第26話

 それ以来、スイが王子の姿を見ることが増えた。最初は会えない王子にやっと一目見られたということに満足していたが、頻繫に見るにつれ、今度は言葉を交わしたいと考えるようになった。




 今日もスイは、王子が音楽を奏でながら、旗をなびかせた美しいボートに乗って夕方の海に出ていくのを眺めていた。日が暮れた後、漁師達が松明を灯して漁をしながら、あの王子を褒めるていることがよくあった。スイはその話を聞くたびに、あの日のことを思い出し、嬉しくてたまらなかった。そんな王子の頭が自分の胸の上にじっともたれていたことや、王子の額に心を込めてキスをしたことなども思い出す。しかし、王子はそのことを知らないのだ。スイに助けられたなど、露程も知らないのだ。




 そんな日々を繰り返していくうちに、スイは人間の世界へ行きたいと願うようになる。スイ達人魚は、海の中でしか生きられないが、人間になれば、海の上を船で走ることができ、雲の上まで聳え立つ山に登ることもできる。それに、陸地には森や畑があり、それがどこまでも遠くまで、スイの目が届かない所まで広がっているのだ。




 もっと陸のことを知りたい、スイは姉達に陸のことについて聞いてみるが、誰もが陸のことを詳しく知っているわけではない。そこでスイは、おばあさまに聞いてみようと思った。長く生きているおばあさまなら、陸のこと詳しく知っているからだと思ったからだ。




「上の世界のことを聞きたい?」


「……うん!」




 スイの予想通り、おばあさまは陸のことを誰よりも知っていた。




「人間って、溺れて死ななければ、いつまでも生きることができるの? 私達のように死ぬことは無いの?」




 スイの疑問に、おばあさまは大して悩む素振りを見せずに答える。




「いいや、人間だって死ぬさ。それどころか、わたし達の一生より短いのさ。わたし達は三百年は生きられる、だけど人間は百年も生きられない」


「あ……」




 スイ達人魚の寿命に比べ、人間の寿命は短い。人魚が一生を終える前に人間達はどれだけ入れ替わるのだろうか。人間達からすると、人魚は途方もない年月生きていくことになる。それはまるで不死の生き物のように。




 だから、いくらスイがあの王子を好きでも、もし仮に一緒に過ごすことができても、別れは必ずやって来る。




「けれどね――」




 そう言っておばあさまは続ける。




「人間にはいつまでも死なない魂というものがある。わたし達は死んでしまえば泡になって海の面に浮いて出てしまう。海の底でお墓を作ってもらうこともできない。わたし達は、死ぬことのない魂というものが無ければ、もう一度生まれ変わるということも無い。だけど、死なない魂を持つ人間は、体が死んでしまっても生き残っているのさ。死なない魂は澄んだ空気の中をキラキラ光って、綺麗なお星さまの所まで昇って行く。わたし達が海の上に浮かび上がって、上の世界を見るように、人間の魂はわたし達が決して見ることができない美しい所へ昇っていくのさ。そこは天国といって、人間にとっても前から知ることのできない世界なんだがね」


「……どうして私達は死なない魂を授からなかったの」




 おばあさまの話を聞いて、悲しくなってきたスイが聞く。




「それなら、私の生きられる何百年という歳なんていらない。その代わりに、たった一日でもいいから人間になりたいわ」




 たった一日でもいいから人間になって、あの王子の下へ行きたい。




「そんなことを言ってはいけない。わたし達は上の世界の人間よりもずっと幸せなのさ」


「でもそれだと、死んだ後はなにも残らない。あの方と……」




 その続きは嗚咽に変わり、スイは手で顔を覆ってしまった。




 おばあさまどうしたものかと悩む素振りを見せた後言った。




「たった一つだけ方法がある」


「……ほんとう?」


「本当さ。人間の中の誰かが、おまえを好きになって、それこそ誰よりもおまえのことを好きになってもらうのさ。心の底から、なによりも一番愛してもらうのさ。すると牧師さまがその人の右手をおまえの右手に置きながら、どこでも、いつまでも心は変わらないと固い誓いをたててくださる。そうなれば、その人の死なない魂がおまえの身体に伝わる。つまり、おまえはその人の死なない魂を分けてもらうということさ」




 スイの目が輝きだす、そうすれば自分は死なない魂を、あの王子から分けてもらい、永遠に共に過ごすことができるのではないかと。




「それなら――」


「だがね、そんなことは起きるはずが無いのさ」




 抱いた淡い希望をおばあさまが握り潰す。




「わたし達人魚の持っている魚の尻尾。これが人間には醜く見えるのさ。だからその代わりに人間は格好の悪い二本のつっかえ棒を持っているのさ」




 スイは自分の魚の尻尾に目を落とす。人間には醜く見える、あの王子がこの尻尾を見た時のことを想像してしまいそうになったが、おばあさまの続く言葉がそれを止めてくれた。




「今日は舞踏会を開こう! 跳ねたり踊ったりして、三百年の間楽しく暮らそう!」




 スイを元気づけようとしてくれているのか、楽しそうにおばあさまが宣言する。




 嫌なことを考えずに済んだのだが、今のスイには舞踏会は楽しめそうではなかった。

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