話題を持ち出すのはどうかと思うが、彼女達にとってはほかのよしなしごとと同じレベルの話の種でしかないのだろう。

 長い溜め息のあと、完全に音が消えたのを確かめて障子を開ける。滑り込んだ清々しい空気を深く吸い込み、縦框たてかまちに凭れて美しく整えられた本殿の緑をぼんやりと眺めた。

 本部で暮らす人間は、有慈と私を含めて約百人。修行者が約七十人、職員が約三十人の内訳だ。修行者の多くは三年の修行期間を経たあと山を下りて各支部の指導者となるか、一般信徒として再び生活を送る。

 教義では信仰のみに生きるより社会生活の中で信仰を保つ方が良しとされるため、修行者として認められるには高いハードルがある。教義が和合を最重要としている以上、妻子など扶養者がいる者は無理だ。ほかには、未成年や扶養されている者、治療すべき疾患がある者、借金がある者なども資格がない。資格のある者もほとんどはテストと作文の第一次選考で落とされるから、合格して第二次選考の面接に臨めるのはごく僅かだ。予備面接を経たあと教務部長との最終面接に合格すれば、本部の一員となる。

 本部に入った修行者は、禊を中心とした修行を行う一方で、「食堂」「生産」「事務」「教務」いずれかの職務を行いながら生活する。

 禊を中心とした修行は決して楽なものではないから、かなりの熱意で入っても脱落する者はそれなりにいる。もっとも修行の断念による下山はいつでも許されているし、罰則もない。有慈は、それでよいのだと言う。

 ――「山で修行していた方が楽だった」と思えるようになれば一人前だ。

 満足そうな笑みを思い出して吐いた息は、やはりまだ熱っぽい。何かがつかえているかのような胸を押さえ、前回の生理がいつだったかを考える。

 卵巣が一つになっても生理は来るが、かなり不順な方だ。確かに今月はまだ、来ていないが。

 なんとなく落ち着かなくなって、部屋の奥にある押し入れに向かう。下段に詰め込んだケースの一つを引き出して、生理用品の奥を探った。触れた薄い箱を引っ張り出し、中を確かめる。まだ一本、残っていた。

 子供は好きだが良い親になれる自信は皆無だし、子供がいなければ幸せになれないとも思わない。有慈は「いればいるように暮らすし、いなければいないように暮らす」としか言わないし、実際それができる人間だ。だから結婚した当初に、「積極的には子供を求めない」と二人で決めた。

 でも三年も経つ頃には、「求めても自然にはできない夫婦なのだろう」と察せた。そこからはもう期待はなるべく抱かないようにして生きてきた。時々、周囲の言葉に揺れてこうして妊娠検査薬を試すくらいで。

 ――瑞歩んとこも、子供ができなかったからな。

 ぼんやりと浮かんだ父の声に妊娠検査薬を寝巻きの胸に差し込み、トイレへ急ぐ。

 でも、できていたら、どうすればいいのだろう。母の記憶がない私に、母親ができるのだろうか。

 ――お母さんが好きだったのは、私だけ。あんたはお母さんに全然かわいがられてなかったから、お父さんに渡されたんだよ。

 瑞歩は思い出したくないほどショックを受けていたからか、単純にそれを話したら弱みになると察したからか、神光教の話はまるでしなかった。でも話しぶりを思い出すに、母はおそらく瑞歩だけ連れて集会へ参加していたのだろう。だから離婚の時も、瑞歩だけを欲しがった。父が私だけを引き取ったのは、瑞歩はもう無理だと思ったからだろうか。昨日、聞いておけば良かった。

 いつの間にか逸れていた思考にはっとして、便座から体を起こす。握り締めていた妊娠検査薬を確かめると、小さな窓の中にくっきりとした線が浮き出ていた。


 翌日、有慈や信徒に受診がバレないよう、タクシーで山を下りて産婦人科へ向かった。有慈には確定したあとで伝えたかったし、今の状態で信徒の間に噂が回るのは避けたかった。結果として、それで良かった。

 ――流産されてますね。出血や痛みは、ありませんでしたか。

 医師の説明に、愕然とした。どちらにもまるで覚えはないが、医者がここで嘘をつく理由はない。妊娠検査薬の話を伝えると、流産後もしばらくは陽性反応が出るのだと教えられた。調子が戻るまでは無理せず休むように言われて、終わりだった。

 いなくても構わなかったはずが、喪ったのだと知った途端に悔いに変わった。

 私がいてもいなくても、などと思ったから喪ったのだろうか。母親になる自覚がなかったから。

 そんなことはないと分かっていても、自責の思いが際限なく浮かんで止まらない。

 珠希、と聞こえた声と障子越しの影に、洟を啜って背を向けるように寝返りを打つ。落ち着くまで待ってほしかったが、そういうわけにもいかないのだろう。

「どうした。何かあったのか」

 背後で衣擦れの音がして、有慈が傍に腰を下ろしたのが分かる。そっと頭に置かれた手が、優しく髪を梳き始めた。

「昨日、もしかしてと思って、妊娠検査薬で調べたんです。そしたら、陽性で……それでさっき、産婦人科を受診したんです」

 不安が大きかったが、どこかに期待が入り混じっていた。産婦人科にいた妊婦達の膨らんだ腹を見て、自分のそれを想像した時はこそばがゆいような気持ちにもなった。有慈は、どんな言葉を掛けてくれるだろうと、そんなことも考えた。でも。

「流産していると、言われました」

「そうか。それは、つらかったな」

 有慈は変わらない手つきで髪を梳きながら、少し距離のある言葉を選んだ。

「子供は次がいるが、お前に代わりはいない。大事にしてくれ」

 少しだけ振り向くと、私の髪に口づけている姿があった。いつもとまるで変わらない、悲しみも苦しみも浮かべない平静な表情だった。初めて抱いた違和感に、胸が澱んでいく。

 ゆっくりと体を起こすと、有慈はこぼれ落ちた私の髪を掬い上げて耳に掛ける。涙の残る私の頬を撫でて、慈しむように笑んだ。

「喪ったのは、あなたの子供です」

「そうだな、私の子供だ。大切には思っている」

 間近で有慈の瞳を見ると、焦点がずれているから見えていないのが分かる。心眼で同じように見えると言ったが、本当に私と同じものを見ているのだろうか。

 いつものように重ねられた唇から少し離れると、有慈は追い掛けるようにして深く重ねた。

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