マシラ山怪奇譚【※本編3章後エピソード】
気持ちを切り替えて自転車を止め、畑を見る。
「こりゃひどい」
最初に出てきた言葉は、そんな率直な感想だった。
「収穫期のニンジンを狙われちゃたまりませんよ」
嘆くのは畑の主の西荻だ。かつては都会でIT企業に勤務していたらしく、デスクワーク専門という雰囲気の……畑仕事とは縁のなさそうな顔付きの男である。
「この荒らし方は猿ですなあ」
相生は断言した。この村では猿による農作物の被害は珍しい話ではなかったのだ。同じような荒らされ方の畑を、何度も見たことがある。
「ええ。私もそう思います。ですがね、お巡りさん……少し、妙なんですよ」
西荻はなんだかもったいつけた言い回しをする。
「といいますと?」
「うちもまだまだ新参とはいえ、この村での猿の被害については耳にしていましたからね。猿被害を防止するネットで耕地を覆っていたんですよ」
「はあ。ネット」
「いつの間にか、撤去されていました。風で動いた、なんて話じゃあありませんよ。除草作業なんかで必要になるので、簡単に外せるようにはしていましたがね。だからってそこまで杜撰な置き方はしていません」
「とすると……人間が嫌がらせのためにお宅のネットを外した、と仰る?」
だとすると面倒な話になりそうだ、と相生は思った。こういうのは大概がただの勘違いで、しかし当事者が「自分は被害者だ」と思い込んでしまっているので説得が非常に難しい。
いもしない犯人の存在する証拠を探すなんてのは、いわば悪魔の証明というやつだ。
——なんて、かつての同級生であった青髪の女、
実らないどころか、己の意気地無しがゆえに芽吹くことさえなかった初恋が脳裏をよぎり、相生は苦笑した。
それが西荻には嘲りに見えたのだろう。むっとして続けた。
「夜間、どんな動物が農地を荒らしに来るのか確認しておこうと思いましてね。畑にはカメラも仕掛けていたんです。昼夜を問わず利用できる高級なものを。あるいは、この動物には人間も含まれるかもしれませんから」
「そりゃまた用心深いことで」
「そこで先ほど確認してみたら、カメラが外されていました」
「…………はあ。つまりは、少なくともそれに関しては人間の仕業だと」
西荻は首肯する。
「破壊はされていなかったんです。爪痕のようなものもない。ただ、カメラがセットした場所から外れ、あらぬ方向を向いて地面の上に置かれていた」
これは厄介なことになった。
のどかだけが取り柄の村で犯人探しなど、したくもない。
相生はそう思ったがしかし、西荻の口からは以外な言葉が飛び出した。
「そして、犯人も分かっている」
「…………は?」
「妻です。妻が昼前、こっそりと外に出てカメラを外したんです」
◇◇◇
西荻の話によると、今朝から、妻の様子がどことなく妙だったという。
いや、今朝から——ではない。昨日、山にあるマシラ様の祠へのお参りから帰ってきたその時から、妙だったそうだ。
「なにか考えごとがあるような……それでいて、私にはそれを話せないような、そんな様子で」
ゆえに、西荻も直接は尋ねられなかったのだと言う。
そして今日の昼前。西荻の妻は西荻の目を盗むようにして畑へ出た。一体なにを隠そうとしているのだろう、と気にはなったが西荻は努めて気にしないことにした。
なにせ今はクリスマスが近い。イベント好きの彼女のことだ。クリスマスに何かサプライズでも用意するつもりなのだろう——そう考えた。
それから午後になって畑に出て見れば、畑は荒らされていた。カメラは外されており、録画映像を確認したところ、最後に写ったのは虚ろな表情でカメラを晴れわたった空に向ける、妻の顔だった。
——というのが、ことの次第だった。
西荻の話を聞いて、相生はある昔話を思い出した。この村に伝わる話で、「マシラサマ」という。
この近辺には玉兎市と呼ばれる大きな市がある。相生が交番勤務をするこの村は、その玉兎市から山二つを挟んだところにある。玉兎市に近い方——平成の大合併で玉兎市の一部となった山が、
このマシラ山には古い伝承が残っている。
いわく、ツクヨサマに会うべく旅する修行僧がこの村を訪れた。
当時、村は猿に農作物を荒らされ困っていた。その話を耳にした修行僧は一計を案じて作物を荒らす猿を捕まえる手伝いをした。果たして、猿は村人たちの手で捕えられた。
村人たちは猿を殺そうとしたが、修行僧はそれを止め、種を村人たちに与えた。この種には御仏の加護があるゆえ、すぐに育ち、手間暇をかけずとも果実を実らせるという。
この実を猿に与えよ。と修行僧は言い、村人たちは納得した。
また、猿には作物を荒らさなければ彼らは実を与えてくれるだろうと教えた。
村人は猿を解放し、猿は反省して山へ帰った。
その後、いく晩かの後、彼は村を発った。しかし、山の中で道に迷ってしまう。
そんな時、年老いた白い毛の猿が修行僧を導いた。
白毛の猿は齢100を越えていた。白毛の猿は若き猿の軽挙妄動を謝罪し、修行僧の取り計らいと村人たちの寛大さに感謝の意を示した。
以来、この山には猿の神、マシラサマがおわすということで、マシラ山と呼ばれるようになった。
村人達は山のふもとにマシラサマの祠を立て、食べ物や木の実を供えるようになったと言う。
もしかすると、この出来事はマシラサマが西荻の妻に命じて起こさせたのではないか——そんな推測とも呼べぬ妄想が、相生の脳内を駆け巡った。
無論、口にはしない。西荻に話せば小馬鹿にされるに違いない。
だが、確認しに行く価値はあろうと思えた。
西荻には「焦らず、ゆっくりと状況を確認することが大切だ」と毒にも薬にもならない一般論を口にして、それから一つ、あることを妻に尋ねるように伝えた。空に浮かぶ、月が見えるか、と。
西荻の畑を離れると、相生は自転車を漕いでマシラ山へ向かった。
マシラ様の祠は山の中にある。山に入る道の手前で自転車を止め、徒歩で向かう。
——相生の突飛な推測が正しければ、これは「R事案」だ。
空を見る。数日前、突如として空に現れた、昼夜を問わず浮かぶ————赤い月。
それはこのマシラ山の山中からもはっきりと見えた。
上から寄越された情報によると、この異状は玉兎市を中心として次第に広がりつつあるのだと言う。
赤い月は誰もが見るものではない。一部の人間のみが認識する事象であると報告を受けた。
そして、その赤い月の観測者はある儀式についての知識を自動的に得るということも。
——奉魂決闘。
玉兎市で密かに行われてきた、吸血鬼と人間の入り乱れるバトルロイヤル。勝者は真祖と呼ばれる存在に、望みをなんでも叶えてもらえるという俄には信じがたい魔術儀式。
しかし、相生はその情報のすべてを真実だと理解している。それゆえに、上から突然「R事案」に関する情報が回ってきたときも、疑い一つ抱かなかった。なにせ自分がその「R事案」の当事者なのだ。
上からの報告では、この「R事案」発生により、奉魂決闘の参加者は吸血鬼とその契約者に加え、赤い月を観測した人間すべてに拡大。さらに、赤い月を観測した人間にカードゲームを用いた戦い——決闘を挑まれた者もまた、赤い月の観測者になる事例が確認されているとのことだった。
問題なのは、その決闘の敗者は勝者の命令には絶対服従である、ということだ。
つまり、相生はこう考えていた。
西荻の妻はマシラ山を訪れた際、何者かに決闘を挑まれた。わけもわからぬままに始まった決闘に、西荻の妻は敗れてしまい、勝者の命令を無理やり実行させられることとなった。
その結果として、西荻の妻の手でカメラとネットが外された。
だが、そんなことをする人間はいないだろう、と相生は考えていた。
村人たちが赤い月の観測者になっていないかどうか、彼はそれとなく会話の中で確認するようにしている。
西荻は都会人丸出しの性格だから、彼を嫌う者がいないでもない。しかし、村人の中で赤い月の観測者となっている者は自分を含めごくわずかで、その中に西荻に嫌がらせをしようと考える人間はいないと相生は確信していた。
そう。つまり人間は犯人ではない。
マシラサマの祠。それは石でできた小さなものだった。随分と古いもので、表面には苔むしている。
その崖上に、サルがいた。
サルはこちらを見下ろすような格好で、じっと見ている。
相生は自分の推測に確信を得た。ああ——この雰囲気はおそらく、間違いない。
右手を翳す。念じるとその手の中に真っ赤なカードが出現する。
「——
世界が塗り替わる。
常緑樹生い茂る山中は一瞬にして荒涼たる世界へと変貌した。
真っ黒な空を血の魚が泳ぎ、地平線は赤く、周囲には墓標のごとき十字架の群れ。
ただ一つ変わらないのは——空の真ん中に浮かぶ赤い月のみ。
決闘空間が問題なく展開された。ということは————
相生は対面を見る。石でできた
「信じたくなかったが、まさか本当に猿が犯人だったとは……」
はあ、と息を吐き相生はデッキをセットする。サルもルールは理解しているのだろう。デッキをセットした。
「エクストラ・ペナルティを要求する! 僕が勝った場合、お前はこれまでに行った命令を解除し、二度と村人たちに決闘を挑むな!」
猿は人語を話せない。ゆえに
黒髪に黒の着物を着た、赤い瞳の審判者の少女は淡々と告げる。
「
相生が二つの要求を出したから、相手も二つ要求を出してきたようだ。
「怖い思い……ああ、追い出しのことか」
猿の被害の対処法の一つに、村人総出で行う追い出しというものがある。これは、猿に怖い思いをさせることで人間たちや民家・畑に行くと恐い目に遭うと学習させることで次回以降の被害をなくす、という試みである。
猿だって食べ物を求め、人里に降りてきているのだ。そんな状況なのにかえって怖い目に遭うというのは、かわいそうかもしれない。
だが。自分は伝承の中の修行僧ではない。村の交番に勤めるお巡りさんだ。村の平和と安寧のために、猿に優しくする余裕はない。
————そうして、決闘が始まった。
◇◇◇
問題を解決した相生に待ち受けていたのは、報告書の作成という難敵だった。
今回の一件は「R事案」の新情報として上にきちんと報告しなければならない。なにせ、人間以外の動物までもが、赤い月の観測者たりうるという話は、玉兎市にあるという本部ですら把握していない情報なのだから。
「……ってもなあ。猿とカードゲームで戦ったなんて……与太話にしか聞こえないだろ……」
相生はうんうん唸りながら、夜通し報告書作成業務と格闘した。
相生は説話の中の修行僧ではない。報告書の作成という迷路に迷う彼を導いてくれる者は、残念ながらいなかった。
◇◇◇
——さて。
ことのあらましを文章としてまとめてみると、一つ不可解なことがある。
相生は、報告書作成の手を止め、呟いた。
「…………そういえば、なんで西荻さんの奥さんは、マシラサマの祠になんかお参りしたんだ?」
西荻の妻はこの村の出身である。西荻がこの村で農業を営むと決めたのも、妻の実家がこの村にあるから、という点が大きいと聞く。事実、西荻の持つ耕作地はその殆どが、もとは西荻の妻——
「猿山……」
猿は、マシラとも読む。
猿山家の娘が、マシラ山にあるマシラサマの祠にお参りした。
時系列を考えるならば、土地・伝承が先で名字があとなのだろう。マシラ山があるからそのふもとに住む人々が猿山の名字を得た。
だから、この符合には何も不気味なものなんてない。
そう。そのはずなのに————
相生は背中をぶるりと震わせた。
12月の夜は冷える。だから、そう、寒いから震えたのだ。
自分をそう納得させて、作業に戻る。
————まさか、伝承に出てくるマシラサマが西荻の妻を祠に参らせた、なんて。
そんな非科学的なこと、あるはずがない。
気分転換に相生は交番の外に出て背筋を伸ばした。夜空を見上げれば、満ちつつある月が二つ。
相生は背筋の寒気をより強く感じ、交番の中へと引き返した。
(了)
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