5年前のプロローグ

 父が死んだと聞いて、私は中学校を早退した。


 大人達に連れられてやってきた警察署の一室で父の遺体と対面した。見苦しくないように整えてくれたのだろう。遺体の表情は穏やかなものだった。


 冷たくなった父を見て、ようやく私は父の死を実感した。


 安堵した。もうあの酒臭い声で怒鳴られることはないのだと。

 安堵した。もうあの大きな手で殴られることはないのだと。

 安堵した。赤らんだ顔をぐしゃぐしゃにして謝られることもないのだと。


 ————そして、あの温かな手が私の手を握ってくれることも、二度とないのだと。


 良い出来事も悪い出来事も、父と過ごす時間、父と経験するかもしれなかった可能性。その一切が永遠に来ないのだと理解したら、知らず、涙が溢れていた。



◇◇◇



 私がこれから先どうなるのかはまだ分からなかった。数年前に男を作って家を出て行った母親が見つかれば、そちらへ身を寄せることになるのだろうか——。

 いや、あの女が私を受け入れるはずもない。きっと施設に入ることになるだろう。


 とはいえ、今は大人達が進める諸々の手続が完了するのを待つことしかできない。


 日常の残滓にすがりつくようにして中学校に登校し、父と過ごした家に帰る。そんな日々がはじまって、まだ数日のころだった。


 家の前に黒服の男たちがいた。警察でも役所の職員でもないことは、その雰囲気で明白だった。


 男たちは私に気付くとすぐさまこちらへ走ってくる。逃げようとしたが無理だった。あまり運動は得意じゃない。


 男たちは私に言った。


「君のお父さんなあ、俺らに借金してたんだよ。んで、まだ返済が済んでなくてなぁ……つーわけで、嬢ちゃんに話がある」


 私の背後に、いつの間にか黒のセダンが停まっていた。


「一緒に来てくれるな?」


 下手に拒絶したら身体の色々なところを触られそうだったので、大人しく従った。



◇◇◇



 どうやら父は、闇金に借金をしていたらしい。


 警察からは父は他殺の可能性があると聞いていた。


 父を殺すなんて一銭の得にもならないことをしたのは一体どこの誰なのか——と思っていたが、どうやら彼らのようだ。男たちの話し振りから、私はそう判断した。


 おそらくことの真相はこうだろう。

 あの日、父は闇金から借金の催促を受けた。しかし口論となり、取っ組み合いの喧嘩にまで発展。父は闇金の男に身体を突き飛ばされた。その折、運悪く父はなにかに頭をぶつけてしまい——その傷が致命傷となった。


 父の死の真相になんて興味がなかったから死体発見時の状況なんて少しも覚えていないけれど、頭部の打撲が致命傷だったとは聞いた記憶がある。

 だからきっと、この推理で概ね正しいはずだ。


 ほどなくして、車は無機質なビル横の駐車場に停まった。


 後部座席に座っていた男に肩を押されて、車から降りる。周囲はどことなく寂れた様子で、この区域一帯が治安の悪い地域だということは誰に説明されるまでもなくわかった。


 空は厚い雲に覆われていて、今にも雨か雪が降り出しそうだった。そんな状況だったから、余計に良くない場所に見えたのかもしれない。


 男たちに促され、半ば無理やりにビルに入る。


 ちょうど、ビルから出てきたコート姿の男がこちらに向かって歩いてくるところだった。風貌はとても若々しいのに白髪だなんて——


 つい、目が奪われる。


 男が閉じていた目を開いた。その瞳は血のように赤い。


「————」


 私は、思わず足を止めてしまった。男も足を止めて、私を見ていた。


「おい、さっさと歩かんか!」


 私の後ろにいた黒服の男が声を荒らげて、すぐさま現実に引き戻される。


 私は再び、ビルの入口へ向けて歩き始める。


「大事な商売相手だから忠告しておくが」


 一切の感情を感じさせない、冷たい声だった。

 白髪の男だった。


「刑法第225条、営利目的等略取及び誘拐——お前達の行いは、それに該当する」


 私を連れてきた3人の男の一人が、白髪の男に食ってかかった。


「ああ? んだこの探偵風情が!」


 ——探偵?


「お前達はその娘を、自分達の『店』で働かせようとでもしているのだろう? 父親の借金を返す義務がある。だから働かなくてはならない——そう言いくるめて」


「てめっ——」


 拳が握られる。黒服の男が殴りかかろうとしたその時だった。


「おいやめろ。誰にでも食ってかかりゃいいってもんじゃあねぇ」


 仲裁に入ったのは、小綺麗なスーツを着た金髪の男だった。

 殴りかかろうとしていた男が「ウ、ウス……」と拳を下ろす。どうやらこの金髪の男が、彼らの上司らしい。


「ジンさん」


 さきほどの叱責する声とは一転、穏やかな声で金髪の男は白髪の男に話しかける。


「あんたはウチの商売に欠かせないお人だ。関係を悪くしたかねぇ。……だが、こいつはおそらく金になる」


「やめるつもりは、ないと言うのだな」


「その刑法なんたらについては、ウチのモン一人に全部おっかぶせりゃ済む話でさ。だから、そいつが原因でウチが傾くなんてこたぁねぇ」


 白髪の男、ジンはため息をついた。


「————先代が聞けば、雷が落ちるぞ」


「いもしねえ人間が雷を落とせるってんですかい? 道真公じゃあるまいに」


「娘、貴様の置かれた状況については、この通りだ。貴様はこれから無理やりにでも違法な店で働かされることになる」


 私に、どうしろと言うのだろう。


「その未来を受け入れるか、受け入れないか、どちらだ?」


 ——そんなの。考えるまでも、ない。


 私は、首を横に振って、ジンを見た。


「おいおい、受け入れるも受け入れないもねえっての」


 嘲笑うように金髪の男が言った。懐から取り出すは、黒い塊——L字のシルエットを持つそれが、ジンの方へと向けられる。


「どんなアンチエイジングか知らねえが、老いないアンタでもまさか、不死身とは言わねぇだろ?」


 ジンが金髪男の方へ顔を向ける。銃を前にして、彼に少しも怯えた様子はない。


 瞬間、空気を割る音が響いた。


 ジンの身体が倒れる。

 倒れた——かに思えた。


「良い……腕だ」


「「!?」」


 ジンの身体が、倒れかかった上体が、起き上がる。


 その額には、たしかに銃弾が打ち込まれていた。だが、まるで逆再生を見ているかのように銃弾は額から排出され、傷もまた塞がっていく。


「先代は、相当お前に目をかけたと見える。ゆえに残念でならない。人格面の教育には、失敗していたという事実が」


「なんっ……なんだよテメェ……ッ!」


 金髪の男の顔が恐怖に歪む。


 再び銃弾を放とうと、引き金に手をかけたその時だった。


「——【邯鄲之夢ディプライブド・ドリーム】」


 ジンが告げた瞬間、世界が塗り替わった。


 曇天の空は灰色を通り越して真っ黒に。

 大地は真っ白で、ビルも道路も消えている。

 人間だって、私とジン、そして金髪の男の三人だけ。


 異様な光景だった。


 地平線の彼方はひたすらに赤く、絵の具の扱いが不得手な子供が朝焼けを描こうとしたらこうなるのではないかという色彩。


 私たちを取り囲むのは幾億もの仏像。

 そして真っ黒な空を舞うは、不死鳥のごとき威容の鳥たち。


「…………!?」


 言葉も出ない。まるで悪夢の中にいるかのような光景だった。


 そんな状況で、ジンだけが淡々と落ちつき払って言う。


れは己れ自身のポリシーとして、己れが認めた側に付くことにしている。ゆえ、お前達にはこれからあるカードゲームで戦ってもらう」


「はあ!? 何言ってんだよテメェはよ! クソ、なんかのトリックだ……そうに決まってる……テメェを撃てば……」


 金髪の男は、自分の手を見て愕然とした。


 さっきまで握っていたはずの銃が、消えている。


「——ここはあくまで己れが作り出した一種の精神世界。無粋なものの持ち込みは禁じている」


「なっ…………」


「話を戻すぞ」


 ジンは、私と金髪の男、それぞれの目の前にある白い木で作られたと思しき小さな卓を指差す。そこには、真っ赤な血のような裏面をしたカードが40枚の束になって積まれていた。


 不思議と、数は数えるまでもなくわかった。


「これからお前達には、そのカードゲームで戦ってもらう。勝った側は願いを叶えることができる。すなわち、この娘が勝てば、娘は自由だ。一方、お前が勝てば、この娘を好きにできる」


「————っ!」


 それはつまり、私の未来がこんな紙切れの戦いで決まってしまうということだった。

 普通ならそんなことありえないと否定するところかもしれないが、この異常な状況を考えれば、ジンの言葉は真実としか思えなかった。


「——ゲームの名は、真紅断片クリムゾン・フラグメンツ。互いの魂こそ賭けぬが、願いを賭けた戦いだ。全身全霊を尽くし、勝負に臨むがいい」


◆◆◆


 ————————失った記憶の、夢を見た。


 もう二度と思い出せないと思っていた記憶の扉が、開かれたような、そんな感覚とともに私は目覚める。


 残念ながら夢の記憶は目覚めた瞬間に失われていた。


 きっと、どれだけ頭を捻っても、思い出すこともできないのだろう。


 まだ夜明け前。この家の住人たちはみな眠っているようで、廊下を歩いても洗面所に来ても、誰にも会わない。


 洗面所の鏡に写るのは白髪に赤目。14歳の姿のままの私だった。


 あれから5年も経つというのに、一切の変化がない身体。


「…………そういえば、ジンさんも同じ髪と瞳の色でしたね」


 ぽつりと、そんな独り言を呟く。


 ただの偶然の一致だろうが、かつてのパートナーと同じ髪、同じ瞳の色というのはなにか運命的なものを感じないでもない。


 ——この先の戦いには、あの人も出てくるはず。


 彼の異能——【邯鄲之夢ディプライブド・ドリーム】は厄介極まりない異能だ。警戒するに越したことはない。


 とはいえ、一番に警戒するべきはやはりだろう。


 私が今度の奉魂決闘で望みを叶えるならば、彼女を出し抜き、計画を完遂する必要がある。


 顔を洗い、意識を引きしめて息を吐く。


 ——もう少しだ。もう少しで、私は5年前からの願いを叶えることができる。


「あれ、今日は早いのね。クローディア」


 この家の家主、宵星アカリが声をかけてきた。いつもこんな時間に起きてるのか。


 呆れつつ、私は笑顔で応じた。


「おはようございます、アカリさん」


 そうして、今日も私は願いを隠して日常に溶け込む。



(了)

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