第3話
宗教法人「
そんな中、世間を震撼させる事件が起きる。日本神光教団本部で起きた集団自殺事件、「神光教事件」だ。神光教周辺で信徒の家族や子供を中心に行方不明者が相次いでいたことを受け、警察が強制捜査を行おうとしていた矢先だった。死亡者は子供を含む九十六名で、子供は毒殺か絞殺、大人は毒殺に次いで刺殺が多かったらしい。心変わりして逃げようとした信徒を殺害したためだろう。この惨劇の生き残りは、僅か四名。そのうちの一人が私の姉、瑞歩だった。母は、毒を呷って死んでいた。
最寄り駅から地元までは特急列車で約一時間、信徒が開く集会に呼ばれてたまに足を運んでいる。でも結婚と同時にここを離れたあの日から、実家の門をくぐったことはない。一昨日にあった
「ありがとうございます。お世話様でした」
葬祭ホールの駐車場で車を停めた運転手に代金を払い、ボストンバッグを手に後部座席を降りる。深呼吸をして胸を整え、重い足を玄関へと進める。正面玄関に表示された、『
「
懐かしい声に視線をやると、ロビー奥のソファで見慣れぬ男性が腰を上げる。でも声からして、あれが宗市だろう。その向かいで座ったままこちらを見ている白髪頭は、父だった。あれから九年、今年で六十六歳か。定年を迎えて、今はなんの仕事をしているのだろう。今も東京で暮らしているのか、こちらへ戻ってきたのか、それすらも知らない。まあ、別に知りたくもないことだが。
――なんで、お前が!
記憶を辿ればすぐに蘇る荒い声に溜め息をついて、眠らせた。
「ごめんね、忙しいのに。来てくれてありがとう」
小走りで辿り着いた宗市は、安堵した表情で礼を言う。会うのは十二、三年ぶりか。記憶にある姿は二十歳やそこらのものだし随分垢抜けているから、戸惑うのは致し方ないだろう。あの頃は顔も体もぽっちゃりしていたが、すっかり引き締まっている。柔和でふんわりとした印象だった目鼻立ちも、今はくっきりと浮き出て角が目立つようになっていた。瑞歩のために、痩せたのかもしれない。
――ごめん、珠希ちゃん。全部、僕が悪いんだ。
瑞歩を庇って泣きながら詫びた顔は、まだ覚えている。反吐が出そうだ。
「ううん、いいよ。最期くらいはね」
いろいろあったけど、は嫌味になりそうで飲み込む。
「通夜、六時からだっけ」
「そう。家族葬にしたから、あとはうちの家族が来るだけだよ。ひとまず、控え室で着替えて休憩してて」
宗市は振り向いて、お義父さん、と父を呼ぶ。いやな予感がした。
「珠希ちゃん、控え室に案内してもらえますか。僕はロビーにいなきゃいけないので」
要らないお節介に思わず眉を顰めた向こうで、父がのそりと腰を上げた。がっちりとした厳つい体は、おそらく一九〇センチはあるだろう身長と相俟って迫力がある。短く刈り上げた四角い頭も顔の造作もそれに準ずる厳つさだ。現役を退いて少しは険も取れているかと思いきや、全く変わっていない。喪服を着ているせいで余計その筋に見えて仕方ないが、元はマル暴一筋の刑事だ。
「なら、行くぞ」
父は分厚い顎で奥を指し、先導するようにロビーを横切っていく。諦めて、あとに続いた。
――なんで、お前が!
九年前、結婚の意志を伝えた私に、父は受話器の向こうで怒鳴った。刑事である父が反対するのは分かっていたが、その理由は予想だにしないものだった。
両親が離婚したのは、私が四歳の頃らしい。瑞歩は母に、私は父に引き取られた。もっとも刑事だった父が一人で子育てなんてできるはずもなく、私は東京から父方の実家があるここへ送られ、祖母に育てられた。その後、小学校中学年の頃に母が死んで瑞歩も一緒に暮らすことになったが、その詳しい理由は誰も教えてくれなかった。
だからその時まで、母が神光教にハマったから離婚したことも神光教事件で集団自殺したことも、まるで知らなかったのだ。
――その男だけは、宗教だけはやめろ。クズに人生を食い潰させるつもりか。
父は吐き捨てるように言ったが、では、父は私にどれだけのことをしてくれたのか。
仕事が忙しいからと盆正月しか帰ってこず、電話もかけてこない。私が原因不明の不調で苦しむようになっても、何も変わらなかった。
――ああ、これは苦しいだろう。
あの時傍にしゃがんで憐れんでくれたのが父であれば、有慈のような力はなくても額に手を置いて付き添っていてくれていれば、私は、父を選んでいたかもしれない。でも父にはできなかったから、有慈を選んだ。難しい選択ではなかった。
「元気にしてるのか」
無駄に明るい廊下を歩きながら、父がぼそりと尋ねる。
「うん、元気だよ。前とは比べものにならないくらい」
こちらで暮らしていた頃は、常に体調不良で苦しんでいた。痩せ過ぎで体も顔も骨ばって、顔色も悪かった。いつもどこかが痛かったから表情は暗く、なのに目だけがぎょろりとギラついて、まるで餓鬼のようだった。
でも今は、体調で苦しむことがほぼなくなった。有慈と一緒に過ごすようになってからは大きな病気はもちろん、風邪やインフルエンザにすら罹っていない。ごくたまに倦怠感で一週間ほど寝つく日はあるが、一年に一度あるかないかだ。数のうちに入らない。
体は女性らしい丸みを帯びるほど肉がついて、げっそりとこけていた頬も膨らんだ。悪目立ちしていた目も、今はちょうどいいサイズで収まっている。美人と呼ばれるほど整った顔立ちではないが、あの頃と比べればずっと幸せそうで、気に入っていた。
「お父さんは、まだ働いてるの?」
「ああ。定年と同時にこっちに帰ってきて、今は警備会社だ」
警備会社か。まあ、三十年以上ヤクザを相手にしてきた人間だ。定年を過ぎたところで、学生アルバイトよりよほど役に立つ人材だろう。立っているだけで威圧感がある。
お前は、と切り出しながら、父は辿り着いたらしい控室の前で足を止めた。
「子供はいるのか」
「いないよ。持つ予定もない」
そうか、と返した声がどことなく安堵して聞こえたのは、気のせいではないだろう。父は父親として孫を願うより、警察官として不穏分子の血が引き継がれないことを願う人間だ。自分の幸せよりも、最大多数の最大幸福を優先させる。分かっていたことだ。人の中身は、見た目ほど簡単には変えられない。
「じゃあ、着付け済ませて待機しとくから」
靴を脱ぎ、木戸を引いて部屋に入る。ぴたりと閉めたあとで、長い息を吐いた。
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