第2話

 ――今朝、瑞歩が死んだんだ。僕の目の前で……首を、切って。

 死因を告げる宗市そういちの声は掠れ、震えて聞こえた。まあ、そんな死に方を目にすればそうなるだろう。他人を蹴落としながら図太く生き延びそうだった瑞歩みずほの最期が自殺なのは驚いたが、あれからもう十年以上経っている。宗市と暮らす中で、少しはまともになっていたのかもしれない。

 すぐにアポを取って訪れた有慈ゆうじの執務室は、私と同じ社務所にはない。夫婦の生活空間と同じ、本殿の中だ。十二畳ほどある座敷の壁際には和室の雰囲気に似合わないキャビネットが整然と並び、長い座卓の端にはモニター三枚を置いたPCが今日も起動していた。

 信徒からの寄付を元本に、有慈が細々と資産運用を始めたのは八年ほど前だ。現在ではその収入が資産総額の八割を占めるまでになり、納税額は見たこともない数字を更新している。それでも自治体が友好的なのはそのおかげもあるだろうから、助かってはいた。

「明日は大安だから、明後日が通夜でその翌日に葬式をするそうです」

「そうか。それなら、山を下りる準備をしなければな」

「いえ、今回は私一人で下ります」

 控えめに返すと、有慈は筆を置いて羽織の前を整えながらこちらを向く。畳の上を滑る衣が、軽い音を立てた。

 有慈は、少なくとも私が出会った人類の中では、一番清廉で美しい顔と髪を持っている。

 穏やかな眉の下に収まる切れ長の目は、笑むと目尻に長く影を引く。子供の頃に受けた修行のせいで視力は失われたが、以降は心眼で、私達に見えるものと見えないものの両方を見ているらしい。細く通った鼻筋の眉間はなだらかだが、時折細い皺が刻まれる。

 神力を保つために伸ばされている黒髪は、襟足の辺りでいつもたわみなく一つに結ばれている。まるで、墨を含んだ筆のようにまとまりがいい。

 私が初めてこの顔を見たのは十八年前、十一歳の時だ。救急外来の待合を通り抜けようとしていた有慈が、ふと私の前で足を止めたのだ。

 ――ああ、これは苦しいだろう。

 有慈は長椅子の前にしゃがみ、痛みに耐えかねて横たわっていた私の額に触れて何かを小さく唱えた。その瞬間、体の中から何かがざあっと抜け出て、痛みが消えてしまったのだ。

 ――もう大丈夫だ。大事にな。

 有慈は驚く私に微笑んだあと、名前も告げずに去って行った。受付から戻ってきた祖母は、けろりとした顔で座っている私を見て、私以上に驚いていた。

 その時とほぼ変わらない美貌が今、目の前にある。今年で四十七になるのに、澄んだ肌にはたるみどころかシミ一つなく、白髪すら生えていない。一切の衰えを見せないその姿には、「現人神」にふさわしい物理的な威力があった。

「義姉の葬儀に、出ないわけにはいかないだろう」

「今週は重要な方々の来訪が続きますから、夫婦揃ってここを留守にするわけにはいきません。それに、葬儀には父が来ると思いますし」

 喉まで出掛かった「姉の葬儀ごときに夫婦で参列する必要はない」を、ぐっと飲み込み口を噤む。教えに触れて十年ほど、近年では滅多に感じなくなっていた暗い感情で胸が澱んでいる。これほどのものを一瞬で蘇らせるのは、さすがだとしか言いようがない。

「それなら、余計に一人で行かせるのは心配だし心苦しい」

 有慈は少し眉根を寄せて、私をじっと窺う。見えすぎてしまうその瞳にこの澱みが映らないことを祈っているが、きっと見透かしているだろう。見えないよりも、見えないふりをする方が大変だ。

「お気持ちは、嬉しいんです。でも、私はこうなっても姉を素直に弔う気持ちにはなれていません。そんな中で、あなたが姉のために手を合わせるのを見たくないんです」

 一緒に参列すれば、有慈は心から姉のために手を合わせるだろう。罪と人の間に線を引き、人のために祈るのが有慈の生きる道だ。でも私は、その情すら傾けてほしくないと思っている。

「未熟で、申し訳ありません。教主の妻ともあろう者が、いつまでもこのような思いに囚われて」

「気にする必要はない、未熟なのは私も同じだろう。お前の支えがなければ全てが片手落ちだ」

 まるで当たり前のように私の目線まで下りてくるが、実際にはそんなことはない。私と結婚する九年前までは、灯火教とうかきょう教主の役目だけでなく宗教法人「灯火とうかかい」としての仕事もほぼ一人でこなしていたのだ。当時の信徒はまだ一万人ほどだったが、この業界は「人数が少ないから楽」があまり当てはまらない。

 もちろんあの調子で働き続けていれば倒れていたかもしれないから、私が裏方を引き受けた意味はあっただろう。それでも「私がいなければ片手落ち」なんてことは、有慈に限ってはありえないのだ。

 珠希たまき、と呼ぶ声にはっとして、まとまりのつかないものを胸に抱えたまま頭を下げる。こんな非建設的な思考をしたいわけではない。まるで昔の自分に引き戻されたようで、気分が悪かった。

「十六時から九州支部長達との会談がありますので、失礼いたします。会食は十九時からですので、ご出席よろしくお願いいたします」

「ああ、分かった」

 大人しい声の了承に、表情を確かめないまま腰を上げて座敷の戸口へ向かった。

「また、ねやで」

 背後から聞こえた言葉に、障子を引く指先が止まる。小さく頷いて、改めて障子を引いた。

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