第6話

 ふと聞こえた物音に、ぼんやりと目を覚ます。常夜灯で明るい天井に家でないことを思い出しつつ、スマホを手にした。三時か。雨かと耳を澄ましてみたが、それらしき音は聞こえない。周囲の宿泊客が、少し大きめな物音を立ててしまったのかもしれない。

 適当な理由に当たりをつけてあくびを噛み殺し、スマホを置く。布団を肩口まで引き上げ、再び寝ようと寝返りを打った。

 その時、どん、と壁を叩く音が背後で響く。驚いてはね起きると、音は繰り返し響き始めた。隣の部屋から壁を殴っているのだろうが、真夜中だ。まともとは思えない。急いで受話器を手に取り、フロントに電話をかけた。

「夜分にすみません。さっきから隣の、多分508号室の方が壁を叩いているみたいで、ドンドンうるさいんです」

 背後で少しずつ大きくなっていく音に、片耳を塞ぎながら伝える。今はもう、耳を塞がなければ耐えられないレベルの騒音になっていた

「承知し……した。ただ……ま確……いたし……すね。今も鳴っ……ますか?」

 聞き取れた問いに、はい、と答えてから気づく。耳が割れんばかりに響いているこの音が、聞こえていないのか。不意に、ぞわりと冷たいものが背筋を撫でた。

 確かに、異常かもしれない。こんな、振動で肌がびりつくような騒音を、工事でもないのに出せるものなのか。いやな予感が胸に湧いた時、受話器の向こうで音がした。

「……日は……様のお部……隣はどちら……空……てお……す」

 騒音の中でどうにか聞き取った答えがいやな予感と一致して、全身から汗が噴き出る。すみませんでした、とおざなりな詫びを返して受話器を置く。もちろん、こんなことで音が止むわけはない。だとしたら、頼れるのはもう有慈しかいない。両耳を塞いでベッドに駆け寄り、今も割れそうな勢いで叩かれる壁を横目にスマホへ手を伸ばす。途端、音がやんだ……気がした。驚いて、また壁を見つめる。わんわんと耳鳴りが続いていて小さな音は聞き取れないが、止まっている気がする。何が起きたのか分からず呆然とベッドに腰を下ろした時、ドアチャイムが鳴った。

 びくりとして、スマホを手に立ち上がる。もしかしたら、さっきの電話を心配したホテルのスタッフかもしれない。こめかみを伝う汗を拭い、荒くなる息を収めつつ薄暗い通路をドアへと向かう。こつ、とドアをノックする音がした。

「お客様、音の方は大丈夫でしょうか」

 聞こえた女性の声に安堵してドアへ駆け寄る。やっぱり、心配になって来てくれたのだろう。

「確認いたしますので、開けていただけますか」

「はい、今」

 開けますと言い掛けて鍵を捻った時、ふと思い出す。

 さっき電話で話したのは、男性スタッフだった。それに、ホテルの説明ファイルには『夜間は男性スタッフのみ』と書いてあったはずだ。おかしい。慌てて鍵を掛け、ドアを塞ぐように背を凭れさせる。

 でも、じゃあ、今外にいるのはなんだ。何が起きてるのか。

 恐怖で息は荒くなり、泣きたくもないのに涙が伝う。かり、とドアを引っ掻くような音がして、思わず小さく悲鳴が漏れた。慌てて唇を噛み、震える指先でスマホの発信履歴を開く。

「いるんでしょ……開けてよ……開けて……開けて……」

 外の声は歪んで異様なものとなり、ドアを掻く音はかりかりからがりがりと激しくなっていく。

 履歴の有慈を選んで押そうとした時、気づく。右上に小さく『圏外』が表示されていた。ざあ、と血の気が引いていくのが分かる。

 でも、そんなわけがない。眠りに就く前には、普通に繋がっていたのだ。外にいる何かが、有慈の介入を嫌って妨害しているのだろうか。試しに、駆け戻って備えつけの電話の受話器を掴み上げる。外線ボタンを押してみたが、やはりなんの反応もなかった。

 ……詰んだ。

 受話器を置き、絶望の中でドアを眺める。

「開けて開けて開けて開けて開けて開けてえええええええ」

 歪んだ女の声は一層猛って聞こえるし、がりがりとドアを引っ掻く音も激しくなっている。有慈ならどうにかしてくれそうだが、私にはこの状況に対抗できる力はない。どうすれば、と思った時、傍らに置いていたスマホが着信音を鳴らす。表示された『有慈』の表示に、急いで応えた。

「珠希、大丈夫か」

 聞こえた声に、全身の力が抜けてへたり込む。

「声、声と、音が!」

 涙声で訴えながらドアを見ると、その両方が止んでいた。耳を澄ましてみても、聞こえるのは何かの低い稼働音だけだ。……もう、本当にもう、大丈夫なのか。

「両方、止んでる。さっきまで、『開けて』ってすごかったのに」

「私が気づいたからだろう。もう大丈夫だから、少しでも休め。念の為、私もそちらへ行く」

 落ち着いた声に宥められて、子供のように泣きじゃくる。湧き上がる安堵に涙があとからあとから溢れ出して、止まらなかった。

「早く、早く来て。お願い」

「ああ、分かっている。大丈夫だから、眠れなくても横になっておくんだ。体に障る」

 親のように諭す声に頷き、のろりと立ち上がる。ふらつく足を引きずって、ベッドへ倒れ込んだ。

「電話、切らないで。怖い」

「分かった。お前が落ち着いて眠れるまで、話をしよう。集会で話すと皆がよく寝る話がいいか」

 有慈の声に小さく笑い、スマホをスピーカーにして布団に潜り込む。

「聞いたことのない話がいい。子供の頃の話とか」

「聞いて安らぐような話でもないが、聞きたいのならそうしようか」

 穏やかな声で受け入れた有慈に、目を閉じてゆっくりと息を吸う。初めて触れる有慈の過去に期待したが、話が始まった途端に眠気が押し寄せる。ちゃんと聞きたいと思うのに、言葉はやがて音の波のようになって、心地よく私を眠らせた。

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