第8話

 翌朝、碧は少し早めに起きて、翠に会社を休むように説得しようと思ったのだが、予想以上に疲れていたのだろう。目を覚ました頃には、すでに社会は動き出している時間だった。




 当然隣にいるはずの翠はいない。慌てて跳ね起きた碧が部屋から出ると、なぜか昨日の夕食の匂い、具体的には煮物の匂いがした。




 もしやと思ってリビングへ向かうと、翠がレンジで温めたのであろう煮物の入った器をテーブルに置いていたところだった。




「お……おはよう」




 目を逸らしてそう言う翠の耳はほんのりと赤みを帯びていた。




「あ、おはよう。えっと……仕事は?」




 この時間にいるということは休んだのだろうが、一応聞いてみる。




「休んだの……碧と一緒にいたいから」


「そうなんだ」




 やはりそうだった。碧はホッと息を吐く。




 元々翠に休んでもらうように言うつもりだったのだ。だから翠が休んでいてもなにも言うまい。




 とりあえず顔を洗ってこようと、碧は洗面所へ向かう。




 まさかの展開のおかげで、起きたばかりだというのに頭は回る。顔を洗いながら、今日はどうしようかと考える。




 翠の喜を解放するために、なにをすればいいのか。それは翠と言葉を交わせば分かるのか。




 心の底から、翠を喜ばせるにはどうするべきか。




 タオルで顔を拭いて、リビングへ戻る。




 とりあえずは翠と話さないことにはなにも変わらないだろう。今度は噓をつかず、誤魔化さずに話そうと、翠の前に座る。




 その前に――。




「そういえば、翠がご飯用意してくれるのって初めてだよね?」




 家事は碧の仕事だ。だから、翠が今までご飯を作ってくれるなんてことは無かった。無かったというか、碧が作らせなかったのだが。




 一応、翠も人並みには家事はできる。




 今日は作るというよりか、温めただけなのだが、それだけでも新鮮だった。




「ええ、そうね。でも、たまにはこれぐらいさせてほしいわ」




 朝食というか、昨日の夕食の続きに近いが、昨日とは雰囲気が違う。落ち着いて、楽しい食事の時間になりそうだ。




「やっぱり、煮物って一日置くと味がよく染み込むわよね。美味しいわ」


「うん。嬉しいな」




 これがいつも通りの、二人の食事風景だ。




 この心地よい空間を壊したくない。今はまだ、食事に集中しよう。今日は始まったばかりだから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る