第5話
居心地の悪い座を退いてホテルへ向かう前、挨拶のために宗市を探したら、葬儀の部屋にいた。棺桶を抱き締めるように覆い被さる姿を見て、声を掛けずに部屋をあとにした。
裏切りの上に成り立つ愛情が、美しいことなどあるのだろうか。更なる裏切りで憎み合って崩壊すれば良かったのに、これでは少しのカタルシスもない。でも何よりもいやなのは、こんなことばかり考えてしまう自分の醜さだ。
「おつかれさま。何かと大変だっただろう」
風呂上がりに電話で一日の報告をすると、有慈は穏やかに労う。
「体は大丈夫か」
「はい、問題ありません」
精神的な疲労は感じるが、体はなんともない。昔なら、発熱して起き上がれなくなっていただろう。
「そうか、それなら良かった」
「早く、帰りたいです。ここにいると何もかも、自分の思考まで昔に引き戻されてしまうので」
「教主としては、
有慈は答えて、小さく笑う。ごろりとベッドに横たわると、タオルがほどけて濡れ髪が零れ落ちた。籠もっていた熱が放たれて、首筋の辺りがひやりと涼しい。
「私がここを留守にする日は多いが、お前がいない夜は滅多にない。寂しいから、早く帰ってきてくれ。ここでの一人寝は、一晩が限界だ」
夫の顔が告げる言葉が、じわりと胸に沁みていく。
有慈は全てを話すタイプではないから、掴みどころがない、何を考えているのか分からないところはある。それでも、大切にされていると感じるに十分なものを与えてくれる人だ。全てを捨ててこの道を選んだが、悔いがないのは有慈のおかげだろう。
有慈との再会は十年前、大学の友達に誘われて行った、灯火の会の集会でだった。もちろんだが、新興宗教への警戒心は人並みにあった。でも友達が、祖母の死以来生きる気力を失くしていた私に危機感を抱いて、「お願いだから一緒に来て」と信仰をカミングアウトしてまで誘ってくれたのだ。おまけに、教主は「男性だけどすごくきれいな人」だと言う。脳裏で、点と点が繋がった瞬間だった。
当時の灯火の会はまだ信徒が一万人もいない頃だったから、集会は散発的に信徒の家や店で行われていた。私が連れて行かれたのは定休日のスナックで、有慈は既に奥のボックス席にいた。今は難しいことだが、当時は小さな集会にもよく顔を出していたらしい。
有慈は私を見た瞬間、すぐに気づいて目元を緩めた。
――お前は、あの時の子供だな。どうだろう、私の妻にならないか。
突然の求婚に、私はもちろん、その場にいた全員が固まった。
「明日葬儀が終わったら、火葬場には行かず帰ります。ここに、私の居場所はありませんから」
父と今更分かりあえるはずはないし、宗市と傷を舐め合うつもりもない。祖母の墓にだけは参っておきたいが、未練なんてそれだけだ。
「明日は、早めに仕事を終えておく。
少し熱を帯びた声に苦笑する。年数が経てば落ち着くものかと思ったが、むしろ年を経るごとに強くなっていく。明日の夜は多分、あまり眠れないだろう。
短く挨拶を交わしてスマホを置き、ベッドから下りて鏡に向かう。
――お前と私は、よく似ている。お前が私を受け入れてくれるなら、私はお前に全てを与えよう。
求婚の理由は、シンプルなものだった。その時は意味が分からなかったが、父と揉めて過去を知ったせいで、少し分かった気はした。私も有慈も、
手櫛で濡れ髪を梳きながら確かめた素顔は、当たり前だが有慈より瑞歩によく似ている。
――宗市は、私を好きになっちゃったんだってぇ。
宗市は、高校一年の時に祖母がつけてくれた家庭教師だった。
救急外来で有慈が助けてくれたあと、また少しずつ体調を崩していった私は、中学校を院内学級と保健室登校で終えた。原因不明の症状が続き、とても周囲と同じような生活は送れなかったのだ。それでもどうにか受験を乗り越え、私立高へ入学できた。
幸いその頃には体調も落ち着いていたから、授業にも参加できるようになった。でも、まるでついていけなかったのだ。危機感を抱いた私は、祖母に頼んで家庭教師を探してもらった。そしてやってきたのが、地元の国立大に通っていた宗市だった。
当時の宗市はぽっちゃりとした色白の「おぼっちゃん」で、物腰の柔らかい鷹揚な人ではあったが、率直に言って女子にモテそうではなかった。まあ、だから選ばれたのだろう。
でも私は宗市と過ごすほどに、その内面に惹かれていった。私が馬鹿でもぞんざいな態度を見せることはなかったし、コンプレックスまみれだった人生の捉え方も変えてくれた。
――比べものにはならないけど、僕も子供の頃は喘息だったんだ。治った今でも風邪を引くと、再発するんじゃないかってびくびくしてる。でも君はずっと、そんな思いをして暮らしてるんだよね。それでも自暴自棄にならずに生きて、勉強までがんばろうとしてるのは本当にすごいと思うよ。
大人になった今振り返ってみれば、なんということもない励ましだ。でも大人達に憐れまれ、同級生の中では腫れ物扱いになっていた私には、深くまで沁み入る言葉だった。それこそ、初めての恋心を抱くほどに。
宗市にもそれは伝わっていたようで、半年ほど経つ頃には私達は気持ちを通わせるようになっていた。できるだけ家族に、特に瑞歩にだけはバレないようにしていたが、やはりどこか浮かれていたのだろう。
翌年の春休み、定期検診が早めに終わった足で家に帰ったら、私の部屋のベッドで二人が絡み合っていた。その時に瑞歩が宗市にしなだれかかりながら勝ち誇ったように吐いたのが、あの台詞だ。
祖母も含めた四人で話し合った結果、宗市は私の家庭教師を辞めて、瑞歩は家を出ていくことになった。もっとも四月からは家から地元大学へ通う予定だったのが一人暮らしになったから、瑞歩にとっては願ったり叶ったりだったはずだ。
――ごめん、珠希ちゃん。でも、気づいたら瑞歩のことを好きになってたんだ。
少しも救われない詫びを残して、宗市は出て行った。祖母からは別れるように言い渡されていたが、隠れて続いていたのは明らかだ。
祖母が脳出血で死んだのは翌年、私が大学一年の夏だった。瑞歩と宗市は、愛の障害が消えたのを確かめるかのように、手を繋いで葬儀に現れた。殺してやりたかった。
そこから有慈に再会するまでは、心身ともに荒みきっていた。大学には気が向いた時にしか行かず、定期検診はキャンセルした。薬を飲むのもやめた。緩やかに死へ向かっているのは分かっていたが、怖くなかった。死ぬつもりだったのだ。それなのに。
――お前は、あの時の子供だな。どうだろう、私の妻にならないか。
気づいたら、頷いていた。
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