第7話

 目が覚めた時に覚えていたのは最初の、有慈を産ませるために父親は母体を選びに選んだ、というところだけだった。

 『神光教しんこうきょう』で検索すると、今でも結構な数のサイトがヒットする。

 『教主の符津ふつ長吉ちょうきちは大学で教鞭を執る数学者だったが、ある時から神秘主義に傾倒していく。数々の宗教を渡り歩き修行に取り組む中、瞑想中に自分が地に降りた神の使いであったことを思い出し、大学を辞めて一九六七年に四十五歳で神光教しんこうきょうを拓いた。翌一九六八年には宗教法人「日本神光教団にほんしんこうきょうだん」を設立。全ての人の胸には神が眠っており、その多くが目覚めれば世界平和は達成されると説いて信徒を集めた。バブル崩壊後には物質社会からの脱却を呼び掛けることで信徒の数を伸ばし、一九九四年には約二十二万人に到達した。

 その一方で、厳しい修行と私財の放棄を課す教義のために何度か問題を起こしており、一九九七年には九州支部で恐喝の二人の逮捕者を出している。二〇〇二年に団体の要であった息子の有慈ゆうじ※1が長吉との対立から脱会して以降は脱会者が止まらず、神光教事件を起こす二〇〇四年の六月頭には約十四万人まで数を減らしていた。

 ※1 符津有慈は二〇〇七年に灯火教とうかきょうを拓き、宗教法人「灯火とうかかい」を設立している。

 二〇〇四年の念頭から、神光教周辺では信徒の家族を中心に行方不明者が相次いでいた※2。六月二十二日に発生した集団自殺は、多くの通報を受けて警察が強制捜査に動こうとする中で発生した。服毒による死亡者は長吉を含めた九十六名で、そのうち九名が子供だった。利用された毒物は、長吉の側近だった信徒が六月二十日に自身の勤める大学研究室から持ち出したアジ化ナトリウムである。当時この信徒は警察に指名手配されており、警察は教団本部へも聞き込みを行っていた(事件を防げなかった責任を問われた当時の警察署長は、同年十二月に引責辞任した)。

 ※2 その後信徒の証言により、「より大切なものを手放すほど神は喜び神に近づく」教えに従い、拉致されていたことが分かっている。しかし教団の敷地に遺体などは発見できず、現在も行方不明である。』

 情報サイトに書かれた概要を途中まで確かめ、スマホを膝に伏せて深呼吸をする。無料で確かめられる情報なのに、予想以上に精度が高かった。まあメディアが大騒ぎしていたし、関連書籍も相次いで出版されているからだろう。

 シートベルトを少し引っ張り出しながら、運転席に座る信徒の後頭部を一瞥した。

 有慈が車で外出する時は、元タクシー運転手の信徒に運転を任せている。心眼で見えるとはいえ、世間的には全盲な有慈が運転免許を取得することはできないからだ。晴眼者のふりをして取得するのは簡単だろうが、バレたら道路交通法違反で捕まってしまう。それは「灯火の会」の存続においても、とてもよろしくない。

 というのも、神光教事件で宗教法人法が改正され、解散命令の要件基準が緩くなったからだ。現在では、現行法に抵触したことを理由に解散命令が出せてしまう。軽微なものでは出されないと信じたいが、それができてしまうカードを国は保持しているのだ。

 既に脱会していたとはいえ、有慈が警察や公安にマークされていたのは確かだろう。宗教法人の設立が許されたのは、その方が動向を探りやすいからかもしれない。

 ――そいつの親は九十六人殺してんだぞ! まともな奴なら、そこで親と宗教をすっぱり捨てて生きようとする。まだ宗教にいるのは、同じ穴の狢だからだ!

 当時は父が嫌いすぎて全てを突っぱねて飛び出したが、二十九にもなれば理解できることはある。確かにそんな男の息子と娘が結婚すると聞けば、親は反対するだろう。私でも、とちらりと考えて、やめた。

「大丈夫か」

 気遣う声に、隣へ視線をやる。いつもは白一色の装束だが、今日は黒黒とした紋付袴姿だ。色白なせいで、首筋がぼんやりと浮き立って見える。

「大丈夫です。少し胸の辺りが気持ち悪くて。疲れと、昨日の騒ぎのせいだと思います」

 もしくはたまに来る不調期だが、そうでないことを祈るしかない。GWに、寝込む暇などないのだ。

「つらければ、葬儀の間は控え室に横になっていればいい。私だけでも用足りる」

「そういうわけにはいきません。あなたを代打にするなんて」

 まとめ上げた髪を気にしつつ、緩く頭を横に振る。私の下で働いている事務方はともかく、教務部や修行組に知られたら誹りはまぬがれない。有慈の下で動くあの中には、神としての有慈を崇拝するがゆえに、「ただの人間」の私が伴侶であることをよく思わない者達が少なからずいるのだ。

「お前は信徒である前に私の妻だ。妻が無理なら夫が出るのは、当たり前のことだろう。遠慮せずに頼ればいいし、甘えればいい。昨日は、嬉しかったぞ」

 有慈は目を細めて笑い、昨日の一件を持ち出す。じわりと、頬が熱くなるのが分かった。

「それにしても、あんな風に痕跡を残す霊現象もあるんですね。初めて知りました」

 気恥ずかしさをごまかすように、話題を変える。

 朝になって確かめたドアの表には、無数の引っかき傷が残されていた。ホテルに報告して確かめてもらった隣の部屋の壁にも、昨晩の出来事を証明するような薄汚れた手の跡が、無数に張りついていた。目に見えない力の存在はもう十分に知っているが、霊の痕跡を見るのは初めてだった。改めて昨晩の一幕を思い出せば、ぞっとする。

「物体にあれほど干渉できるのは、相当力のある霊だ。多分、通夜に出て死に思いを馳せたせいで、引き寄せてしまったのだろう。私の傍にいるせいでどうしても境界を越えやすいから、結界を張っていたのだがな。物理的な距離のせいで少し弱まっていたのかもしれない」

「本部で暮らしている時は一度もなかったから、そうなのかもしれませんね。あなたと暮らすようになってからは驚くほど体調も良くなったし、感謝しかありません」

「せっかくこのような力を与えられているのだ。使えるものは使わなければ」

 有慈は口元に優雅な笑みを浮かべて、座席に凭れる。細く尖った顎のラインは引き締まって、やはり少しのたるみも見えなかった。なんとなく、自分の輪郭を指先で確かめてみる。あと数年で、見た目の年齢が逆転しそうな気がした。

「人にない力を持つ者は、相応の役目を負わされる。でも、それがいくら偉大で重要なものであったとしても、夫婦和合の方が先だ。夫婦の和合すらなしえぬ者が、それ以上の和合を為せるわけがない」

 教義を語る口は淡々と、どこか温度なく聞こえるのは教主が顔を出すからだろう。実際、教主として大勢の信徒の前で説教をする時は笑みが少なく、どちらかと言えば厳しい印象だ。一対一の対話では普通に笑いもするようだから、使い分けているのかもしれない。

 重ねられた手を握り、視線を前にやる。葬儀ホールの駐車場へ滑り込んだ車に、長い息を吐いた。

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