第7話
「碧……」
ゆるりと、翠は自分で身体を支えて碧へ向き直る。
「どうしたの?」
「私のこと、好き?」
「うん。好きだよ、愛してるよ」
そう言って碧は強く抱きしめる。
翠の表情は見えないが、穏やかな口調だ。
「なにがあっても?」
「うん。なにがあっても」
むしろそれは碧の方こそ聞きたかった。禁術を使ってまで翠を蘇らせた。そんな自分と、一緒にいてくれるのかと。
「ありがとう。私もよ」
薄く笑った翠は立ち上がる。
碧もつられて立ち上がるが、翠の顔は見えず、するりと碧の腕から抜け出した翠が部屋を出る。
「翠⁉」
振り返った碧はそのまま外へ出ていこうとする翠の後を追う。
ゆっくりとした足取り、普通に歩いてもすぐに追いつける速度。碧は小走りで翠に追いつく。
「もう夜だよ、どこに行くの?」
そう言って翠の前に回り込む。だけど、翠の目には碧に向かず、その先を見つめている。
黒く濁った目が、碧ではない誰かを見ている。
そのまま碧を押しのけて、翠が外へ出ようとする。
「待ってよ! 急にどうしたの⁉ なんか変だよ! 今の翠は!」
「変? 変じゃないわよ、これも私なの」
「――っ⁉」
それを言われてしまうと碧にはどうすることにもできない。だってそれが翠なのだから。
碧の知らない翠なだけだ。翠には変わりない。それを、自分が受け入れられないからと、否定することはできない。
それにさっき言ってしまった。なにがあっても翠のことが好きだと。
いや、なにがあっても翠のことが好きだといった。だからといって、見るからに危うい大切な人をそのままにすることなどできるか。止めるのと拒絶は違う。
「でも!」
声を出すが、その続きはなんと言えばいいか分からない。なぜいきなり変わってしまったのか、その答えはあるはず。もしかするとその答えは菫が知っているのだろうか。
だからといってそう言っても翠が止まってくれるとは限らないし、噓をついてもまた翠を怒らせてしまう。
考えても仕方が無い。
碧は再び翠を抱きしめると、今度はその頭を優しく撫でつける。指を通る黒くて綺麗な髪の毛からシャンプーの匂いが香る。
「今日は、一緒にいて欲しいの」
そう囁くと、今までのことが噓だったように翠の動きが止まる。
翠の顔を見てみると、目に涙を溜めて、不貞腐れた様子だった。
「ははっ、こんな小さな子供みたいな翠、初めて見た」
これも翠だ。とても愛おしくて、絶対に消させはしない。
「……嫌いになった?」
「ううん、ずっと大好きだよ」
不安気に聞いてくる翠に淀みなく答える。
甘えるような声を出して、碧に頭を擦りつけてくる。撫でろということだろうか、勿論断るなんてことは無い。
その場で腰を下ろして、翠を抱きしめて優しく撫でる。
今まで顔を伏せていた翠が不意に顔を上げた。そのまま目を閉じて少しだけ唇を突き出してくる。
ここまで甘えてくるなんて、この世界の翠も、当然元の世界の翠も自分から甘えてきたことは無い。いつも甘えるのは碧の方からだ。
いつもと立場が逆になっただけだ。碧はいつも翠にしているように、軽く相手の頬に手を添えて唇を重ねる。
あのまま翠を甘えさせてしばらく、二人で風呂に入って、一緒に寝ようと翠の部屋へ。
翠の部屋も碧の部屋も、ベッドは二人で寝ても余裕がある大きさだ。ただ、翠の帰って来る時間が遅いと、碧を起こしてしまうため、別々の部屋で眠るのだが、休みの日などは一緒に寝ていたりする。
明日は仕事なのだが、今日は特別だ。離れてくれない翠と一緒にベッドへ潜り込む。布団がいらないと感じる程温かい翠の体温を更に感じるため、腰に手を回して身体を近づける。
いつもなら翠が碧を抱きしめるのだが今日は逆。碧の鼓動を聞いて安心しているのか、翠はすぐに目を閉じる。静かな空間で、規則正しい翠の寝息が聞こえる。
翠が眠り、一安心した碧は、この後はどうするべきかと考える。
今は落ち着いているが、またさっきのような、おかしな翠になるかもしれない。なにがきっかけでそうなったのかは分からないからこそ、気をつけねばならない。
碧も四六時中翠と一緒にいる訳ではない。もし明日、会社でさっきみたいになられてしまうと碧にはどうしようもできない。
明日は休んでもらうにしても、ずっとそれを続けるのも難しいだろう。こうなった原因として、菫のせいだということも考えられる。
早くどうにかしなければならないが、どれだけ焦っても解決策はなにも浮かばない。
翠の喜の感情を解放するか、喜の感情を無くさせれば、この世界は消える。碧の目的は喜の感情を解放すること。
そう言われて思い出す。碧がこの世界へ来たのは、翠の喜の感情を解放するためだ。翠の喜の感情を無くさせないようにするためでは無い。
似ているようで違う。どれだけ喜の感情を無くさせないように頑張っても意味は無い。だが、どうやって解放するのか。
考えてもなにも浮かばないが、改めて、自分がどう動くべきかを知ることができた。
碧も今日は疲れたため、細かいことは明日考えることにしようと意識を手放すのだった。
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